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エッセンシャルワーカー

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 子供のころ、ゴミ屋さん(ゴミ収集の人)を見て、「あんな仕事はしたくない」と親の前で漏らしたことがある。そうしたら烈火の如く叱られた。「ゴミを集めてくれる人がいるから世の中が回っている。それなのに、あんな仕事とは何様だ!」あのときのことを思い出すと、いまでも恥ずかしい。
 こんな仕事は誰だってできる。そう偉そうに言う人がいる。でもお前さんはやってないじゃないか。できるかできないかで言えば、誰にでもできる仕事はたくさんある。でも、「できる」と「やる」では大違いである。みんながやらないことを、誰かがやる。それを仕事という。やってない奴が、やってる人に偉そうな口を聞くな。
 お金を払って人にやらせる人間がいちばん偉い。そういうおかしな常識が、いつのまにか出来上がってしまった。けれど船が無人島に漂着したら、乗客の中でお金だけ持っていて何もしたことのない人間が偉そうにできると思うか。
 でもそれは極限状況の話でしょ。そうではない。長く生きている人は、状況なんていつでも変わることを知っているはずである。戦争や大地震のような非常時は、いつやって来るかわからない。状況が変わってもみんなが生きていけるように、普段から助け合うのが社会である。非常時だけ助けてもらおうなんて虫がよすぎではないか。お金で人を使うだけの人間は、自分こそいらない人間だということを自覚した方がいい。
 お金を払えば「ありがとう」を言わなくてもいいという人がいる。お金は感謝の代わりではない。お金がなぜ必要か。それは、物々交換には限界があるからである。私が漁師だとする。魚が獲れたので、猟夫のところへ肉と交換してもらいに行く。ところが猟夫は、今日は魚はいらないと言う。野菜が欲しいらしい。これでは取り引きが成り立たない。魚も肉も腐ってしまう。だが、お金があれば万事解決する。私は猟夫から肉を貰うかわりにお金を渡し、猟夫はそのお金で農夫から野菜を買えばいい。お金とは、交換を便利にする道具にすぎない。それがいつの間にか一人歩きして、お金そのものが物よりも価値を持つようになってしまった。
 先日、近所の本屋がついに店を閉めた。本なんてアマゾンで買えばいい? そうだろうか。駅前の便利な場所に大型スーパーが建って、地元の商店街が潰れる。でも、それでみんなが便利になったんだから仕方ないじゃないか。だが、スーパーを経営する大企業が地元の事情なんて考えてくれるわけがない。都合が悪くなればすぐに撤退するに決まっている。そのときになって慌ててももう遅い。アマゾンは米国の企業である。日本の消費者なんて彼らの知ったことではない。
 お金さえあれば何でも買える。そう思ったら甘い。べつに愛はお金じゃ買えないとか、そういうことを言っているのではない。いくらお金を持っていたって、お前さんに売りたいと思う人間がいなければ買えないのだ。だから、お金は自分を助けてくれる人のために使うものである。そうすれば、そのお金は回り回ってあなたのために使われる。
 椅子取りゲームみたいに足りない椅子をめぐって奪い合うから、お金を持ってる人間だけが座れる世の中になる。だから老後資金が2000万とか、「お金さえあれば」「もっとお金を」という結論になってしまう。でも、椅子が足りなくて座れない人がいるなら、椅子を増やせばいいじゃないか。自分が椅子を買ったら、今度は他の人のための椅子を作れ。みんなが座れるだけの椅子があれば、持ってるお金が多いか少ないかは、そんなに重要じゃないと思うのだが。
 なぜわれわれはゴミ屋さんに感謝するのか。それは、誰かのために椅子を用意する仕事だからである。エッセンシャルワーカーという言葉があるが、仕事とは本来すべてエッセンシャルなはずなのである。

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥

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養老まにあっくす
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