”生産”コンプレックスの墓場を求めて
今期は大豆田とわ子と三人の元夫というドラマにどはまりしているのだが、先日の最新話の中で、マレーシアの住宅を見ながら「こういう家が作りたかったんです」と言ったとわ子に対し、小鳥遊さんが「ここに住んだら夢が叶いますね」と言う一幕があった。
違うんだよ!それじゃ叶わないんだよ!と思った人は、現状に関わらず心がきっと生産側の人間だ。
そういう人に、このnoteをぜひ読んで、可能であればアドバイスまでしていただきたい。
この先は、生産しなければいけないという強迫観念から抜け出せない私のお悩み相談である。
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私は映画、ドラマ、小説、漫画、絵画といったような、いわゆるクリエイティブの領域にあるコンテンツによって生かされている。
生かされているというのはその名の通り、感情の所在も、世界の多様性も、それらの創作物を自分の中に取り込むことによって理解したような気持になっているに過ぎないと、わたしの価値観、牽いては人生の一部だと認識しているということだ。
それらを神格化するあまり、逆に言えば、それらをただ消費するだけのわたしの人生ってなんなんだろう?とふと考えてしまう。
理性の上では、社会を支える仕事の大切さを理解している。他人にであればどんな職業の人も、あるいは職業を持たない人も皆尊敬しているし、生産性によって人間の価値が図られるものではないとわかっている。
ただ自分に対しての期待値でいうと、どうしても先の作家たちのように、社会を見えない糸で引き上げるようなそういう仕事がしたいと思ってしまう。
二十数年の人生ではあるが、そういう類のいろんな分野で、何か自分のフィールドにできるものがないかと模索してきた。
踊りもしたし、文章も書いたし、絵も描いたし、動画も作ったし、建築も作った。数年単位で時間を投下して真摯に向き合った。
でもそのどれも、自分にセンスがないことに早々に心が折れてしまう。
圧倒的に生み出す才能のある人を目の当たりにして、好きという情熱ですら負けている中で挽回できる見込みもないことに気づいて、自分にセンスがないと思いながらそれらに立ち向かい続けるだけの根性はない。
定量的な生産性の議論でいえば、自分の企業価値をあげるという仕事だって立派に生産していると言えるのだろうが、生産性にはもはやこだわりはない以上、それを引き合いにあきらめることもできないし、やはり自分のなかでは”生産”=クリエイティブを生み出すこととなってしまっているので、仕事をどんなに頑張っていても生産しているという気持ちになれない。
手習い程度であればいくらでも好きにやれるんだしいいじゃないかと自分を納得させては、やっぱり”生産している”と自分を認めてあげることができない日々に嘆息することを繰り返す。
その道を選んだらきっと後悔することも分かっている。
今、自分がちゃんと得意なことを仕事にできているという幸せも理解している。
ただ、憧れと現実の折り合いのつけ方が今一つわからない。
何かを生産したい。
第一線で自分の魂だけで生産をすることは難しいにせよ、自分の得意分野をいかして生産に関わることはどうにかできないものだろうか。
もしくは、この思いを完全に捨て去ることはできないものだろうか。
転職ありきでこの仕事を選んだものの、経験を経るにつれて選択肢は無限ではなくなっていくと感じる。
いや、強い鎧を身に着けてしまうと、全部脱ぎ捨てて海に出ようとはなかなか思えない性分が問題なのであって、本来的には道の数は変わらないのだろうが。年なんて関係ないじゃん!というのはその通りなのだが。。。
もう少し熟考するにしても、このコンプレックスはどこに向かわせればよいのだろう。