60kmの帰寮で暖かいコーヒーを飲んだ話
帰寮で感じた事等をつらつらと書いていこうかと思います。まさかnote初投稿が帰寮の記事になるとは思いませんでした。物凄く長いので、目次から読みたい所だけでも見て行って下さい。
エクストリーム帰寮とは:
熊野寮祭の目玉企画で、真夜中に車に乗せられ、距離を指定して、その距離だけ離れた場所に降ろされ、(原則として)GPS,財布無し、帰巣本能のみで帰ってくるというエクストリームな企画
私とは:
私は京大理学部2回生の寮外生で、去年もエクストリーム帰寮に参加している。高知で生まれ、神戸にて1年の浪人を経て京都に来ている。となかい。(@yosanoakiko334)という名前でTwitterをやっている。
EX帰寮への参加
11/27、私はエクストリーム帰寮に参加した。今年の参加は2回目で、去年の参加の際は50kmを指定し甲賀市まで飛ばされ、ひたすら1号線を歩いて帰ってきた。去年の話も沢山したいのだが、今年私が体験した事が濃すぎたのでそれはほどほどにして、今年の話をしよう。そもそも私は今年はこの企画に参加するつもりは無かった。課題やサークルが忙しく、1日+α潰れるのが嫌だったし、単純にしんどいからである。事の発端は、今年初めてEX帰寮に参加する友人が、参加するにあたって気を付けておく事等を聞いてきた事だった。私は、去年の事を思い出すよすがとして、写真を遡って見たり、自身が実況した去年のツイートなどを見ていたのだが、それを見るうちに美化された記憶だけが思い出され、去年の「京都まであと17km」の青看板を見た時の絶望などすっかり忘れて、「あ、EX帰寮楽しかったな」と思い、参加を決意した。
出発(熊野寮0:00)
EX帰寮には、理学部で仲の良い同期2人(友人Sと友人M)と、合計3人で参加した。私は眠たかったので早めに集合場所である熊野寮に行ってロビーで寝ておこうと、集合時間の3時間前ぐらいに行った。結局帰寮前のすこしの緊張とすこしの高揚、大きな不安によってか、殆ど寝る事は出来なかったのだが、ロビーに帰寮する3人のメンバーと仲の良い、そして去年私と共に50km歩いた友人Fがいた。話を聞くところによると、今年はドライバーとして参加するらしい。EX帰寮では参加者を実際にどこに飛ばすかはドライバーの裁量に委ねられる。彼は私たち3人を飛ばすドライバーになると言ってくれ、ギャハギャハと笑いながら私たちを飛ばす場所を決めていた
帰寮メンバー3人が集まると、車に乗り、いよいよ出発だ。車での移動はかなり苦痛だった。車の中では下を向いているので景色を楽しむ事もできず(景色を見て帰り道が分かってしまうため)、ただじっと飛ばされるのを待つ2時間だった。
到着。エクストリーム帰寮開始(0km,2:00)
午前2時すこし前、私たちは降ろされた。外はとても寒かった。少し雨が降っていたような気もする。ドライバーに記念撮影を撮ろうと促されついていくと、「篠山城跡」と彫られた石があった。記念撮影を終えると、ドライバーはニヤニヤしながら立ち去っていき、我々はスタスタと来た道であろう所を歩いた。ほんの100m程で小さな町に着いた。「京丹波」「篠山」。京丹波は聞いたことがある。京都の北の方にそのような地名があった気がする。我々は北の方に飛ばされたのだろうか。ただ様子がおかしい。駐車場やガレージに止まっているいる車が全部神戸ナンバーだったのだ。
「西のほうに飛ばされたのか?兵庫なんて瀬戸内沿い以外地獄みたいな山しか無いに違いない。寧ろ神戸まで南下して市街地を歩いた方がマシか?」
色々な事を考えたが、EX帰寮において最善策は常に歩く事なので、地図で見つけた南東に伸びてそうなイイカンジの道を選んで進む事にした。
歩く(3km,2:20)
その道を進む事およそ10分、最初の青看板が見えてきた。「三田」「亀岡」。三田は神戸での浪人時代に見たことがあった地名であった。亀岡は友人Mが、京都市の隣だと知っていたので、亀岡方向に歩くという方針に決まり、我々は歩いた。
運命の分かれ道(372号線→173号線)(11km,4:00)
やっと始まったEX帰寮。始まって早々足に異変が訪れた。足首が痛くなってきたのだ。足首が痛い事自体よりも、これから60km歩くのにこんな序盤でペースダウンしてたらいけないと思い、痛いと口にも出さずに、足首に負担がかからないような歩き方で早歩きで先頭を歩いた。
歩いていくと長距離ドライバー用のようなコンビニがいくつかあったので、トイレ休憩をした。しかし、ここで大きな問題が発生した。コンビニ休憩で気が抜けていたのか、休憩後に進む道を間違えてしまったのだ。この後に地獄と天国を見る事になるのが分かったのは3時間程後の事である。当時の3人はそんなことつゆ知らず、とにかく前へ前へ歩いて行った。
県境を反復横跳び(14km,5:00)
歩いて行くと、段々道が登って行ってる事に気が付いた。どんどん道が登っていく。どうやら都道府県を越えるトラックが通る道を歩いているようだ。標高がどんどん上がっていくのが分かった。勾配がかなりきつい事、まだまだ山を登らねばならぬ事、そもそもまだEX帰寮が始まって4時間程度な事、どれをとっても絶望しか無く、ペースはかなり落ちた。日の出が近づいて来て気温もどんどん落ち込み、さらに少し雨も降っていたので、とても寒かったのを覚えている。絶望の中山を登っていくと、思いもよらない看板を見た。
私の中の日本地図が吹っ飛んだ。兵庫と京都は接しているはず。直線で帰寮しようとしたら多分大阪は通らない。もしかしたら回り道しているかもしれない。もう少し進むと更に思いがけない看板を見つけた。
更に進むと(ry
もうなんなんだこれは。
京都着。EX帰寮開始2(21km,6:00)
兵庫県と大阪府の間を反復横跳びして30分程歩くと、「京都府、亀岡市」の青看板が見えてきた。まだ日が登らないうちに京都府に入れたのは、かなりいいペースだったと思う。ただ2時間程ぶっ通しで凍えるような山を越えたので、かなり疲れていたと思う。
「次のコンビニで朝ごはんを食べよう」
この言葉が地獄だった。最悪だった。ネタバレするとこの先2時間はコンビニが無い。バカじゃねーの???次のコンビニまでの距離が分からない分、歩くのがかなりしんどかったが、やはり歩くしかないので歩いた。
コーヒーの温かさ、人の温かみ(26km,7:00)
日が昇り始めた。空気は冷え込み、持ってる服全部着た。日の出の綺麗な写真を苦笑いで撮り再びコンビニを目指すが、歩けど歩けどコンビニは見えてこない。時々集落を通るだけで、一向に市街地に着かない。本当に亀岡「市」なのか?とにかく朝ごはんだけでも食べようと、あわよくば公園、なくてもベンチのようなものに腰かけて一息つきたいとキョロキョロしながら歩いていくうちに、EX帰寮が始まって最初の通行人とすれ違った。第一村人発見。せめて次のコンビニまでの距離だけでも知りたく思い、友人Mは3人目ぐらいにすれ違った犬の散歩をしている女性の方に、声をかけた
「すみません、この辺にコンビニとかってありますか?」
「いやーーコンビニは無いかなーコーヒーとか買うの?」
「あーそんな感じですね」
「それやったらうちで淹れてあげるから来なよ」
「「「えっ!!!!!!!!!!!」」」
3人はその女性にすがるように付いて行き、家にあがらせてもらった。とてもオシャレな家で、すんごいおっきかった。3時間ぶっ通しで歩いたエクストリームな状態で出されたコーヒーは体の真ん中まで染みた。コーヒーだけじゃなく、お菓子やパンまで出してくれて、私は遠慮を知らない子供のように食べた。歩いて京都に帰る事、篠山から歩いてきた事を話すと、京都までの道を考えてくれた。とにかく9号線に向けて進めば良いという事が分かった。結局2時間程ゆっくりしてしまった。雨風凌げる建造物の暖かさと見ず知らずの怪しい大学生に朝ごはんを振る舞う温かさには名残惜しいが、歩かねば帰れないので私たちは出発した。
次のコンビニ(32km,10:30)
次の目標は9号線。そこに向けて私たちはどんどん進んで行った。家を出た直後は上り坂だったが、さっき飲んだコーヒーとパンで気持ちが満たされていたのでペースを上げてもへっちゃらだった。へっちゃらではあったのだが、身体は確実に疲労していった。先ほどお邪魔した時に、2km程先にコンビニがあると聞いていたのだが、いつまで経ってもコンビニが見えてこない。さっきまでは真っ暗な中歩くという非日常感にわくわくしながら歩いていたが、もう日が出てかなり時間が経っている今は、ただちょっと早起きしてお散歩しているだけだ。メンタル的にもきつくなってきた。次のコンビニに着いたのは1時間後、5km程歩いた所だった。時刻は10時半を過ぎたあたり、EX帰寮開始から8時間半が経っていた頃だ。やっと着いたコンビニだが、悠長に休憩してる場合ではない。少しのご飯を食べて、さっき頂いた野菜ジュースを飲んですぐに出発した。
歩くフォームを考える
このあたりから精神的に辛くなってきた。脚が前に出ない。歩幅が短い。精一杯早歩きをしているのにも関わらず、共に歩く友人達に追いつかない。100mごとに少し走らなければ、どんどん置いてかれる。自分の歩くフォームを意識したのは初めてだった。私は腕を大きく振り、少し前のめりになる事でなんとか友人達について行けた。
9号線との出会い(41km,11:30)
9号線が近づいてきたころ、ペースメイカーがペースを上げた。後で測ってみると10km/hぐらいの速さで歩いていたらしい。信号待ちの間にふとTwitterを覗くと、もう熊野寮に到着している人がちらほら居るらしい。私たちはまだ9号線に乗れてもないのに。この時、本当に辛くて辛くて、涙が目のすぐ裏まで出ていた。多分一人で帰寮していたら泣いていた。でも一緒に歩いてくれてる人の士気を下げるような事はしたくない。涙をぐっと堪えて9号線を目指した。9号線に乗ったのはその10分後ぐらいだった。
歩く
9号線は、亀岡市から京都市に伸びており、最終的に五条通になる国道だ。つまりもう分かれ道で迷うことなく道沿いに歩けば京都市に着くという事だ。ただその道のりはまだまだ長い。雨が降ってきた。これまでよりも強い雨だ。雨が降ると、濡れる不快感よりも、筋肉がこわばってより疲労しやすくなる事が問題だ。レインコートは持っていたが、立ち止まって出す元気が無い。立ち止まると動けない気がする。立ち止まると京都に着かない気がする。EX帰寮で最も辛いのは歩く事なのだが、楽になるために最も良い方法も歩く事なのだ。ペースを落とさずに進む事、これが一番楽な道。私たちは喋る元気も無く歩いて歩いて歩いて歩いた。
雨宿り
雨がかなり強まってきたので、コンビニに入って雨宿りをする事を提案した。ついでに私はトイレをすませたのだが、トイレから出て来た時に、少し遠くから見る二人は、とても疲れ果てていて、勉強に追われ徹夜しまくっていた期末テスト前の方がまだ元気そうだった。雨宿りをしていると、ドライバーから安否確認のLINEが来た。
確かに目が死んでいた。唯一笑っている一番左の友人Mも、目だけは笑えてないようだった。
老ノ坂トンネル(48km,14:00)
この後の事は正直あんまり覚えていない。最後の山登りだった。ランニングハイみたいな気持ちになっていて、あまり辛くなかったような気がするとか言ったら当時の私に怒られるかもしれない。気が付けば峠の一番上、老ノ坂トンネルについていた。これを超えれば京都市らしい。かなり嬉しかった。やっと亀岡市から脱出できる。歩行者用トンネルをぴょんぴょんしながら歩いた。トンネルを抜けて5分足らずで、京都市の看板が見えてきた。本当に本当に嬉しくて、泣きそうになった。京都市の看板の前でみんなで写真を撮ったりした。京都市に入ってもまだまだ熊野寮までは長い事は分かっていた。分かってはいたが、精神の防衛のため、考えないようにした。
足の痛み
京都市と亀岡市の間の最後の山を下っていく間に、足に異変が起きた。右足の外側に激痛が走る。しかも骨が痛んでいるような痛みだった。右脚を前に出す度にそこがズキズキと痛む。
「もしここで動けなくなっても、交通量の多い片側一車線の山道で、帰寮の運営の方に回収をお願いする事すら難しいだろうな。」
リタイアするつもりは全く無かったが、そんな状況が心にくる。進むしかない。でもまだまだ道は下る。一向に平地になってくれない。私の知ってる京都市はどこだ?
悟りを開く
足の痛みが脳に響く。脳がちょっと待ってくれと言っている。脳は休めば楽になると言っているが、私は歩けば楽になると思っている。痛みに耐えながら歩いていると、あるとき「分かり」が来た。これまで痛みを耐えようと、なるべく痛くならない歩き方を目指していたが、痛みを受け入れ、痛みを感じた上で、なにも反応しないようにした。痛くないふりをしているのではない。痛みを受け入れているので顔を引きつらせる必要もないし、脚を引きずる必要もない。痛いのは分かったから歩こう。そう脳に言い聞かせて歩くと、不思議と楽になった。ハイチュウを3つ口に押し込んでとにかく歩いた。
休憩(53km)
共に歩いていた友人Sの脚にも異変は起きていた。太ももか腰あたりが痛いらしく、歩くペースが落ちていた。脚を引きずりながら歩いている。とても辛そうだし、私も辛かった。一番元気な友人Mに一度ベンチに座って休もうと、提案され、座ってしまった。座ってしまった。大変だ。立ち上がれない。眠い。ここで3日ぐらい寝てから歩き始めたい。いやもう歩きたくない。シャワーを浴びてお布団に入りたい。弱音を吐きそうになった時、生命の危険を感じたのか、身体が動いた。立ち上がれた。危なかった、ここで立ち上がれなかったら1時間はグダグダしていただろう。
「行こう」
多分5回ぐらい友人Sに歩き始めるよう促した。友人Sはしんどそうに立ち上がり、また歩き始めた。
突然だがここで(脚の)イカれたメンバーを紹介するぜ!
友人M:一番元気。多分走って帰れと言われても帰れる。というかこの後走る事になる。
友人S:脚が死んでいる。顔も死んでいる
私:足の外側が痛い。足が痛すぎて悟りを開いたと思っている。少しお腹が空いている。
桂キャンパス(56km)
共に歩く友人Mは
「桂キャンパスが近くにあれば、シャトルバスで帰れるのになあ。」
と仰った。すると桂キャンパスがあった。正確には桂キャンパスまであと500mという看板を見つけた。ただ今日は土曜日だし、もう夕方だ。バスがまだ走っているか分からない。そこで元気な友人Mに桂キャンパスでバスが走っているかどうか確認しに行ってくれた。私と友人Sはというと、バスが無かった場合に備えて前に進むことにした。
「エクストリーム帰寮の方ですか?」
結局バスは無かった。桂からシャトルバスで帰るのは、とてつもなく楽な上、コンテンツ力も強いため、かなり期待していた分残念だった。ただ仕方ない。現実とはそういうものだ。バスが無いと分かると、足がまた痛み出した。もう受け入れられない程の強い痛み、頑張って悟りを開こうとするが、顔が引きつる。脚を引きずりながら歩いた。こんな状態になると、実況ツイートをする元気もない。とにかく痛みと戦いながら進んでいると、後ろから声をかけられた
「エクストリーム帰寮の方ですか?」
反射板のタスキを付けた2人の男性が居た。満身創痍の私と友人Sとはうってかわってとても元気そうにスタスタと歩いていたので、
「私たちはおいて、先に行ってください」
半分言いかけた時、
(この人たちはペースメイカーになるのでは?)
そう考え、一緒に帰寮する事に決めた。私は結構おしゃべりな方なのだが、その時は足が痛い以外の話をしなかった気がする。相手の名前や、EX帰寮中何があったのか、色々聞きたい事は有ったのだが、それどころじゃないぐらい足が痛かったのだ。ここで会った男性2人に加え、少ししてから女性2人のEX帰寮参加者とも出会い、そして先ほど桂キャンパスにバスの有無を見に行ってくれていた友人Mも走ってきて合流。合計7人の大所帯で熊野寮を目指した。
疲れると腹が立つ(63km)
さっきから足が痛いの話しかしていない。でも足が痛い以外何も考えていなかったのだ。ヒトはこれほどまでに痛みを感じても生きていけるのだなあと感心するぐらいだった。足が痛く、疲労困憊の状態になると、段々腹が立ってくる。目に見えるもの全てに腹が立ってくるのだ。歩いて行く道沿いにあったとんかつ屋と寿司屋にキレたのは覚えている。「烏丸五条まで3km」にはもう最高にブチ切れた。腹は立ったが、声に出す元気は無かった。極限状態で堀川五条に着いた。やっと着いた。でもまだまだある。これを何回繰り返したことか。亀岡に着けば京都はすぐだと思っていた。京都に着けば熊野はすぐだと思っていた。残り3.8km、泣きそうになりながら歩いた。
歩く
ラスト5kmなんてすぐだと思っていた。でも実際はラスト3.8kmでもリタイアしたいぐらい辛かった。京都市に突入したのが午後2時。堀川通に着いたのが午後6時。ペースはかなり落ちていた。もう60km以上は歩いたはずだが、ここでやめたら「帰寮で60km歩いた」と言いづらくなるし、最高にダサい。そういう幼稚な理由で歩いた。ここから熊野までの道はよく覚えている。二条城、丸太町、河原町。小さなマイルストーンを決めて前に進んだ。
帰寮(66km,19:00)
そして遂に熊野寮に着いた。超しんどかった。熊野寮が反り立つ壁の上に無くて良かった。熊野寮は熊野寮祭でかなり騒がしかったと思う。正直あんまり覚えていない。熊野寮の食堂の椅子に座ると、疲れと寝不足と安心から、すぐに寝てしまった。
今日のハイライト
10分後ぐらいに友人に起こされた。身体が動かない。筋肉が冷えてしまっているようだ。それでもハイライトに行かねばならぬという一心で身体を起こし、自転車置き場まで歩き、自転車に跨った。EX帰寮に参加する事を決めた日、最高に疲れた状態で食べるハイライトは最高に美味いはずだと話していて、EX帰寮後にハイライトに3人で行く約束をしていたのだ。もちろんカラチキを頼んだが、食欲が無く、残してしまった。この時、3人とも、あの元気だった友人Mさえも殆ど喋る事なくぼんやりとご飯を食べて帰った。
歩いた経路
完走した感想
辛かった。二度とやるか。特に歩くのがしんどいのに歩くのが一番楽になる方法という構造が辛かった。向こう1週間は脚を引きずりながら歩いた。こんなに沢山書いたのにも関わらず、まだ喋りたい事が沢山沢山あるため私に話を振ってくれると、得意げに沢山沢山話すと思う。ここまで読んでくれてありがとう。
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