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完璧な小説ー『オペラ座の怪人』ガストン・ルルー(仏1909年・角川文庫2000年刊行)
(1,747文字)
映画も舞台も観て、その原作を読むことはあっても、その話を元にした殺人事件の漫画を読むことは今後もないだろう。友人のもっとも好きな映画『オペラ座の怪人』を観たあと、原作を手に取った。なんといっても私は小説を最も愛しているから。
数々の舞台になってきた、世界的名作!
19世紀末、パリ。華やかなオペラ座の舞台裏では、奇怪な事件が続発していた。首吊り死体、シャンデリアの落下。そして、その闇に跋扈する人影。“オペラ座の怪人”と噂されるこの妖しい男は、一体何者なのか? オペラ座の歌姫クリスティーヌに恋をしたために、ラウルはこの怪異に巻き込まれる。そして、運命の夜、歌姫とラウルは、まるで導かれるように、恐ろしい事件に飲み込まれていく――。
まず、章ごとのタイトルからして魅力的だ。
プロローグの「この奇妙な物語の作者が<オペラ座の怪人>が実在したと確信するようになった理由」。わくわくするじゃないか?
プロローグとエピローグのほかに27の章があり、私はその目次を眺めることで物語のなかに入っていった。謎めいていて・滑稽・それだけでは意味の分からないものなど…。章にタイトルがある長編が好きだ。そういう小説ってあまりないけれど。
ガストン・ルルーのことは全く知らないが、一時代前の人だし、翻訳ものなので、古めかしい、難解な文体なんじゃないかと身構えていた。全然違っていた! 比喩がどれも的確で、もしこの本の面白い部分に線を引いたら、ページが黒々としてしまうだろうと思ったくらいだ。表現がどれも腑に落ちるから、さっさと読み進めるのがもったいなくて、でも先を知りたくて、後ろ髪をひかれながらもどかしく読んだ。翻訳の長島良三さんの日本語が素晴らしいんだと思う。(なので、新潮文庫もあるが、私は角川文庫を推したい。)
そしてガストン・ルルーの読者のいざない方が非常に優れている。
プロローグのタイトルにあったように、作者は読者に「この物語は実在なんだ」と何度も伝えてくる。注釈をつけたり、「実際に話を聞いたとき…」と関係者にインタビューしたときのことを書いたり(事実、『オペラ座の怪人』は関係者に聞き込みをしたうえ執筆しているので、読者は事実とフィクションを混同すると思う)、「筆者は…」と自分自身をレポートの発表者として小説内に登場させるなど、趣向を凝らしている。
(横溝正史『病院坂の首くくりの家』に金田一耕助の友人として横溝本人が登場していたことを思い出した。)
もう見過ごしたくないと付箋をつけた表現を2カ所抜粋する。
クリスティーヌがラウルを振り払い、その直後怪人と落ち合った際の文章
クリスティーヌの顔は明るくなり、血の気のない唇に嬉しそうな微笑が浮かんでいた。それは、回復期の病人が命を失わずにすむという希望を抱きはじめたときに見せるような笑顔だった。
もうひとつはクリスティーヌがラウルに<音楽の天使>との出会いと、その正体のすべてを打ち明けているときに出てくる、はじめて怪人の住みかに行き、我に返ったときの文だ。
わたしは、迷信を信じた自分の愚かさをいくら悔やんでも悔やみきれなかった。壁越しに聞こえてきた<音楽の天使の声>をあんなに無邪気に歓迎するなんて! わたしは自分のおめでたさをあざけることに自虐的な喜びを感じた…それほど間抜けな女なら、どんな前代未聞の災難にあっても不思議じゃないし、なにもかも自業自得よ!
この本で確信したのだが、私はフランス文学がとても好きだ。サガン、デュラス、アニー・エルノー、このオペラ座も、長めの言葉の連なりからの文章の美しさにひどく魅せられた。“小説のシーン”と“言葉”がぴったり合わさった文章はフランスの特徴だと思う。完璧だ。
結末はどうなるんだろうと思った。終わりだけは映画と似ていた。
クリスティーヌは並みの女性ではなく、物語の主人公に足りうる人物だった。重たく一方的な愛、音楽の素晴らしさ、それをクリスティーヌがどれだけ理解し、また、支えられてきたか。<怪人>として過ごした青年の才能の豊かさ、愛を知らない彼の悲劇を思うと、この物語が読者に簡単な感動を与えるだけのありきたりな愛の話でなかったと強く胸を打たれた。
私にとって、サガン『悲しみよ こんにちは』、沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』に並ぶ完璧な小説だった。
(2017年・文/修正・転記)
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