人差し指を立てて、これを出来事として考える(1)

過ぎ去ってしまった出来事はもう、喋って誰かに伝えたとしても、それが本当だったかどうかは証明のしようがない。

小さい頃、ずっと失われずに続くものは何だろうとか、何でも貫くものはあるんだろうかとか考えたけれど、誰にも答えを聞こうとしなかったし、これまでの人生で物理や化学に(もしくは哲学に)今の時点での答えがありそうだなと推測はしたものの、答えを確かめるには至らずに過ごしている。

わたしが死んでしまえば、過ぎ去ってしまった出来事は全てなかったと同じになる。
ずっと失われずに続くものや、圧倒的な存在に漠然と気付いた子どもの頃から、それらを求めているような気がしている。
わたしの人生における出来事を、いつか失われるものだけれども、圧倒的な存在には到底なり得ないものだとしても、残せるだけ残しておきたいな、と思っている。

人差し指を立てて、それをただ起こった事実と見立てる。
人差し指を見て、その存在を認識して、どう思うかは自由だ。
その人差し指を立てる勇気が、わたしにはあまりない。
批判やその他諸々が怖いからだ。
でも書こうと思う。

最近、いや嘘ついた、旦那さんを亡くしてから、いつも死を考える。
旦那さんが死んでから14年。
わたしも毎日死に向かっている。
どうせ何もなくなってしまうなら、批判も聞こえないあの世に行く前に、人差し指立てて、言いたいことを言う。
それがわたしの幸せのような気がしている。

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