【ヨルシカ】『風を食む』歌詞考察
こんにちは。
この記事は元々別のアカウントで投稿していたのですが、アカウントごと消えちゃったので書き直しました。
自分の考えを整理するのが主目的なのでメモみたいに書いています。読みづらいかもしれませんが、読んでくれた人には何か新しい発見があればと思います。
本題
明日はきっと天気で 悪いことなんてないね
タイムカードを押して僕は朝、目を開いた
僕らは今日も買ってる 足りないものしかなくて
靴を履きながら空想 空は高いのかな
『明日はきっと天気で……』→「明日こそは」というニュアンスが感じられる。
『タイムカードを押して』は退勤を表しているが、そこからすぐに翌日の朝まで描写が移っている。本来、その間には食事や風呂等の行為があるはず。眠りに就く描写すらないのは、『僕』自身がいつ眠ったのかもわからなかったからだと想像できる。心身ともに疲弊している様子が窺える。
ここでの『空は高いのかな』は、前の文脈から値段のことを言っているとわかる。空を買って天気を思い通りにできたなら、『明日はきっと天気で』などと考えなくても良くなるだろう。
『足りないものしかなくて』という自己肯定感の低さも合わせて考えると、「空を思い通りにできたら、価値ある人間になれるだろうか」という想いもある気がしてくる。
『空想』は、文字数的にも意味的にも「妄想」や「想像」で通るが、「空を想う」というニュアンスも込めて『空想』としているように見える。
貴方さえ 貴方さえ
これはきっとわからないんだ
はにかむ顔が散らつく
口を開けて風を食む
春が先 花ぐわし
桜の散りぬるを眺む
今、風を食む
少し陰鬱な雰囲気だったAメロから一転、『口を開けて風を食む』という明るい雰囲気に。
この変化は、貴方さえきっとわからないという『これ』が鍵になっている。
『花ぐわし』は「花が美しい」という意味で、「桜」や「葦」にかかる枕詞。日本書紀や万葉集の時代(奈良時代)から見られる表現だそう。
通常、『散らつく』という言葉は平仮名表記であることが多い。「見えたり消えたりする」という意味で、主観だが光が明滅するようなイメージを持っている単語。
恐らく後ろに続く歌詞のイメージと合うように、あえて「散」という漢字を使用している。
『これ』に気づいたときには、目の前に美しい桜があったようだが、『これ』=「桜」とすると『貴方さえ これはきっとわからない』というのが引っかかる。
棚の心は十五円 一つだけ売れ残った
値引きのシールを貼って閉店時間を待った
明日もきっと天気で ここにも客が並んで
二割引きの心は誰かが買うんだろうか
心が売れ残ったり、値引きされたりしているのは勿論比喩。
心をなんとか買ってもらうために値引きをする。当人は必死だろうが、そんなこととは関係なく『明日はきっと天気で』、恐らく客はいつも通り見向きもしない。
『値引き』というのが具体的にどのような行為を指すのかは示されていないが、例えば自分の価値を低く見ている人、卑屈な人の心が大衆の目を惹くだろうか。
『二割引きの心は誰かが買うんだろうか』という言葉は、そういう負のループに入り込んでいることに気づかない当人を皮肉っているようにも聞こえる。
貴方だけ 貴方だけ
僕はずっと思ってたんだ
ただ白いあの雲を待つ
風のない春に騒めく
草流れ 天飛ぶや
軽く花の散るを眺む
今、風を食む
『風を食む』というタイトルの曲で、『風のない春』というワードが入っているのは気になるところ。
『ただ白いあの雲を待つ』とあるが、風がないから雲は流れず、何か来ないものを待っているということの比喩なのだろうか(上空と地上の風は別物なので、全くそんな意味は込められてない可能性もある)。
『草流れ』という言葉からは草が風に靡いているような情景が思い浮かぶが、それなら『風のない春に騒めく』と『草流れ』の間で場面・視点が切り替わっていることになる。
そうすると『ただ白い〜春に騒めく』の部分は、『僕』の想像の中の『貴方』だと考えられる。『僕』の春には風があって、『貴方』の春には風がない。この違いは何なのか。
『天飛ぶや』は「雁」や地名「軽」にかかる枕詞で、ここでは『軽く』にかかっている。こちらも万葉集の時代から見られる表現。
遂に心は半額 いつまでも売れ残って
テレビを眺めて空想 ニュースは希望のバーゲン
貴方は今日も買ってる 足りないものしか無くて
俯く手元で購入 空は高いのかな
その後も心の値引きを続け、半額になってもなお売れ残る。
1番Aメロと近い表現が見られるが、1番Aメロの主語は『僕』で、ここでは『貴方』である点に注意して、他の相違点についても見ていく。
1番→3番
①『靴を履きながら空想』→『テレビを眺めて空想』『俯く手元で購入』
②『僕らは今日も買ってる』→『貴方は今日も買ってる』
③『足りないものしかなくて』→『足りないものしか無くて』
①ここで注目して欲しいのは、前者はこれから外へ出ようとしており、後者はどちらも家の中で済ませられる行為であること。もっと言えば、後者は画面を通してものを見ている。
②『僕ら』には『僕』も『貴方』も含まれている(それ以外の人々、この曲を聴いている人達も含んでいる)。3番では『貴方』だけになっているのは、①で解説した違いがあるから。つまり、『俯く手元で購入』しているのが『貴方』だけであるということ(ここでの『貴方』は曲を聴いている「貴方」も含んでいるとも捉えられる)。
③意図的に変えていると思われる。個人的な解釈はあるが、根拠が薄い+今回話したい本筋とはあまり関係ないので省略。
これらを踏まえて以降の歌詞を見ていくと、『ニュースは希望のバーゲン』という言葉の意味もわかりやすい。
貴方だけ 貴方だけ
この希望をわからないんだ
売れ残りの心でいい
僕にとっては美しい
春が咲き 花ぐわし
桜の散りぬるを眺む
社会で求められるような価値ではない、『僕にとっては美しい』という『希望』がある。
この『希望』が、1番で登場した『これ』のこと。
『貴方さえ』わからないのは、『僕にとって』の美しさだから。
『貴方だけ』わからないのは、『貴方』は外へ踏み出そうとしていないから。
1番では『春が先』だったのが、『春が咲き』に。後者はまさに今、春が始まったかのような臨場感が感じられる。
貴方しか 貴方しか
貴方の傷はわからないんだ
口を開けて歌い出す
今、貴方は風を食む
冬籠り 春が先
貴方の歌だけが聞こえる
今、口遊む貴方だけ
貴方だけ
『貴方しか』『貴方の傷はわからない』。だからこそ、『貴方』にとっての希望や美しさは、『貴方』自身の足で見つけにいく必要がある。
ある人にとっては自然の空気を大きく吸い込むことで、ある人にとっては歌い出すこと。それが『風を食む』ということで、希望を見つけにいくということである。
家から出ずとも、世界各地で起こっていることを知ることができるニュースは便利ではあるが、外へ希望を見つけにいくというのはそういうことではない。それは『希望のバーゲン』だ。
『冬籠り』は「春」へかかる枕詞。ここまでずっと、古語によって自然の美しさを表現してきたのは、昔から人はそういう希望を見つけ出していて、それはこれまでもこれからもきっと、変わらず美しいものであることを気づかせるためだろう。
後書き
『風を食む』リリース時、作詞者のn-bunaさんから以下のようなコメントも発表されました。
全体のテーマは消費です。子どもの頃は雲一つにも心を動かされたのに、大人になるにつれそういう感覚は少なくなったように感じます。
タップ一つでものが買える現代社会で、消費することに疲れてしまった心を最後に優しく包むような曲を書きたいと思いました。
大人になるにつれ、知識や経験を得て賢くなった私達は、色んな物差しを持てるようになりました。それらで測れるのは誰かにとっての価値で、勿論社会で生きていく上で大切なものではあります。
ただ、一番の軸であり原点はいつも自分の中にあるはずです。ヨルシカの楽曲はノスタルジックな歌詞が多いのですが、そういうものを大切にしたいという想いが人一倍強いのではないでしょうか。
もし、記事を読んで「この曲いいな」と思ったら、冒頭のリンクから『風を食む』を聴いてみてください。そしてぜひ、ヨルシカの他の曲も聴いてみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。