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終わらない旅

【読書】『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ=作・村上春樹=訳/新潮文庫

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 有名すぎてずっと敬遠していた本。僕は見栄っ張りな性格なので、手垢のついた名作をいまさら読むのが気恥ずかしい。そもそもティファニーは宝石屋だ。食事をする場所ではない。それならなぜ『ティファニーで朝食を』なのか。しかしその意味を教えてもらってから、どうしようもなく読みたくなってしまった。

 ホリーはとびきりチャーミングな女の子だ。みんな彼女に魅せられてしまう。だから自然と男たちが集まってくる。しかし誰も彼女を理解できない。ある男は彼女をこう評した。「あんたは脳みそをぎゅうぎゅうにしぼり、彼女のためを思ってさんざん尽くしてやる。ところがその見返りに受け取るのは、皿に山盛りの馬糞だ」。その男は彼女をハリウッド女優として成功させるお膳立てをしてやった。なのにホリーはオーディションをすっぽかしてしまう。悪気など微塵も見せずに。
 普通の人間ならそんなチャンスをふいにしたくはないだろう。でも彼女は自分が女優になれるとは思ってないのだ。彼女が罪悪感を感じるとしたら、その男にそうさせてしまったことに対してである。彼はこうも言う。彼女はまやかし﹅﹅﹅﹅(phony)だ。ただし、本物のまやかし﹅﹅﹅﹅(𝑟𝑒𝑎𝑙 phony)だ。つまりホリーは、自分が本物のダイヤよりも偽物のほうが美しいと思えば、迷うことなく偽物を選ぶ人間なのだ。
 彼女は世間が自分に求めるものと、自分が本当になりたいものとの溝を埋められない。ホリーは主人公と同じアパートメントの住人だが、そこは彼女の居場所ではない。バート・バカラックの“A House is not a Home”という曲があるが、ホリーにHouseはあってもHomeはない。
 そんな彼女にとって唯一の心の拠り所がティファニーなのだ。もちろん高級ジュエリーを買えるほど裕福ではない。ただティファニーは、自分がそこにいてもいいと感じられる場所なのである。彼女の表現を借りれば、「自分といろんなものごとがひとつになれる場所」だ。Homeは朝食を食べる場所である。彼女はティファニーのような場所で朝を迎える暮らしを夢見て、流浪の旅を続けている。

 最初に書いた通りカポーティを読むのはこれが初めてだが、とても気の利いた文章を書くと思った。言葉選びが卓越していて、これ以上の言い回しは考えられない。それは村上春樹の翻訳だからそう感じるのではなく、村上春樹がカポーティから強く影響を受けていると見るべきだろう。
 気が利いているのは文体だけではない。たとえば主人公がはじめてホリーの部屋に入ったとき、まるでいま引っ越してきたばかりといった有様だった。また別の日に寝室へ通されたときは、キャンプ生活でもしているみたいに、いつでもすぐに出ていけるような状態だった。そういう描写がある。これをホリーが見かけに反してズボラでだらしない性格だと解釈することもできようが、旅の途中のような彼女の人生の二重写しでもあるに違いない。名刺の住所が「旅行中」になっているのは、もっとわかりやすい表現である。要するに、文章がそう書かれているのにはちゃんと理由があって、作者は読者がそれに気づいてくれることを確信して書いている。そういう書き方なのだ。
 したがって、作中にくり返し登場する印象的な言葉「いやったらしいアカ」(the mean reds)も、自然と多義的に解釈したくなる。最初にホリーがこの言葉を口にしたとき、主人公は「それはブルー(憂鬱)みたいなものなのかな?」と問いかけるが、ホリーはそれを否定する。結局主人公は「そういうのをアングスト(不安感)と呼ぶ人もいる」と説明した。けれどもホリーは、この言葉を自分が捨ててきた過去や、同時に自分の中にどうしようもなく残り続ける本質に対しても使っている。だから、この「いやったらしいアカ」は彼女が嫌悪する不正直、卑怯者、猫っかぶりといったものをも含んでいると思う。というか、meanは「卑劣な」という意味なので、the mean redsはmeanの方が主意で、赤という色を冠しているのは別な理由があるのだろう。作品が書かれた時代から、そこに共産主義を連想する人もいるようだ(マッカーシー旋風、赤狩り)。たしかにティファニーは共産主義の対極にあるとも言えるが、どうだろう。さすがに深読みのような気もする。だが、カポーティの文章が深読みを誘うことも確かである。
 何を隠そう、僕が原文に何と書いてあるか知っているのは、実際に原典にあたって確かめたからにほかならないし、僕にそうさせてしまう何かがこの作品にはあったのだ。そしてこの本にはまだまだ気づいていない楽しみがたくさんあることは疑いなく、『ティファニー』をめぐる僕の旅はきっとこれからも終わることがないだろう。
(ブクログより転載)

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥


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