見出し画像

「わかる」とはどういうことか

【書評】『わかったつもり──読解力がつかない本当の原因』西林克彦=著/光文社新書

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「先生、トイレ!」
 これが「先生=トイレ」という意味じゃないことは、ヴィトゲンシュタインでなくともわかる。しかしなぜだろう。単語だけを見れば、そう考えてもおかしくなさそうなのに。それは、文脈が自明だからである。「授業中の生徒の発言」という文脈があるから、「トイレに行きたいんだな」と理解できる。これに対して「先生はトイレではありません」と反論する教師がいたとすれば、それは意地悪でわからないフリをしているに過ぎない。
 逆に言えば、単純明快な文章でさえ、文脈が不明だとわけのわからないことになる。本書で例示されているブランスフォードらの文章を見てみよう。

新聞の方が雑誌よりいい。街中より海岸の方がいい。最初は歩くより走る方がいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい。小さな子供でも楽しめる。(一部省略)

一読して、知らない単語や文法的にわからない箇所はないはずである。にもかかわらず、これを読んだだけではちんぷんかんぷんなのだ。ところが、これが「凧を作って揚げる」話だとわかると、疑問は一瞬にして氷解するだろう。
 「行間作文」「書かれていないことを読み取るな」といった批判を見かける。だが、私たちは書かれている言葉を文字通りに読むことで文章を理解するのではない。むしろ、文章には書かれていない「文脈」の力を借りることで、初めて文章の意味を理解できる。実際の言葉の運用としては、むしろそれが普通ではないか。
 話は脱線するが、『ユリシーズ』に「キュクロプス挿話」と呼ばれる難解で有名な章がある。これも一見して難しい単語や文法などは見当たらない。英語で読んでもそれは同じである。なのに、この挿話を巡っては長年論争が起きている。これに対し、「この章は難解なのではなく、文脈が欠けているだけではないか」と言ったのが、ジョイスの翻訳で知られる柳瀬尚紀氏である。どんな文脈ならキュクロプス挿話の謎が解けるのか。興味のある方はぜひ柳瀬尚紀=著『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(岩波新書)を読んでいただきたい。

 文章を理解する上でかくも重要な文脈だが、これは諸刃の剣でもある。なぜなら、文脈の力はいつも正しく発動するとは限らないからだ。これも本書で取り上げている木下順二=作『夕鶴』を例にとるのがいいだろう。この作品を一読してもらったあと、「つうはなぜ布を織ったのだと思いますか」という質問をすると、半数以上の人が「恩返しのため」と答えるのである。しかし、本文には「つうはただよひょうと楽しく暮らしたかっただけなのです」と書かれているだけで、恩返しという記述は見当たらない。要するに、民間伝承、あるいは『夕鶴』から翻案された「鶴の恩返し」という童話が頭にあるために、本文がちゃんと読めていないのである。
 私たちは、部分を理解するのは易しく、そこから全体像を作り上げる方が難しいと思っている。だから、誤読というものは後者の過程で生じるものだと考えがちである。しかし、実際には誤読する人ほど部分がちゃんと読めていない。これが、本書が明らかにした重要なポイントである。

 さて、ここまでは理解の話である。理解は向こうからやってくるが、解釈はこちらからするものだ。
 国語の答えはひとつではない。そう言いながら、試験問題の正解はひとつしかない。日本の国語教育は明らかに矛盾したメッセージを発し続けてきた。解釈は自由なのか、それとも唯一正しい解釈が存在するのか。著者はそのどちらでもないという。
 文脈が部分と矛盾すれば、それは文脈が間違っている可能性を意味する。それと同じように、解釈が本文と整合しなければ、それは正しい解釈ではない。「解釈の自由」というのは、整合性が担保されている限りにおいての自由であって、無制限に自由なわけではない。逆に言えば、作者(書き手)の考えだけが唯一の正しい解釈なのでもない。整合的である限りにおいては、いかなる解釈も可能と言わなければならない。ちなみに、上で紹介した柳瀬氏のユリシーズ解釈は、ジョイスの親族からは一蹴されたらしい。だが、本文との整合性において、これは十分に妥当な解釈である。

 日本人なら、日本語で書かれていれば読めて当然だと思うだろうか。もちろん、書き方が悪い可能性はある。だが、理解できないことを書き手のせいにする人は、注意した方がいい。読解力に自信がある人ほど本書を読んでほしいと思う。読解力をこれほど見事に解剖した本は他にない。

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥

いいなと思ったら応援しよう!

養老まにあっくす
養老先生に貢ぐので、面白いと思ったらサポートしてください!