役に立つ行動原理が欲しい
何考えてんだかわかんない人って気持ち悪い
人間の行動の源には、お金が欲しい、人に認められたい、誰かに感謝されたい、怠けたい…などなど、必ずなんらかの欲求があるはずだ。
共感できるか、高尚な欲求かはさておいて、行動原理がはっきりしている人ほど取り扱いがシンプルで付き合いやすいから好きだなとは思う。
一方で、行動原理がはっきり見えない人は、どこに地雷があるのか、何をしたら喜ばれるのかわからないから、ひとつひとつの動作に緊張が伴う。8人乗り乗用車の三列目に乗っているときの感覚と似ていて、次にどっちに曲がるのかわからないから気持ち悪い。
とか言ってみたけど、自分も何考えてんのかわかんない
とまあこれだけ穿った見方で断言してみたが、ただひたすら金が欲しい!!みたいな、わかりやすい指標がある人の方が少なくて、普通はいろんな指標をバランスさせて直感的に最適な選択肢を選んでいるんだと思う。
働くという行為を1つとっても、怠けたいならいくらでも楽な仕事はあるし、楽しみたいならスーパー面白い仕事もあるし、お金が欲しいならえぐいくらい稼げる仕事だってあるし、自慢したいなら顔と名前でクレジットが出せるような仕事だってあるのに、みんななんでこんな仕事してるんだと思いながらそのどれでもない仕事に就いている。
わたしもいろんな指標をギリッギリにバランスさせた結果として今の仕事をしているから、なにか些細なとこが起きただけでそのバランスが崩れて、突発的に仕事したくねえ!疲れた!つまんねえ!クソ!!と叫んでしまう。
そして同時に、その指標がどんな重み付けで設定されていて、胸糞な感情がどの指標を回復させれば消えるのかがわからないから、周りに環境の改善を求めることができなくてしんどいのだなと理解した。
わからないなりに行動原理をはっきりさせねばならん
いくら複雑に絡んでいるとは言え、何かしら優先順位的なものはあるはずだ。
わたしの核になっている行動原理って一体なんなんだろう。
インスタにいくらお洒落な写真をあげようと思っても続かないし、Twitter面白いねと言われてもαツイッタラーになろうみたいな決意は生まれない。人より優位に立つための努力はちょっとめんどくさいなと思ってしまうと言うことは、承認欲求ではないのだろう。
達成感は欲しいけどできれば面倒な仕事はしたくないし、旅行も好きだけど交通手段の整わない絶景ポイントに行きたいとも思わない。じゃあ怠惰なのかなと思っても、その面倒な仕事を「もういいよ、あとは俺がやるから」と言われると、つい反射的にもうすこしやらせてくださいと食い下がってしまうし、怠惰も一番の感情では無いみたい。
あれでもないこれでもないと考えながら、なんとなく“信頼されたい“と言うのは近いかも知れないと思った。
誰にも何も指図されたくないし、誰にも何も管理されたくない。
そのために、“あいつに任せても大丈夫だな”と人の監視下を離れることができるくらいの、最低限の自由を勝ち取れるくらいの信頼が欲しい。
小さいことから度々「自由は信頼のもとに成り立つものだ」と親に諌められ、約束を違えるたびに監視が厳しくなっていたから染み込んでいるだけのかも知れないが(現に、帰宅時間への信頼を失い過ぎて大学卒業までGPSで位置検索をされていた)、人に信頼されたいと言う気持ちが強く働いていることだけは確かみたいだ。
終わりに
ただ“信頼されたい“と言うのは動機としてはあまりにも消極的で、外的環境への依存性も高く、自分自身の行動を選択する原理としては不十分だ。
(その上、頼りにされたいと言うよりはなめられたくないって言うくらいの利己的な感情なので、欲を言えばもうちょっとカッコいいやつがいい)
役に立たない指標を認識したところでしょうがないので、行動原理側の改革をしなければならないが、目標と異なり、“なぜそう思うのか“といった行動原理はこれまでの生い立ちが大きく影響するような気がする。
こんなに大きくなってしまってから意図的に変えることなんて可能なのだろうか?
それよりは第二・第三でもいいから、言霊を持って意図的に原理の優先順位づけを変える方が現実的かも知れない。
とりあえず目下睡眠欲がえらいことになっているのだけは間違い無いので、欲求に素直に、おやすみなさい。