ちよ

おそらく人生の折り返し地点を過ぎ、総括のようなことを考えることも増えた。
わたしが、わたしが大事に思うひとが、わたしを大事に思ってくれているひとが、みんな生きているうちに何か、してあげないと意味がないという焦燥感に駆られている。
キリがない、いなくなってしまったひとたちに「ああしてあげればよかった、こうすればよかった、もっと話をすればよかった」っていくらでも出てくる。そういったことを思い出すたびに、いなくなったひとたちが恋しくなって、心の中でごめんねと謝る。
でも、過ぎてしまったことはもうどうにもできない。いないひとに言葉は届かない、プレゼントはあげられない。これらのことはもう、諦めている。
その諦めはここまで生きてきてやっと自分に落とし込めた納得、なのだ。
さて本題。これを、成人するこどもに求めることはあまりに過大な要求なんだと、昨日息子と言い合いをして気付いた。
今あるものを大切にするしかない、過去のことはもうどうしようもない、ありのままの起きた事象を、ただ存在している過去として、感情を向けずに認識するということをしないと、納得できない。

いつかわかるかもしれない、過去に干渉できない。
一方向に進んでいくしかない。
だからやれることを探そうよ、と息子に求めたけれど。
まだ揺らいでいる、そういう年頃なんだった。
いくら言葉を知っていても、感情が同じだけ追いついているわけじゃない。

息子は別の人間。わかってやる余裕と人と向き合うスキルがわたしにはなくて、ごめんな、と思う。

いつか、自分の人生を終う準備をするときになったらみんなわかるのかな。

わからないことをいってすまんかった。
できなかったことは全部仕方ないよ。悪いことはない。
次にできることをしような。それでだいたい、充分だ。みんな後悔して生きてる。

いつも傷つけてしまう。
過去わたしに降ってきた多分とんでもない事象に耐えるために、その事象でわたしが自ら命を絶ってしまわないために、こうなるしかなかった、子どもを守るために得た、多分乗り越えてきた強さみたいなものが、息子を傷つけてる。

普通とはなんぞやと思うけれど、なんだ、羨ましくなる。
どうしたらよかったか考える。
過去に干渉はできないのにね。
わかっているようで出来ない。いつまでもそうだ。
こうしているうちにわたしも居なくなる。
きれいに去れそうにはない。
まだ頑張らないといけない。

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