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コンテンツの本質とは

昨今、様々なものがスマホやPCの画面から楽しめる様になりましたね。
サブスクで低額で見放題、いつでもどこでも何度でも、好きなものを好きなだけ。

でも、胸に手を当てて考えてほしいです。何か寂しさが残ってないでしょうか?

今回はその寂しさの正体を実例を挙げながら考察し、今後我々はどうコンテンツに向き合っていくとよいのかについて考えます!

寂しさの正体

私がこのような時代の流れによる不安を植え付けられたのは映画に関しての知人の言葉です。
「待てば、ネトフリとか金ローで観れるからわざわざ映画館に行きたくない。」
私はこの言葉を聞いたときに目の前が真っ暗になっちゃいました。家でサブスクやテレビ放映で映画を見ることと、映画館に足を運んでみることが同列に語られていました。映画館で鑑賞するすることの優位性が『早く観れること』だけ、そんな物言いだったんです。

私にとって映画館で映画を鑑賞するということは『靴の上からでも伝わるカーペットのふわふわ感に心を躍らせ、チケットを買い入場時間までそわそわ待って、入場し何度も携帯の電源が切れているかを確認し、宙に浮いてるかのような感触を与える椅子に座り、静寂と喧騒、暗闇と明るみがひしめくシアター内で映画を観て、エンドロール終わりシアターが明るくなった時の場内の雰囲気を感じ、世界が変わって見える感覚に映画の余韻を感じて帰路に着く。こと。』です。(大袈裟に書いたけどね)
忘れちゃったけどどこかの誰かが「映画館に行くということは映画を中心とした小旅行だ」と論じていました。まさにその通りだと思います。

その中の「映画を観る」という部分だけを抽出することはコンテンツとしてどれだけ貧しいものになっているのかは論じるまでもないでしょう。

もちろん、映画館に足を運ぶことだけが映画体験ではないと思います。

ですが(映画以外のコンテンツにも追及していきますがこと映画に関して考えてみると)、映画(のほとんど)というものは映画館で観ることを前提に作られています。お金を払ってチケットを買い、良い環境で集中して観る。それを想定して作られているので非言語的な演出や雰囲気が作られているのです。

友人や家族、恋人と言葉を言葉を交わしたり、お菓子をつまんだりしながら映画を観るということもよいとは思いますが、やはり私は映画館に足を運ぶこと以上に「映画」を楽しむ方法を知りませんし、映画を早送りする、10秒飛ばしを繰り返してみるなんてのは論外ですね。(早送り、飛ばし観に関して掘り下げると長くなるので興味のある人は「映画を早送りで観る人たち」を読んでみてください。大体言いたいことは書いてます。)

映画以外のコンテンツについても考えてみましょう。本!
最初に東浩紀さんと落合陽一さん(ヨロシク!( `・∀・´)ノ)の対談を抜粋します。以下敬称略。

東「本を読むって言った時に、『本』というまず単位があるわけじゃん」
落合「はい」
東「でも本というこの物質的な単位の中には、この表紙とかカバーとか紙の手触りとか、いろんなものが入ってたんですよね。そこから実はすごく貧しいものを取り出して私たちは『本だ。』と言ってるわけですよ」
落合「20KBぐらいしかなかったりとか」
東「全部僕たちの世界ってそれをやってて。私たちはコンテンツという言葉の定義をなんかここ10年か20年で大きく間違えたんじゃないか」

https://www.youtube.com/watch?v=qGQCTJgyk1c&t=46s&ab_channel=NewsPicks%2F%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

【落合陽一】ついに東浩紀と初対談!あの『夢想的で危険』批判を経て、2人は“喜び”を共有できるのか?「タイパ追求するなら生きていない方がいい」 テクノロジーと人間の未来を考える。/ニュースピックス

切り抜かれてたので観たことある人も多いのではないでしょうか?
言葉や例は違えど、私の映画の話と同じようなこと書いていますね。

最近はオーディオブックといって本文を読み上げてくれるサービスを利用する人も増えてきています。読書体験からついには「読む」という行為すらも削がれてしまう時代に片足を突っ込んでいるようです。

コンテンツの本質は情報ではなく体験だ!

高らかに宣言しておきます。

何故、体験こそが本質なのか?

私たちの人生を豊かにしてくれるのは情報ではなく体験だからです。
時間がとてつもない速さで進むようになった今という時代の中で生きる我々にとって少し考えにくいかもしれませんね。何事にも正当性、合理性、を求めてくるこの世の中ですが、人間が生きる意味というのは正しくあることではないと少なくとも私は考えています。

私たちはどう生きるか

上記したように現状ではコンテンツからその本質たる『体験』がすっぽ抜けて見せかけの情報が残っている状態になっています。

コンテンツ-体験(本質)=情報(現状)

とでも書きましょうか。ちょっと違うけど。

皆さんも例が一つや二つ出せると思います。
音楽を聴くことと、ライブに行くこと。
自分の足で歩いた末の景色を観ることと、そこで撮られた写真を観ること
通話することと、実際に会うこと
エトセトラエトセトラ。

足を運んでみてはいかがでしょうか?

私の経験則も込みでお話ししますが、めんどくさいであったり時間が無いを言い訳に足を運ぶのを怠る生活が長く続くとどうしても心が荒む感覚に陥ります。
皆さんもこういった経験ないですか?「最初は面倒だったけどいざやってみたら楽しかった!」きっとあると思います。足を運んで初めてわかることもたくさんあります。(たとえ何も収穫がなかったとしても何も収穫がないという収穫がありますしね。)
有名な映画で「イエスマン」という映画がありますね。問いかけに対して全てイエス!と言い続けると人生が好転したという実話をもとにしたお話です。ここまで極端になろうとは言いませんが、一歩踏み出す癖を身に着けてみてはいかがでしょうか?

時代に逆行しない

いくら映画は足を運んで観に行くものだ!音楽はライブで聴くものだ!登山は実際に自分の足で登るものだ!料理は手間暇かけて行うものだ!とわかっていても、たとえその選択が人生をより豊かにする選択肢であったとしても、時代は楽な方に、時間も金も手間もかからない方に、本質たる体験を削ぐ方向に進んでいきます。
東浩紀さん言う所の「動物化するポストモダン」ですね。

そして、それに逆行しない!!

なぜ、逆行してはいけないのか?それはめんどくさい爺ィになっちまうからです。言葉を選ばずに言うと老害ですかね。になってしまいます。
今、私は上記したように「危険だよ!本質削がれてるよ!動物化するポストモダンだ!」って声高に叫んでいますが今年二十歳になった私が生まれた時にはこのムーブメントというものは既に存在していました。

かつて太田黒元雄は蓄音機で聴くレコード音楽を「缶詰の音楽」と、大宅壮一はテレビを「一億総白痴化装置」と切り捨てました。きっと彼らにも私と同じような危機感を持っていたのでしょう。
可哀想に(;;)

つまりは、その善し悪し関係なく時代の流れには逆らえない

考えてもみてくださいよ。炊飯器があるのに「釜戸で炊け!はじめちょろちょろなかぱっぱ!」って口酸っぱく言ってくる人いたらめんどくさいじゃないですか。

それと同じように、映画館に行かないこと、オーディオブックで本の内容だけすくうこと、に対していちいち目くじらを立てる輩ってのは十年後には物わかりの悪いオジサマオバサマなんですよ。

ですから、時代の流れに身を任せつつ自分たちは豊かな体験を積み重ねて、たまには喫茶店にでも集まって最近の若いモンは~て気持ちよく文句垂れましょう。

おわり

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