夕飯に1人、冷凍からあげを食べながら号泣した話
仕事を終え、台所に立つ。
今日はなんとなく、何も作る気が起きない。
冷凍庫を開け、スーパーで1番安かった冷凍からあげ4つを皿に移しレンジにかけた。
その他にも冷凍しておいたご飯、適当に作り置きしていた副菜も2品ほど。
もやしのナムルはレギュラーメンバーだ。
これが独り身アラサー女の夕飯。
私の長所は基本なんでも美味しく食べられることだ。
人は、馬鹿舌とも呼ぶのかもしれない。
その冷凍からあげは、美味しくないと揶揄されがちな某ブランドの1番リーズナブルなラインの商品。
でも私にとってはとても美味しかった。
「おいしい〜からあげ大好きだ」
そんな脳みそを1ミリも使っていない独り言をぽつり、無意識に吐いた。
その途端、ぼろぼろ涙が溢れてきた。
地元の友人は皆結婚した。
子どもを産んで、立派な一軒家を建てた者もいる。
かなり親しかった独り身仲間の友人も、先日彼氏ができた。
結婚こそしていなくても、仕事を評価され若くしてドラッグストアの店長を勤めていたり、ワーキングホリデーで海外生活を謳歌していたり。そんな人もいる。
なのに私はどうだろう。
数年前に社会から脱線してなんとか持ち直したものの、ここ数年は派遣社員として細々と仕事している。
彼氏なんていつからいないんだろう。
もう誰かを好きになる方法さえ忘れてしまった。
友人も、歳を取る毎に皆疎遠になっていく。
正直、今友達と言えるような関係の人間はいないような気もする。
休日は日中も寝ているか、起きている時間は適当にYouTubeを見て時間を潰す。
側から見ると、私はそこそこ惨めな人間なんじゃないかと思う。
その日も安い冷凍からあげを1人で貪る。
寂しい光景かもしれない。
でも、私が涙を流した理由は、「惨め」から来るものではなかった。
そこにあったのは、紛れもなく大きな「幸せ」だった。
「なんて幸せなんだろう」
また1人、誰の鼓膜も揺らさない独り言を呟く。
顔をぐちゃぐちゃにしながら、残りのからあげを頬張った。
新卒1年目の会社でメンタルを壊した。
その後も鬱っ気が抜けず、精神科にダラダラ通う日々が5,6年続いた。
今もなお、通い続けている。
パニック障害だとか、適応障害だとか、双極性障害だとか。
いろんな診断を受けたが、結局のところなんなのかわからなかった。
ただ一つ共通して言えるとするならば
「もううんざり」
これだけだった。
社会人になって二つ目の職場のコールセンターを再びメンタル不調で辞めたとき、いい加減もうこの世界からいなくなろうと思った。
ある雪の積もった氷点下の日の夜、処方されたあるだけの睡眠薬を握り公園へ向かった。
ここで眠ればアパートを汚すこともなく、死体が腐って匂いを発することもなく、周りへの被害を最小限できるかつ眠るように逝けるのではと考えたからだ。
ただそれは失敗に終わる。
薬を飲むための水を忘れた。(普通にアホだった)
雪が張り付いた公園のベンチに1時間くらい座って呆然としていた。
お尻がべちょべちょになって冷たすぎるのに耐えられず、結局大人しく家に帰ることに。
その後も何度かこの世から消えようと試したのだが、なかなかうまくいかなかった。
(今思えば、本気で死のうとしていなかったのかもしれない)
それからは、死ねないのならなんとかこの苦しみから逃れたいと、私の試行錯誤が始まる。
カウンセリングを受けてみる。
価格が高くて続けられない。
運動がいいと聞いたので毎日の散歩を試みる。
鬱の体には辛く、すぐに体調が悪くなり続かない。
映画などの娯楽で気を紛らわせてみる。
以前は楽しめていたたったの2時間ですら、集中力が切れて途中で見られなくなってしまう。
どれもあまりうまくいかない。
そんな中、YouTubeである話を耳にする。
「ありがとうノート」というものだった。
どこぞの女性が毎日ノートに「ありがとう」と感じたものを記していくと、苦しかった日々が涙が出るくらい幸せに溢れた日々に変わったというものだった。
(あまり詳細を覚えておらずあやふやすぎる)
んなアホな。
私は以前から、「当たり前のことに感謝しましょう」だとか「日常に小さな幸せを見つけましょう」だとか、そんな類いの綺麗事が大嫌いだった。
感謝できないもんはできない。
幸せと思えないなら思えない。
そう思ったものの、とにかく目の前の苦しみから逃れたい私は藁にも縋る思いでやってみることにした。
百均で小さめのノートを買い、早速その日の夜寝る前に布団の中でペンを握った。
が、なかなか思いつかないのである。
苦しみしかないこんな日々の何に感謝しろと?
確か、ありがとうノートを紹介していたYouTube動画では、「蛇口から水が出ること」のような当たり前のことでもいいと言っていたので、とりあえずそれをそのまま書いて寝た。
次の日も、その次の日も書いた。
不思議なことに、続けているとスラスラと書けるようになってくる。
暖かいベッドで眠ることができてありがとう
シャワーを浴びられてありがとう
天気が良くて空気がカラッとしていてありがとう
雨の音が心地良くてありがとう
好きなおやつを食べられてありがとう
など、側から見るとしょうもないことなのかもしれないが。
そして、当時はめちゃくちゃ自分と向き合った時期であって、この生きづらさの原因は自己肯定感の低さというところに行き着いていた。
なので毎日最後の行にひとつ、書き足すことに決めた。
今日も自分、生きててくれてありがとう。愛してるよ。
これは完全自己流である。
ありがとうノートを始めてから、1年が経った。
そして私は、冷凍からあげを食べて涙を流せるほどの境地に達することができたのである。
冷凍からあげの涙には
こんなにも簡単にすぐ美味しいものが食べられるなんて便利で有難い
好きなものを好きな時に好きなだけ食べられるなんて幸せだ
そんな思いがこもっていたように思う。
先にも記した通り、「当たり前のことに感謝しましょう」だとか「日常に小さな幸せを見つけましょう」というような綺麗事が嫌いだった。
正直今も好きかと言われればそうではないし、なかなか難しいことだとも思う。
ただ、漠然とそう思おうとするのは難しいことだと思うのだが、このありがとうノートのように文字に起こすことを習慣化することでその難易度が低くなるのではないだろうか。
1日の終わりに「書く」という行為をする必要がある。
そのためには、朝から寝る前までに感謝を見つけなければならない。
「明日までに綺麗な落ち葉を5枚集めてそれをスケッチしてきてください」というような宿題が出たとしたら、いつもはぼーっとしながら帰る通学路もその日は落ち葉がないかキョロキョロしながら帰るだろう。
それと同じ原理かと思う。
毎日「寝るまでにありがとうを探してきてください」という宿題を自分に課しているわけだ。
いい意味で、若干の強制力が生まれる。
私の嫌いな綺麗事になってしまうようであまり簡単には言いたくないのだが、
本当に幸せは案外そのへんに転がっているのだ。
あると思えばある、
ないと思えばない。
見ようと思えば見える、
見ようとしなければ見えない。
そのへんに転がっている幸せが見えるようになった私は、以前のように他人と比べて落ち込むことが減ったように思う。
他人から見て惨めでも、その人が幸せならそれは幸せだ。
逆にどんなに豊かで幸せそうに見えても、その人が不幸と感じるならそれは不幸だ。
それは決して他人に測れるものではないのだ。
私は今幸せだ。
もちろん落ち込む日や泣く日もあるけれど、この平凡で愛すべき日常をいつまでも大切にして生きていきたい。
これからも、ありがとうノートは続けていこうと思っている。