絵画個展 題名説明
はじめに
私は、2022年に第一回の個展「はやく人間になりたい!」を開催しました。また、2024年には第二回の個展「存在の濃淡」を開催しました。今回は、これらの個展の題名に込めた意味を説明します。
2022年 「はやく人間になりたい!」
2022年の個展、「はやく人間になりたい!」の主題は二つです。
一つ目の主題は、劣等感です。私は、発達障害の影響もあり、自尊心の低い子供でした。そのため、他者に対して非常に強い劣等感がありました。その苦痛から逃避するために、私の精神に生じた幻想が、「自分は、人間の振りをしている機械仕掛けの人形なのだ」というものでした。長年自分を支配してきた、この幻想を表現するために、「はやく人間になりたい!」という題名を付けました。
まず、私には嫌いなものがあります。それは、「生きてるだけで偉い」という言葉を使う人々です。この言葉は、自己否定感を自己肯定感で覆い隠すための言葉だと思っています。束の間の安心は得られるかもしれませんが、結局それでは何も変わらないと思うのです。
生きることは自然現象であって、偉さとは無関係であると思います。そもそも、偉いという言葉は、目上から目下に対して使う言葉です。インスタントな言葉で評価できるほど、一個人の生は安物ではありません。また、自分を尊重できない人間には、他人を尊重することもできません。このような理由から、私は彼らのことが嫌いなのです。
しかし、私が彼らを嫌悪する根本的な原因は、私の中にある「こんな人間になりたくない」とか、「もうなっているのではないか」という恐怖であることも事実です。つまり、自分の中にある「中途半端な部分」が憎いために、似たような人間を直視できないのです。要するに、単なる自己嫌悪であるということです。
一方で私には、好きなものがあります。それは自分です。私は自分の顔が好きです。知性と感性も素晴らしく、努力家で、優しさやユーモアも持ち合わせていると思います。そうして、自分に酔っている時が最も幸せなのです。つまり、単なるナルシストであるということです。
以上を踏まえると、私は、自己嫌悪の強さゆえに、自己愛が強くなってしまった、「自意識過剰な人間」であると言えます。そして、その背景には、「自尊心の欠如」という私の深刻な問題があります。この問題は、二つ目の主題と関係します。
長い年月をかけて育まれた「私には価値がない」「私は無条件には愛されない」といったネガティブな自己認識は、たびたび強烈な抑うつを引き起こしてきました。また、その抑うつを振り払うべく、私は、懸命の努力によって完璧な自分を実現させなくてはなりませんでした。
私は感情を抑圧し、合理的思考によって完璧主義を実現しようとしたのです。いわゆる「コスパのいい」人生です。しかし、それは緩やかな自殺のようなものでもあります。なぜなら、コスパを突き詰めた人間には、死という運命が待ち受けているからです。ここで、二つ目の主題の話をします。
二つ目の主題は、合理化を志向する現代社会へのアンチテーゼです。現代の社会は情報に溢れ、その濁流の中で人間性は劣化しています。そこで、機械の進化と人間性の劣化を対比する視座を提示し、その中で、どうすれば人間が尊厳のある生を取り戻せるか、という問題を、「はやく人間になりたい!」という題名に込めました。
人間社会が合理化し便利になると、人間もポジション争いのために合理的にならざるを得ません。しかし、定住社会以前の人間は、今よりも非合理な存在でした。その非合理さこそ、機械とは異なる人間の魅力(人間性)であると、私は言いたいのです。
現代の人間は、恋人を探すためにマッチングアプリを使い、ランチの前にはレビューを見て、道を間違えないようにマップに従い歩きます。これらの傾向は、予め結果を予測してから行動することで、偶発的なトラブルを最小化させたいという欲求の現れであると思います。
しかし、歴史が証明している通り、予測が可能な仕事は合理化され、いつか機械に置き換わってしまいます。すると、現代人は知らず知らずのうちに、機械に任せておけば良いことを日々の時間で行なっていることになります。リスクを回避し、失敗のない人生を歩んだとして、その先に、一体何が待っているというのでしょうか。
基本的に、人生には常にリスクがあります。であれば、そもそも生きていること自体が、コスパの悪い行為と言えます。
しかし、人間が実際に生を実感するのは、コスパが悪いときではないかと思うのです。合理的な選択は人工知能の得意分野であり、人間が担うべき活動ではありません。人間が機械的になる一方で、機械による人間の模倣がますます巧みになっている昨今、機械よりも人間性の乏しい人間と、人間よりも人間的な機械と、人々はどちらと友人になりたいと思うでしょうか。答えは明白です。
次に、2024年の個展の話をします。
2024年 「存在の濃淡」
2024年の個展、「存在の濃淡」の主題は一つです。
それは、人間が幸福に生きるためには、個人の能力の有無よりも、自分と、自分の仲間が存在しているという事実が重要だということです。
私たちは本来、ただ存在するだけで満ち足りているはずです。しかし、社会の相対的な評価に晒され続けることによって、絶対的な存在ではなく、相対的な存在だと錯覚してしまうことがあります。この問題について表現するために、二回目の個展では「存在の濃淡」という題名を付けました。
一般的に、あらゆる能力は高いほうが望ましいと思われがちです。それは、高い能力があれば他に対して優位性を持てるからに他なりません。つまり、力とは根本的に場を歪ませるものであり、調和させるものではないのです。
そのため、過度に低い能力も、過度に高い能力も、他者との繋がりを困難にします。むしろ、人間関係においては、突出した能力の無さこそが、他者との繋がりを深める契機になります。
だからこそ、能力の有無ではなく、ありのままに自分と仲間の存在を感じることが、人間が幸福に生きるために重要なことだと思うのです。
おわりに
以上で、個展の題名についての説明を終わります。
ここまで活動を続けられたことは、応援してくださる多くの方々と、日々支えてくれる仲間のおかげです。今後は写真の活動も含めて、さらに精進してまいります。
活動情報は、冨岡理森の公式サイトからご覧いただけます。