エキセントリック。何がダメなの?
昔から「男の子は男の子らしく。女の子は女の子らしく。」という言葉が嫌いだ。
そうしなきゃいけないような世間の変な圧力によって抑えられているようで、いつも違和感を感じていた。
「男の子は男の子らしく」って何だろう?
スポーツをしなさい? いつも元気でいなさい? 髪の毛は短髪にしなさい?
じゃあ「女の子は女の子らしく」って何だろう?
誰からも愛されるようになりなさい? 料理ができるようになりなさい? おしとやかでいなさい?
親や学校の先生も言葉には表わさないだけで、暗黙の了解のようなケースばかり。
そんなに型にハマらないといけないの?
僕はずっと心に何かが刺さっているようだった。
体育の集団行動の授業のように、先生というその場だけのリーダーに従って整列をする。ひとり乱れただけでその子に視線が集中してまた最初からやり直し。はみ出すことは許されないように。
「男の子は男の子らしく。女の子は女の子らしく。」は年を重ね、環境が変わるに連れて「男は男らしく。女は女らしく。」に変わった。
だけど、人の身体と心は成長しても、世間の変な圧力は変わらない。
リーダーは先生から世間に変わり、1人1人が自分のベクトルで評価できるようになった。その反面、視線は更にきつくなった。
体育の集団行動は社会に出ても続くのでしょうか。もういいよそういうの。疲れるから。はみ出したい。
小学生の頃、学校の通知表がかなり良かった時があり、母に「欲しい物買ってあげるよ」と言われ近くのイオンモールに母と一緒に行った。
しかし、子供ながら家庭の状況をなんとなく知っていた僕は、あまり高い物をおねだりしないようにしようと決めていた。そもそも欲しい物もあまりなかったのですが、イオンモールの中をフラフラと歩いていたら「これ欲しい!」と運命の物と出会うかもしれない。それはそれでとてもワクワクした。
そして、イオンモール内のおもちゃやゲーム売り場で、僕は少し大きな可愛いペンギンのぬいぐるみを見つけた。
「お母さん。これがいい!」
僕はペンギンのぬいぐるみを持って母の所へ駆け寄った。
すると母は
「えぇー!それがいいの?なんか女の子ぽくない?他のやつにした方がいいんとちゃう?」と少し笑い交じりで言った。
僕は仕方なくペンギンのぬいぐるみを元の場所へ戻してから、他の物を探しに行った。結局僕は何を母に買ってもらったのか分からないが、あの時の複雑な違和感は今でも覚えている。
性同一性障害という訳ではないのですが、複雑な感情はずっと消えません。
ただ、子供の頃に比べて、今は中性的な立場でいたい気持ちは一段と強くなった気がしますし、男性としてではなく女性として生まれたかったなと後悔する時もあります。
もちろん男性には男性の辛さや苦しみもありますし、女性には女性の辛さや苦しみもあります。それはその人生を歩んでみないと分からないことばかりです。
しかし、男性として生まれてきた僕は男性らしくしないといけないのでしょうか。
反対に女性として生まれてきた人は女性らしくしないといけないのでしょうか。
髪だってセミロングくらいに伸ばしたいですし、可愛い服とか着てみたい時もあります。
しかしそれは、世間から見れば「気持ち悪い」とか「変わってる」と評価されるだけで終わります。
でも、人と違うことをするってめちゃくちゃドキドキするし、何より決められた型にハマらずに済むのでとても嬉しいし、気分は楽です。
女性がスーツを着て男性のようにクールに決めても、男性が可愛い服を着て女性のように可愛くしても別にいいじゃん。生き方まで人に決められたくないです。
友達から「変わり者」と言われたこともありますが、今は変わり者でもいいやと思えるようになりました。人と同じ道を歩くのじゃなくて、オリジナルの道を作れるのだから。
少し髪でも伸ばそうかな。似合う似合わない関係なく。
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