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「真実」とは何者か?

「真実はいつもひとつ!」

某国民的名探偵もそう言っていますが、世の中で起こるあらゆる事柄の裏側には必ず “不変的な真実” があります。

りんごが木から落ちるのも、パン屋さんに行列ができるのも、感染者が増えたり減ったりするのも、なぜそうなったかを完璧に説明できる揺るがない真実が裏側にはあるのです。

真実を語る人

ただ実際のところ、真実は多くの場合簡単に見ることはできません。その周辺のあらゆる事情をすべて完全に知りつくしている存在にのみ見えているものです。

それなのに “真実を知っている人” というのはどうやらたくさんいて、”知らない人” に真実を振りかざしたり “別の真実を語る人” と対立したり、そういうシーンを目にすることも多々あります、インターネットの世界なんかだと特にです。

今日はその「真実」の扱いについてちょっと考えを巡らせてみます。

真実を真実といえる根拠

人が真実(だと信じていること)を主張するとき、”それが真実であると言える根拠はどこにあるか?” について考えてみます。

(1)◯◯がそう言っていたから

これは権威のある専門家や信頼のおける友人が言っていることを聞いて腑に落ちたというような場合です。

自分よりもその筋に詳しい専門家が言っていることは正しそうに聞こえますし、信頼する友人が嘘の情報を言うはずはないのだと、なんとなく無条件でそう思ってしまうところは多少なりともある気がします。

しかし、「誰が言ったか」自体は(その人が全知全能の神様でない限りは)そもそも直接的に真実を裏付ける理由にはならないですし、もし仮にその人がいつも正しいことを言っていたとしても今回正しいとは限りません。

真実かどうか考える上では、誰が言っているかではなく何と言っているかに注目した方が良さそうです。

(2)そういうデータ/事実があるから

裏付ける客観的な事実やデータがある場合、たしかにそれは真実と言っていいような気がします。

それが虚偽や間違いである可能性もゼロではないですが、仮にそうではないことを前提とすると、そのデータ/事実そのものは紛うことなき1つの真実です。

ただ、それをもとにした「解釈」は必ずしも真実ではありません。
真実にたどり着くために必要なすべてのデータが完璧に取れていて、関係するあらゆる事実が見えていれば話は別ですがそんなことはまずないですし、未来のことが絡むのであれば必然的に確率でしか語れません。

つまりデータ/事実をもとにしたある解釈について「それが真実か否か」という問いの答えに確証を得ることは、大前提不可能なのだと思います。

(3)そうだから

「根拠とかではなく、とにかく真実なのだ」という場合です。

これはその人の直感に由来するところが大きそうです。中には「そうであってほしい」「そうでないとやってられるか」という願望が意図せずとも込められていることもあるかもしれません。

客観的な根拠があるわけではないので、少なくとも現時点でそれが真実である可能性は高くはなさそうです。多くの人に賛同されることもなかなか難しい気がします。

ただ、データ/事実が無いからと言ってそれが真実ではないとすべて却下されるべきとも思いません。完全に否定する根拠が無い限りは、それが真実である可能性はゼロではないですから。

結局のところ

大体の場合において、特にそれが複雑な事象であればなおさら、人間が語る真実というのは “もしかしたら本当に真実かもしれないし、そうじゃないかもしれないもの” なのだと思います。
(一周回ってめちゃくちゃ普通のことを言っています)

すべての主張はその大前提の上にあるものだと全員が心得ていれば、お互いがお互いの主張を最低限尊重できて、相手を過度に否定するとか、無理に押し付けるとか、そういう不毛な言い争いは少なくなるのではないのではないかなと思います。

その上で様々な知識や考えやアイディアを持った人たちが意見を出しあいながら真実に近づいていけたらすごく素敵だと思います。


端的に言えば、謙虚で誠実な姿勢でみんなで真実に近づこうとする世の中っていいよね、という話でした。

おしまい。

aso


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