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ライフ・ベクター

1.ベクター

 スクルは鳥が片翼を翻すように後方へ銃身を向けると、どこまでも軽やかにトリガーを引いた。

 鮮烈なマズルフラッシュ。――残留した炸裂の力は、銃身と一体化した漆黒のガントレットを介して腕全体に波及し、丹田の内側へと渦を巻いて収斂していく。そして、その力を外へと開放するように身を捻ると、運動エネルギーを下肢に与え、回転の中でも決して見失わなかった前方へと大きく一歩踏み出す。――

「ぐえッ!」「ちくしょうッ」「追えッ。追えッ!」

 ――重たく、濡れた現実が帰って来る。銃撃を利用した回転動作からの鮮やかな一歩――ガン・スピンは敵を一人撃ち倒した後、ぐしゃりと虫の死骸を踏み付けた。

 背後からはハンザイシャどもの怒声と銃弾。階段を登り切ったところには廃マンションのゴミだらけの開放廊下。手すりから外を見れば、廃ビルや廃アパートが墓場じみて屹立するひび割れた灰色の世界が拡がっている。

「チッ――」

 追手は三人――いや、もう二人か。スクルは走りながら、ドアの並ぶ廊下の彼方を見つめる。この辺りは散々荒らされて、どの部屋も無人だ、ハッ、ハッという荒い息遣いが、中年に差し掛かりかけた呼吸器から漏れる。スクルは一秒だけギュッと瞼を閉じ、開いた。

 スクルは走りながらくるりと回ると、切るようにドアノブを捻り、開け放った。

「いたぞッ」直後、ハンザイシャの銃弾が廊下に開かれたドアに擦過音を立てた。――敵の射線を切る。基本動作だ。

 スクルは回転の勢いを前進の力に転じ、さらにくるり、くるりとドアを開け放ちながら廊下を駆け進んでいく。ガン・スピンの応用だ。後方のハンザイシャどもは射撃を諦め、半ばタックルするようにドアを閉じながら追い縋ってくる――その距離は縮まらず、むしろ音は遠ざかっていく。

 ――だがその時。「うおッ」ノブを捻るも、ドアが開かない!スクルは回転の勢いを制御し損ない、つんのめった。ゲートの外の廃墟に、まだ鍵を壊されていないドアがあるとは思っていなかった…。

 体勢を崩したのは一瞬のことだったが、背後からは、バタン、バタン、とあっという間にドアを閉じていく音が迫って来る。

 スクルは唸りながら再び駆け出す――もうドアには触れない。後方では、最後に盾としたドアが閉まる音が響き、怒声がクリアに聞こえた。もはや銃弾を防ぐ盾はない。だが、その必要もなかった。廊下の端が近づいて来た。

 スクルは躰を前傾させ、手を広げた――右腕に装着されたガントレットは、ほとんど手指の動きを妨げない。指に意志を集中させると、疾駆の勢いのまま跳び込むように廊下の手すりに手を叩きつけた。そして、上半身を持ち上げ、下半身を胸元に引き絞ると……隣のマンションへと脚を射出した!

 深く酩酊するような、だが一瞬の浮遊感がよぎる。――2m先、マンションの柵はむき出しのコンクリート。スクルの両足は、そのエッジを捉えた。

「――しッ」着地して、ちょっと小走りになったスクルは、片頬を吊り上げて振り返った。「追っつけるかよ!」直後、銃声!スクルは思わず身を屈めたが、それ以上の追撃は無かった。対岸では悔しげな様子のハンザイシャが拳銃を構えていたが、もう一人がそれをたしなめていた。

 スクルは背負った運搬依頼品――『C-56号材料』のスティール容器に手を回し、ぺたぺたと安全を確かめると、再び駆け出した。

 そのまま意気揚々とマンションの廊下を抜けようとしたスクルの前方――新たに三人のハンザイシャが曲がり角から現れる。「くそっ……」汗と血が染みたシャツにレザーのジャケット、そして牙や角のアクセサリを身に着けている。彼らはスクルの姿を見て取って、それぞれの得物を取り出す。一人が旧式の拳銃。二人が原始的な手斧。

「ヤツが例の”ベクター”だ!殺せッ!」ハンザイシャAが叫びながら銃を構える。だが、遅い。――ダンッとスクルのガントレットが火を噴き、ハンザイシャAはもんどりうって倒れる。その躰を跳び越えてハンザイシャB・Cが突っ込んでくる。走りながらスクルは銃撃するが、B・Cは腕や腹に銃弾を受けてなお猛然と走り寄って来る――戦闘用ドラッグで高揚しているのだ。

 スクルとハンザイシャB・Cの相対距離が一瞬で縮まっていく。スクルは廊下の彼方に眼差しを送る。Bが先頭、すぐ後ろにC。後方で身を起こすAも見える。そのさらに奥には廃墟の世界。――意志を遥か遠くに投げかける。

 手斧を振りかぶったBの目の前で、スクルは廊下から手すりに跳び上がった。――手すりを駆け抜けながらダンッとBの側頭部に銃撃してスピン。そのまま廊下に落ちながら、廻る世界の中で、一瞬だけよぎったCの顔面にダンッと銃撃。――ガン・スピンを終え、スクルは音を立てて着地した。衝撃が体幹に沈む。だが、フラつきすら前進する力に変えてスクルは走り出す!

 背後でハンザイシャB・Cが倒れる音がした。前方では、まだ体勢を整えられていないAが愕然としていた。—―B・Cと違い正気の眼差し。ハンザイシャ集団『R・I・P』の”ガンナー”は精神集中のためドラッグを使用しない。だが、それが仇になった。スクルは、ただまるで抵抗の無いトリガーを無防備な敵に向けて引きまくった。

 ……スクルは速度を緩めて荒く息を吐いた。すでに『R・I・P』のハンザイシャを十人以上仕留めていた。それ自体、すでに他の略奪集団との戦闘からのハシゴだった。遠くで銃声が聞こえた。

「くぅ~ッ」スクルは歯を食いしばり、乾いた雑巾を絞るように再び駆け出した。

 ――安住の地たる『星野市』へと向かって。

2.研究室にて

「――以上。……かな」

 サイダはデスクトップPCに接続されたマイクから顔を離し、キャスター付きの椅子で大きく後方に滑った。背後の実験机にぶつかり、ガシャンとビーカーや試験管が音を立てた。サイダはそれに気付いて、片付けようと手を伸ばしたが、すぐに引っ込めて代わりに髪を掻き毟った。

 サイダは椅子から立ち上がると、幾つもの試験機が並ぶ白い部屋を見渡し、感慨深げに鼻を鳴らした。その一画、円筒のガラスシリンダーに入った液体と、それが視界に入るが、サイダは強いてそれを意識から遠ざけた。

 その時、ピー、ピーと電子音が響き渡った。「おっ、できたか」サイダは分厚い手袋を装着すると、電子音を鳴らしていた恒温槽の戸を開けた。「タイミングばっちし」

 サイダが手袋を差し入れると、胃をくすぐるような煙と、ジュワアアアという音を引き連れた鉄板が取り出された。サイダの眼鏡が曇る。鉄板の上には、地層じみて肉と脂が層を成している四角い肉が乗っていた。それをつるりと皿の上に移す。

「じゃじゃーん。造形肉のステーキだ。最後の晩餐に相応しいね」

 サイダは分厚い手袋で直接肉を掴み、何かに追い立てられるように夢中で貪った。――だが、途中で何かに気付いたように、肉を口から離すと、急にちびちびと噛み締めて食べ始めた。

 皿が肉汁だけになると、脂まみれになった口を手袋で拭い、それを放り投げた。その後も、サイダはしばらく反芻するように口を動かしていたが、ついにごくんと喉を動かし、呑み込んだ。息を吐き、放心したように天井を見上げる。ところどころ薬液が散った天井パネルと、三十年間変わらない輝きの照明。

「――イチコ。ぼくは今から外出する」サイダは天井の汚れを見つめながら言った。「しばらく帰らないと思う。プラントは閉じて、上の植物の維持にリソースを回して良い」

『承知いたしました』天井から抑揚の無い電子音声が応じた。

「この部屋は……今まで通りノータッチで。クレイドルが動いてるから、電力の供給だけは忘れないでね。これだけは最優先だ」

『問題ありません。引き続きサイクルを維持します』

「うん。ありがとう」サイダは言った。そして、眼を閉じた。ゴウン、ゴウンという、施設が呼吸しているような空中の音が静寂に伝わる。

 ……しばらく後、サイダはリュックサックを背負い、データUSBをポケットにしまった。最後にもう一度だけ研究室を振り返る。嫌でもシリンダーに浮かぶそれが見える。

 サイダの頬を涙が伝った。それへの抑えようのない同情と共感が脳を駆け巡っていた。サイダはごしごしと涙をぬぐった。

「……じゃあ、ぼくは行くね」

 自分自身でさえ誰に宛てたかもわからない挨拶を最後に、サイダは研究室の自動ドアを抜けた。

 プシュッと音を立ててドアが閉まると、後には無人の研究室と、静かに駆動する試験機群だけが残された。

3.夢野市

 ――星野市。アポカリプス以前はベッドタウンとして栄えたこの街も、今では『灯浪会』『エンジニア』『ガンマ』の三勢力によって支配される閉鎖都市と化している。だが、それは都市の外に跋扈するハンザイシャ集団や暴走エーアイ、ゲノミクス動物に抗うために必要な防備でもあるのだ。――という触れ込みだ。

 ベクターとして都市の内外を行き来し、多少は現実を知ることになるスクルたちにとって、それは当たらずしも遠からずといった感じで、三勢力が支配を続けるために誇張された部分はあるものの、実際に外の脅威を味わってきた身として、彼らの支配を否定することはできなかった。

「――日和ってるだけかもしれんな」

 星野市の”ゲート”が近づき、速度を緩め小走りになっていたスクルは誰にともなく呟いた。壮絶なモノクロの空の下、生気の失われた街を横目に団地の屋上を進む。はるか遠くの廃墟に、疾駆するベクターの姿が見えた。停止した世界を掻き混ぜるように、瓦礫を跳び越え、廃屋を渡っていく。スクルは歩みを速めた。

『住みやすい街No.1!』の皮肉な文言の書かれた巨大なアルミ看板の橋を通って隣の団地に移ると、ゲートが見えてきた。団地屋上部のゲートはベクター向けに『ガンマ』が管理しており、眼下の道路に設けられた二重フェンスのゲートなどより、ずっと簡易で通りやすい。

「よゥ!スクル!今回は随分と遅かったな」フェンスの前でパイプスツールに腰かけていた屈強な男――カザンが歯を剥きだした。

「よゥよゥ。ハンザイシャ共に襲われちまってな。一個持ち帰るだけでも大変だったぜ」

 スクルは背負っていた『C-56号材料』のスティール容器を「どっこいせ」と降ろした。おっさんがよ、と笑いながら容器を確かめたカザンは、手許のタブレットに妙にかわいらしい動作でチェックを入れた。スクルは再び呻きながら容器を背負い直した。

「よし。通っていいぞ。この分だと、また『エンジニア』から依頼が来るんじゃないか?」

「いいよな。おまえたちは自由に電力が使えて」スクルはカザンの問いに答えず、そのタブレットが繋がる充電コードを見つめた。

「守衛をしている時だけだ」カザンは後方で勤勉そうに30°ほどを維持して傾くソーラー発電機を示した。

「でも待ち時間とかゲームし放題だろ?」

「やり尽くしちまったよ。……いや、仕事に集中しているからそんな余裕は無い」

 スクルはカザンとげらげらと笑い合って別れると、団地内部を降りる階段に向かった。滑るように下りながら、右腕のガントレットのベルトを手先から前腕まで順々に外していく。

 スクルは脱力した百足みたいになったガントレットを目の前でぶら下げた。――人差し指に外装されたような銃身と、残りの四指の動きを制限しないグリップ。そして、発砲の衝撃を巧みに捉える層状の籠手部分。幼少期から慣れ親しんできた、ベクターをベクターたらしめるカーボン製の武器だ。

 スクルはガントレットを芋虫のように丸め、腰のポーチに収めた。ベクターの多くは市内でもガントレットを着用したままだが、スクルは好んで取り外していた。

 鉄製の分厚いドアの前に辿り着いた。団地とゲート街を隔てる1.5mのドアを越えて、凄まじい喧噪が伝わってくる。――別に気負う必要もなかったが、スクルは大きく息を吐いた。そして、外の熱気を押しのけ、ドアを開いた。

「格安ゲノ牛入ったよッ!一頭たったの1000エンッ!」

「『エンジニア』のCEOテンカイの専横を許してはならない!」

「トーキョー産のエピック・タブレット!」

「号外!先日のランカー戦の不正について!」

 叫び、臭い、灯り、湿り――五感を圧倒する衝撃が、団地の狭いドアに吹き込もうとするかのようにスクルを貫いた。「ふぅ~」

 露店からもうもうと沸き立つ料理の煙が狭くるしい道を覆い、その間にごった返す人の波には譲り合いなどない。はるか昔は団地に挟まれた大通りと言ったところだったのだろうが、今やその狭間にはデミ団地とでもいうべき、壁じみた巨大バラックが幾つもそびえ、人混みを影に沈めている。

 バラックから溶け出たような商店からは威勢の良い商いの声や、政治的なアジテーションが響き渡る。見上げれば、バラックから方々に伸びたメッシュ状のキャットウォークに、様々な年代の子供たちが駆け回っている。ベクター顔負けの運動を見せているハイティーンの姿も見られた。

 変化した人間の生活を守り続ける夢野の街と、廃墟ながらも未だ在りし日の栄光を演算し続ける外の世界との間で発生する摩擦と抵抗が、強大な熱となって渦巻いているのが、この西ゲート街だった。

 スクルが人波に20%ほど力を減衰されながらも歩いていると、波濤の中に傲然と居座る岩石のような人影と真っ黒なスポーツカーを見出した。人影――まさに影じみたエンジニア・ブラックの制服だ。

「こんにちは。クロウさん。西エリアの支所に届けようと思ってたんですけどね」スクルは言った。

「必要ない。乗ってくれたまえ。話は中でしよう」応じたクロウは一足先に後部座席に乗り込んだ。「えっと、荷物はどこへ……くそっ」スクルは荷物を下ろし、胸に抱え直してから後部座席に滑り込んだ。ドアをスライドさせると、車両は音もなく発進する。電気自動車というヤツだ。

「まずは『C-56号材料』の確保、感謝する」「ええ、ええ。どういたしまして」クロウはいつもの如く、淡々としている。セールスマンという肩書が似合わない男だが、信頼できる依頼主でもある。

「『C-56号材料』は我が社の材料表に記載されていながら、長年発見されていなかったものだ。この優れた物性は、次世代のガントレットに適応される可能性もあるだろう。――あのエーアイ地帯に忍び込めるベクターは熟練の者にさえ少ない。君が五体無事であったことにも感謝しよう」

 無表情で捲し立てる様は、ミュージック・アプリを連想させた。

「はっはっは……で、次の依頼はなんなんですか?」スクルは遠慮なく切り出した。

 クロウが首をねじ向けた。光線を錯覚する眼差しだ。

「察しが良くて助かる。――BN42区画には研究所がある」

 そこに今回の”運搬物”がある、ということだろう。

「旧笹美町のあたりですかね。……あんな山奥に研究所が?」

「確証のある情報ではない。運搬対象物は、とあるゲノミクス・アニマルだ。だが、これも実在するか定かではない」

「まぁ、その辺りの調査もベクターの仕事ではありますよ。当然、警備エーアイの有無なんかも不明ですよね?」

「そういうことになる」クロウは頷いた。「先ほどの繰り返しになるが、我々は君を高く評価している。不透明な状況でも任務を達成するサバイバビリティは他のベクターには見られないものだ」

 まだ何か言葉を紡ごうとしたクロウを、スクルは遮った。

「なんだか随分と持って回った言い方をしますね。……何か懸念が?」

 スクルの言葉に、クロウの眼光が強まる。

「個人的な意見だが……今回の依頼はかなり危険が高いと考えている」

「……実は研究所の警備状況とかも判ってるけど、諸事情で教えられないとか?」

 スクルは眼を閉じて耳の裏に手を添えた。クロウはそれを無視し、車両前方に向き直った。

「少しでも状況が判っていれば伝えている。普段と違うフローで届いた依頼で少し警戒している、というだけのことだ」

「そういうことですか……。まぁ、わかりました。詳細がわかったら教えてください」

 スポーツカーの窓から『エンジニア』の領地である高層ビル群が見えてきた。汚れた七棟のビルの間には、鉄骨や重機の橋で出来た空中歩廊が繋がれ、電波塔じみた一つの塔にすら見える――実際、その見た目通り”タワー”と呼称されている。

「――ああ、そうだクロウさん」スクルは車内に目を向けた。「オレのガントレットですが、また調整していただけませんかね」

「構わないが――技術者たちは君のガントレットの性能には太鼓判を押していたが」

「いや、性能には満足しています。助かってます。ですが、もうちょいとトリガーを重くして欲しいんです」

「トリガーは軽ければ軽いほうが良いと思っていたが」

「なかなか怖いことを言いますね。あ、いや、大抵のベクターにとってはそうですね。ただ、オレは特別なもんで!」

 クロウはスクルの冗談には取り合わず、取り出したタブレットに何かを書き込んだ。

「その件は伝えておこう。ただ、正確な理由にはついては、技術者と話すときにでも告げてくれたまえ」

「あ、はい」

 そのうちに車両はタワーの前に到着した。

「では、私はここで失礼する。『C-56材料』は私が届けておく」クロウが言った。「このまま先の件を技術者と話すなら途中まで私も行くが。それとも自宅まで送らせようか」

「いえ、ちょっとこの辺りに用があるんで、大丈夫です。では」

 スクルは颯爽とドアを開けるが、「『C-56号材料』は置いていってくれ」クロウが眼を細めた。スクルは胸に抱えたままだった容器をクロウに押し付けると、一礼して降車した。

 スポーツカーがタワーの中心地へと消えて行くのを見送る。

 ――人を殺している感覚が無いんだ。

 それが引き金を重くして欲しい理由だった。ごちゃごちゃと思考が空転しても、結局のところ、そういう感覚の問題に帰結する。

 幼少期から『ガンマ』の施設でスクルが学んできたのは、ベクターの運動の礎となるマーシャル・アーツの数々やバイオ・メカニズムのみならず、人間の生を筋骨の構造と、信号のパターンに変換する技術であり、思想だ。独立してフリーのベクターになっても、それは長らく変わらなかった。

 だが、年を取って躰が重くなり始めて……初めて違和感が生じた。息を荒げて障害を走り抜け、必死に敵から逃げ回る中……射撃の一瞬にだけ解放感を覚えるようになったのだ。かつては、そこに何の感傷も無かったはずなのに。

 老化によって感じ始めた動作の重さ、遅さに合わせて、きっとその開放感にも重りを付けたいと感じてしまっているのだ。”殺人の咎”を枷として……。

 その開放感にしろ、敵の粉砕と、銃撃のカタルシス、回転運動の加速とが短絡して生まれた幻覚なのだろうが――違和感は違和感だ。

「センチになってんな。……本当、おっさんだぜ」タワー周辺のd年期街を進みながら、スクルは呟いた。

 オレは何を望んでいる?

 カネを稼ぎ、安定した生活を手に入れ……その先に何を求めている?

 スクルは空を見上げた。

 灰色に濁った暗雲が空高く渦巻いていた。

4.遊離する心

 ぼやけた視界に橙色の灯りが揺れた。

 それは夜風に削られて、花びらのように眼下の闇に散っていく。手に涙が伝った。驚いてタバコごと手を離すと、灰がごっそりと崩れ落ちていった。

 ベランダから振り返って、締め切られた窓を見た。俯いてから、タバコをバケツに投げ入れ、室内に戻る。

 真っ暗な部屋にはむっとした熱気が籠る。――そして、鼻を衝く糞便と尿の臭い。

 ソファに横たわる死体が異臭の源だ。ユーリは眼を細め、暗い部屋を抜けると、廊下に出た。夜風が濡れた頬を撫でた。廊下を照らす弱々しい蛍光灯に羽虫が群がっていた。

 ユーリは二棟のマンションの間に渡った木製の橋に跳び乗ると、対岸に渡った。そうやって昆虫の巣じみた構造を巡って進んでいくと、徐々に生活のざわめきが増していく。室内からは夕餉の賑やかな会話やトレーニングをする音が聞こえ、廊下では蹲踞でたむろする集団や半裸の男女がじろりとした眼差しを向ける。

「何のようだ?」最上階への階段の途中で、門番のように立つ二人の汗臭い男に止められた。

「ヨースケさんに話があってきました」ユーリが澄んだ声で言うと、眉間を緊張させていた片一方の男が、襟に掛けていた眼鏡を装着してこちらを改めて見つめた。

「……なんだユーリか。なら通っていい」

「え。なんでだ?」最初にユーリに要件を訊ねた男が言った。

「この子はいいんだよ。通っていいぞ」

「ありがとうございます」

 ユーリは一礼して階段を登った。ドアが見えた。中からは笑い声が聞こえる。表札には『灯浪会 月見里 陽介』と鋭い書体で刻まれている。

 ノックもせずドアを開けると、声がわっと大きくなった。ユーリは分厚いスニーカーの紐を解き、玄関に上がった。

 広々としたリビングの入り口に立つと、全体的に体格や姿勢の良い大人たちがアルコール飲料やフライ料理を囲んで談笑しているのが見えた。料理の匂いが鼻を衝き、意図せずに腹が音を立てた。

「ヨースケさん」ユーリが呼びかけると、大人たちは反射的に身を起こしたが、こちらの姿を認めると、安心したように弛緩してソファや座布団に沈んだ。

「なんだ、ユーリか」「さすが、気配がないね」「どうした?……外で話そうか」短髪の男――ヨースケだけは立ち上がってユーリの側へ来た。

「お母さんが死にました」ユーリは言った。

 その言葉が聴こえたのか、背後の賑やかな会話が停止した。

「なん……なんでだ?いつ?」ヨースケの顔が緊張に凝った。

「今日、買い物から帰ったら、首を吊っていました」

 ヨースケは傷だらけの腕でユーリに肩に触れると、「行こう」と促した。

 他の大人たちが何事か言ったが、ヨースケはそれをすべて制し、素早くユーリと外に出た。――

「……確かに、自殺だ。ユーリが見つけた時に急いでいたとしても、間に合わなかったと思う」しゃがんだヨースケはソファに沈んだ死体の首に触れた。

「うん。死んでいました」ユーリは言った。「さっき上に行ったのは、お母さんの葬儀の相談がしたくて」

「そうか……」糞尿の臭いが満ちる暗い部屋で、ヨースケの顔は母と同じ状態に見えた。

「ミナモさんはオレの大事な友人だった……。葬儀は『灯浪会』で行おうか?」

「うーん……」ユーリはちょっと考え、ヨースケの眼を見た。「……お母さんは『灯浪会』が嫌いだって言っていました。だから、僕が自分でやろうと思います」

 ヨースケは表情を変えずに頷いた。

「お母さんは、よく誰もいない丘の上に埋めて欲しいって言っていました。そういう場所を見たことがあるから……行ってみようと思います。あの、なので、本当は棺の相談がしたかったんです」

「そうか……」

「あと、これも返します」ユーリは戸棚から薬を取り出した。「もういらないので。それと、この部屋も引き払おうと思います」

「手際が良いな」ヨースケが疲労した顔で口許を緩めた。「いや、この部屋にはまだ住んでいていい。ユーリだって『灯浪会』の一員だ」

「いや、臭いがすごくて……」

「そういうことか」ヨースケは鼻から息を漏らしながら、窓を開けた。夜風が淀んだ空気を対流させた。

「部屋の清掃は『灯浪会』にやらせてくれ。その間、別の部屋を使うといい」

「わかりました。ありがとうございます」ユーリは頭を下げた。

 ユーリが頭を上げると、ヨースケがまっすぐに見つめていた。

「ユーリ」ヨースケは目じりを緩めた。「何か『灯浪会』の仕事をやってみる気はないか?簡単なものでいい」

「え……」ユーリはたじろいだ。「えっと、お母さんの世話をしている時にに色々経験したんですけど、あまり面白くなくて、おカネはそれなりにありますし……ええと、あんまりやりたくないです」見知らぬ他人と関わるというのは、ユーリとってあまり良い思い出では無かった。

「うーん。そうか」ヨースケは顎をさすった。「……じゃあ、ベクターの仕事ならどうだ?」

 ユーリはピンッと身を起こした。「それはダメなんじゃ?」『灯浪会』では、子供が銃器を扱う仕事をするのを禁じているのだ。

「あのルールなら、ちょっと前に撤廃されてしまった。後進が育たないってね。だから、ベクターの仕事を思い切りやっても良い」ヨースケは口角を上げた。「ウガジンの奴に何か相談してみるといい。何か仕事をくれるはずだ」

「ありがとうございます。それなら、やってみようと思います」

 ユーリはすぐに埃を被った自室に行き、襖からガントレットを取り出した。籠手部分は一切の無駄を排した、絡み合う蔦のような構造をしていた。それでも銃身部分だけはどこまでも硬質だ。

「準備が早いな。そんなに好きか」

「走るのは好きです」ユーリは口許をきゅっと結んだ。

 ヨースケは歯を見せた。「良かった。――じゃあ、今日はオレのとこの一個下の部屋で休むといい」

「ちょっと躰を動かしてから行きます」

「わかった……また、おまえが駆け回る姿を見るのはうれしいよ」

 二人は部屋を出た。「明日、棺について相談させてください」ユーリがそう言うと、ヨースケは頷いた。「わかった。困ったらいつでも連絡してくれ。じゃあ、危ないから早めに帰るんだぞ」

 ……ユーリはガントレットを装着し、夜の街を走っていた。呼吸、脚の回転、血流がひとつのサイクルになって躰を巡る。その車輪に漸近させるようにして、壁を登り、塀を乗り越え、屋根から駆け降りた。ユーリは満月を見上げた。

「オイッ!」

 その時、叫び声が夜闇に響き渡った。ユーリは残心じみて歩を緩めながら、声の主を振り返った。七人の少年が街灯の弱々しい灯りの中に立っていた――いずれも身の丈に合わない両手持ちのアサルトライフルを構えている。こちらより少し年上だろうか。ユーリは周囲を窺う。コンクリート塀に隔てられた民家や小さなビルがある。

「なに?」ユーリは訊ねた。

 眉間にわざとらしく皺を寄せていた真ん中の少年が、急に表情を緩めた。

「やっと止まったよ。ガンギさんの言ってた通りのヤツ」そいつは背後の少年たちを振り返って笑ってから、ユーリに言う。「おまえ、ヨースケさんと何してた?」

「言わなきゃダメ?」説明するのが面倒だった。息を整える。

「オレが誰だか知らないのか?」少年は笑った。

 その支離滅裂な言葉にユーリは恐怖を覚えた。少年たちの間で、また笑い声がどよめいた。ユーリは少年たちのばらばらな背丈のシルエットを確認した。

「オマエ……ちょっと丸くなった方が良いよ」少年はユーリを見下ろすように言った。「ベクターって調子に乗って……大人しくさせてやるからさ」少年はライフルを抱え直した。集団の緊張が膨れ上がった。

 ユーリは動いた。

 ――パンッパンッと撃ちながら、銃身を横に薙いだ。腕を巡る銃撃のエネルギーがユーリだった。くるりと躰を道路の端に導くと、ブロック塀のエッジに一瞬だけ体重を預けて、そのまま塀の裏へと落下した。

 庭の土の上を前傾して疾駆しながら、隣の家の照らす月を見上げて、塀を、雨樋を、屋根瓦を、極小の点として跳び渡った。

 ようやく動いた少年たちが叫び立て、銃声を迸らせる。

 ユーリは屋根の上、月明りの中に到達した。眼下、アスファルトの道路に立っているのは五人。

 パンッ。くるり。もう一度、パンッ。くるり。――二度のガン・スピン。月光と銃火がユーリを加速させる。そのまま一瞬で屋根を通過すると、塀を飛び石にして、再び道路に舞い戻った。そして、回転しながら落下の勢いを殺しつつ、さらにパンッ、パンッ。

 ――ユーリは立ち上がった。最初にいた位置から、大きく半円を描いて少年たちの背後に回った形だ。動き始めてから十秒もかかっていない。

 六人の少年が倒れている――最後に立ち尽くす真ん中の少年の胴と腕に一発ずつ撃ち込んだ。

「ああぅ」首を振っていた少年は力無く崩れ落ちた。

 ユーリはせかせかと倒れた少年たちの脳幹に撃ち込んでいく。いずれも最初の銃撃は即死でなない。ライフル相手に油断はできなかった。一通り撃ち終わると、最後に残していた真ん中の少年に銃口を向けた。

「名前は?」ユーリは倒れた少年に訊ねた。

「ごめんなさい。許して、許してください」ごぼ、と血を吐く。

「ごめん。意味が解らない。何を許すの?」

 少年は泣き出した。呼吸が荒い。脳幹に撃ち込んだ。

 ――夜風が躰の熱を冷ましていく。

 ユーリは大きく息を吸うと、言った。「あの!」大声に、少し喉が傷んだ。周辺の住宅では、窓から外を窺う顔が覗いていた。

「いきなりライフルで襲われました!どなたか『灯浪会』の人を呼んでいただけると助かります!」

 一通り叫ぶと、ユーリはコンクリート塀に背を預けた。市内電話ですぐにでも警邏の者たちが来るだろう。

 ――タバコを咥える。火を付け、少し上を向いた。

 それから、眠るように眼を閉じた。暖かな煙が口の中に満ちた。

5.カミラ

「――どういうことだ。オヤジ」

 スクルはどこ吹く風のオヤジを睨み付けていた。

「見れば判るだろ?払ってくれ」オヤジが指し示した先には、充電器に繋がれたスクルのタブレットとインジケーターがある。周囲にも同じような機器が並んでいる。スクルの頭上で充電屋の露店に掲げられた派手な看板がバチバチと火花を散らした。

「この前はこんな値段じゃなかっただろうがよ!どうなってやがる」

「どうもなってない。インジケーターは嘘つかない……ウチは『エンジニア』直営だぜ?文句付けんのかよ」

「ちくしょう」

 スクルは己のタブレットを見つめた。道の反対からは、アポカリプス以前のポップ・ミュージックが流れている。あれもまたタブレットに内臓されたソフトウェアやアプリケーションによるものだろう。

「どうすんだよ」オヤジが逆にスクルを睨み付けてくる

「くそ……」スクルは悔し気にオヤジを見返す。

「ちょっといい?」

 その時だ。後ろから誰かが話しかけてきた。オヤジが眼を見開いた。振り返って、スクルも眼を見開いた。

 声の主は――ビビットなイエローのツナギ、赤銅色の肌、割れた腹筋とギュッと締め付けられたバスト、パール色の陽に燃える髪……。そういう女性だった。

「えっと……そのタブレット、貸してもらえる?」女がハスキーな声で言った。

「え?ああ、どうぞ」オヤジが答えた。

「ふぅん。あ~……」タブレットを受け取った女性は、しなやかな指でタブレットを掴み、ためつすがめつ観察する。

 そして何かに気付くと、充電口に唇を近付け、息を吹きかけた。ぶわっ、と埃が舞って、女性は顔をしかめる。

「ここにゴミが詰まってただけね」爪先で充電口を叩く。「……これくりあどっちも気付いていいと思うけど、あの『エンジニア』様がこれで営業していたってんなら……」女性はニカッと笑った。

「わかった、わかった!」オヤジは降参したように両手を挙げた。「今回はまけといてやる」

 タブレットを受け取った女性は……「何してんの?あなたのでしょ?」スクルにそれを投げ渡した。「うおっと!」スクルは慌ててそれを受け取った。

 女は苦笑する。「あなた、ベクターでしょ?普通、もうちょっとシリアスな生き方をしてるもんじゃない?」

「偏見だね」スクルはへへっと笑い、女性の足下を見た。「あんたこそ、技術者っぽいけど、ベクターだな?でも初めて見る顔だ」

 スクルが見たのは、女性の履くスニーカーだった。熟練の技術者が製作したベクター専用の無骨なスニーカーは一目見れば判るものだ。

「アタシはカミラ」そう言うと手を差し出す。「左右田市のベクター。夢野には先週から滞在してる」

「オレはスクル。残念なことに夢野生え抜きのベクターだ」スクルは手を握り返した。「他所からベクターが来るなんて珍しいな。何かでかいヤマがあるなら是非とも協力したいね」スクルはウィンクした。

「夢野はいいとこじゃない。何が残念なの」カミラはくすくすと笑った。

 ――カミラはタワーに用があるらしく、案内を買って出たスクルは、電気街の中を大仰な所作で紹介しながら『エンジニア』の総本山へと向かった。電気街には少し慇懃無礼な感がある商いの声と、抑揚の無い電子音声、それに賑やかな音楽が響く。そこにはエンジニア・ブラックの社員や、パーカー姿のオタクたちが行き交う。

「左右田市には『エンジニア』ほどの施設が無くてね。一度勉強しておきたかったの。それに、この前まさにガントレットが壊れちゃってさ。ついでに造形を依頼しようとね」

「ああ……わざと付けてないわけじゃなかったのか」「無いと下着を付けてないような気分がする。スクルは?」「いやぁ、いつも街中じゃ付けてないからなぁ」「え?下着を?」カミラが眼を見開く。

「違う違う!」慌てたスクルを見て、カミラが肩を揺らした。スクルは言う。「普段からあんなもん付けてたら、気が休まる時なんてないぜ」

 ――二人はゲノカラスが飛び交うタワーに辿り着く。タワーのエントランスにはレジン・プロテクターを装備したセキュリティが彫像のように立っている。カミラはセキュリティゲートを颯爽とくぐる。……他所からやってきたベクターがタワーにこうもあっさりと入れることを訝しみながらも、スクルも認証カードを切り、弛緩した歩みで付いていった。

 階段を二段飛ばしで登った先、自動ドアを抜けると一フロアをまるまる使用する広大な空間に出た。とはいえ、広間の大部分は整然と並ぶ機械群によって埋め尽くされ、工場じみて狭苦しい。機械の間ではエンジニア・ブラックの社員が忙しなく動き回っている。

「ここが『エンジニア』のはらわたね」カミラが呟いた。

「ああ。機械はいろいろ形があるが、並んでるのは全部造形機……いわゆる3Dプリンタだな。レジン製の衣服だとか、金属の部品なんかも造ってるが……見ろ、あそこだ」

  スクルの指差した先では、今まさにプリンタの蓋が開かれ、窯から出される焼きたてのパンみたいにガントレットが取り出された。この段階ではガントレットの構造以外にも、サポートと呼ばれる足場状の構造がびっしりと付いており、発掘途中の化石か氷柱のアートのようにも見える。

「あそこから余計な部分を切り落としたり、いろいろ後処理があるんだよね」

「そうそう。詳しいな」スクルは出した手を引っ込めた。「おっ……あっちでは面白そうなもの造ってるな」

 スクルは少し離れた位置の大型プリンタの近くに寄った。技術者と、依頼者か見学者と思われるおかっぱの少年がいる。

「何を造ってるんだい?」スクルはにこにこしながら近づいた。

「棺です」少年はニコリともせずに答えた。澄んだ瞳をしている。

「思いのほかヘヴィなものを造ってるな」スクルは微笑んだ。

「レジン製で重量はかなり軽くなるはずですよ」技術者が言った。

「そういうことじゃねぇんだよ」

 眼前のプリンタの覗き窓の中では、言葉度落ちの巨大な棺が造形されている。――

「スクル!」振り返れば、遠くのプリンタの前でカミラが手をこまねいていた。「アタシのガントレット、もう出来上がってるってさ!」

「あいよ!」威勢よく答えたスクルは、腰を低くしてカミラの下に駆け寄っていった。「ひょっとすると、オレの生活に足りてなかったものはこれかもしれんな……」そう呟きながら、スクルは感慨深げな顔をした。

 カミラは顔を笑みにして完成したガントレットを見せてきた。意匠は全くない無骨な代物だった。頑丈さ、堅実さに重きを置いた構造であることがわかる。すでに焼結などの後処理は終わっており、十分な硬度がある。

「良いデザインだな」スクルは一瞬だけ透徹するような眼差しを向けた。「ただ、普段のプリンタと違うわけだから、細かい使い心地は実際に確かめてみた方が良いだろうな」

「寸法は問題ありませんよ」技術者が言った。

「使用者にしか判らん機微があんのよ」

「実戦。わかった」カミラが言った。「3Dデータの手直しも依頼できるんだよね?」カミラはおそらくその3Dデータが入っているのであろう己のタブレットをくるくると回した。

「もちろん」スクルは答えた。

「そっか。じゃあ、さっそく試しに行こうかな」

「へ?」

 ……スクルは路地のパイプを掴んでサルみたいにしばらく登ってから、対岸の窓の庇に飛び掛かると、力を丹田に溜め込み、一気に躰を持ち上げて跳んだ。

「手の動きの方は問題なし」

 商業ビルの屋上に登ると、一足先に辿り着いていたカミラが、綺麗な掌底を繰り出しながらガントレットの動作を確かめていた。

「いやぁ、こんなに早いとは思っていなかった」スクルは、涼やかに髪をかき上げるカミラを見ながら呟いた。

 爽快な風に周囲を見渡せば、すでに目的地の夢野駅周辺――現在の『ガンマ』領地だ。駅そのものを改造した懐かしい『ガンマ』の訓練施設や、サロンを装った風俗タワーマンション、旧結婚式場を利用した教会などが建っている。

「何言ってんの」カミラが片方の口角をぐっと上げた。「左右田市のベクターじゃ、私はナンバー2なんだ。それが、こんなあっさりと追い抜かれて、ちょっとショック」

「ははぁ」スクルは笑った。「……いや、オレだって夢野のベクターじゃ、それなりにすごいほうなんだぜ?」

「え?ひょっとしてランカーだったり?」

「いや、そういうわけじゃないが……」

「なんだ」

 そう言うが早いか、カミラは商業ビルの上から猫のようにぴょんぴょんとビルを跳び渡っていく。

 スクルはちょっと趣向を変え、ビルの道路に面した窓を四階、三階、二階とテンポ良く降りていき、駅前の高架道路に立つと、腹の底でエンジンをぶん回した。

 一気に加速すると、行き交う人々の間を稲妻のように駆け抜け、花壇を踏まないようジャンプし――「ちとどいてくれ!」通路の柵を跳び越えつつ叫ぶと、フリーマーケットと化したロータリーに着地した。「いでッ」呻きながらも体勢を立て直したスクルは、驚いて退いた人々にチョップを繰り出すように挨拶して人波を切り分けると、商品の広がるビニールシートの間を抜けて、旧きを偲ぶ駅前のモニュメントを蹴り上がって、高らかに四肢を広げながら再び高架道路に躍り出た。

「うっそ」……そして、ちょうど目の前に現れたカミラと鉢合わせになった。「ははは」腰をさすりながらスクルはサムズアップした。

 ビル群を跳び渡り高架道路を迂回して目的地に向かったカミラと、そこをぶち抜いてまっすぐに向かったスクルが同じタイミングで到着した形だ。

「ふーん」カミラは楽し気に唸った。「スクルのすごいところってのは目的まで最短で向かえるってところ?」

「いや、”遊び”を知っているってところさ」

「スマートじゃないね」

 二人がたどり着いたのは『ガンマ』の巨大施設――かつては百貨店などと呼ばれていた荘厳な建築物だ。まだ陽は高く、電気街で出会ってから短い時間に随分な距離を移動してきたものだ。

 高架道路から三階部分に入ると、天井の天使や獅子の彫刻に妖しげに彩られたエントランスと、その奥の真っ暗な空間が二人を迎える。

 陽光が背後で潰え、眼が暗闇に調節されると――くぐもってなお強大な歓声と共に、この施設の本当の姿が露になる。

 地下施設じみた狭く薄暗い空間にはヒトとモノが溢れかえり、その波間にはネオンライトやLEDライトのダークな灯りと、それを拡散させるスモークが満ちる。天井では仄かに光る液晶画面が各エリアへの案内や、”試合結果”を伝えている。各種サポートグッズの並ぶ『エンジニア』の支所もあり、そこら中でベクターとエンジニア・ブラックの社員がやり取りしている。その間も、喧噪のベースには大きな歓声が響いている。

 ここはアリーナ。ベクターたちのもう一つの戦場である。

「噂のランカー戦やら段位戦ってのを見ていってもいいかな?」カミラが周囲を見渡しながら言った。

「もちろん!」本来の目的は、訓練場でのガントレットの性能検証だが、こう言われればスクルは従う他ない。

 少し進むと、もはや絶叫じみた歓声。

 そして、三階の吹き抜けから……それが見えた。

 巨大な円形の空間の底では二人のベクターが障害物の間を駆け巡り、舞い踊りながら、ガン・スピンを交わしていた。

 地下一階に当たる部分に設けられた円形闘技場に対し、一階と二階を繋ぐすり鉢状の観客席が設けられており、ベクターの動作に一喜一憂する人々がひしめいている。吹き抜けは三階まで続き、観客席に入れなかった人々がフェンスに鼻面を押し付けながら、下方を眺めている。

「アリーナ――左右田にはない娯楽だろう?」

「そうね。いわゆるランカーってアリーナ専属で外の仕事とかはしないの?」

「そういうやつもいるが、上位のランカーになるほど仕事の依頼も増えるから二足の草鞋ってパターンが多いかな。昔は野性の狼みたいだったやつが、今やアリーナに出ずっぱりってパターンもあるが」スクルは苦笑した。

「そうなんだ……こっからじゃ、あんまり見えないね」カミラが呟いた。

「この建物にゃあと三か所アリーナがあったはずだが……まぁ今からじゃどこも満員で入れんだろうな」

「そう思う?」カミラはツナギからチケットを取り出した。

「おっと……」

「今日のアタシの予定は『エンジニア』でガントレットを受け取って、『ガンマ』で訓練して……アリーナで試合を見ること!」カミラが挑戦的な笑みで掲げたのは今日のエキシビジョン・マッチのチケットだった。

「ははー……全部予定通りだったってわけか」スクルは頬を引き攣らせた。「だけど、それはオレというイレギュラーが混じって楽しい行程に変化し……」スクルは一枚しかないチケットを眺めた。「……結局最後には一人で寂しくアリーナを見るはめになるわけだ。残念だったな」

 カミラは指先をスライドさせた。すると、チケットが二枚になった。

「あれ!?」

「左右田市から来た他のベクターと一緒に見る予定だったんだけど、そっちはダメになっちゃってね」

「あ、そう」

 カミラは歯を剥いて、顔を笑みにした。

6.虐殺紳士ムヘンコーヤ

「時間だ」

 アリーナ職員の緊張した呼びかけに、ベンチに腰かけていた三人の男女が顔を上げた。アリーナ出場者の待機所は沈鬱な雰囲気に包まれている。

「対戦相手は誰なんだ?」短髪の男が訊ねた。残りの男と女がびくりと躰を震わせた。

「……アリーナに入るまで知ることはできない」職員の声の調子はまるで悼むようだった。職員はすぐにドアの向こうに消えた。

「くそッ!なんでよ!なんでなのよォ!」「うう……」

 躰を震わせていた背の高い女が叫び、体格の良い男のほうが小さく呻くばかりだ。

「うるせェ!」短髪の男が二人を一喝した。二人はピタリと静止する。

「勝てば無罪放免。こんなに良い条件があるか?下手すりゃ『灯浪会』にハチの巣だったんだぜ?そりゃこの街にはいられなくなるが、オレたちなら平気だ。やっていける」短髪の男の言葉は力強い。

「だから、まずは目の前の戦いに集中しろ。幸い、相手は人間なんだ。オレたちの連携なら必ず勝てる」

 ――この三人組は依頼品の横領で夢野市自治会から指名手配されていた。そして『灯浪会』の警邏に身仕えいそうになったところで、『ガンマ』に投降し、アリーナでの公開審問を選択したのだ。大抵は捕らえられた暴走エーアイやゲノバイソンが相手で勝ち目などないのだが、今回は特別にランカーが相手なのだという。

 男の演説は配下のような二人に然るべき覚悟を宿らせたようだった。――男はちょっと皮肉げな笑みを浮かべた。

「おい、何してる」再び職員が顔を出した。

「まぁ落ち着いてくれよ。こちとら下手すりゃ最後の晩餐なんだぜ?」

 さっきは必ず勝てると言った癖に、男は平然とそう答えてコップの水を呷った。職員は憮然として、三人が立ち上がるのを待った。

「覚悟決まったよ、兄ィ」「ぼ、ぼくも」背の高い女と大柄な男が水を飲み干し、立ち上がった。二人の言葉に、男もまた力強く頷いて腰を上げた。

 ……天高く、太陽と見紛うばかりの燦然としたライトがアリーナを照らす。観衆のざわめきは嵐のようだ。

『本日のエキシビジョン・マッチに登場するベクターはこちら!』

 陽気な司会者の声がスピーカーから轟く。観客席の各所に吊るされた液晶画面には三人の男女のバストアップが映し出される。

『まずはソリドウ!ノー・ランク!背中まで伸びたガントレットと、大口径の銃が特徴です!ベクターとしては、その体格を生かして北部コミュニティの建材の運搬などにも携わっていました!』

『次に”スティンガー”ベニコ!Dランカー!銃剣の付いたガントレットによる果敢な戦闘スタイルは、かつてアリーナを席巻しました!あれから3年が経ったいま、このような試合に彼女が出場すると誰が予想できたでしょう!』

『そして、”赤鬼”のカワラギ!Cランカー!その荒々しい戦いはまさに鬼と呼ぶに相応しい!対戦相手の銃撃を恐れないスタイルは、この実弾使用可のエキシビジョン・マッチにおいて、どのように変じるのでしょうか!』

 司会者の紹介には、死刑囚への侮蔑も哀悼も無い。

『さぁ!我らがランカー三名の登場です!』

 ――円形のアリーナには最大高さ5mほどのビルを模したオブジェクトや、遮蔽物になるような瓦礫が散らばっている。平坦な道はほとんどない。廃墟ステージと言ったところだろうか。

 そこへ、入場口から当の三人が現れる。……真ん中には見知った男。

 彼らが現れた瞬間、会場には歓声、怒号、どよめきがあらゆる声域を満たして響き渡った――都市の造反者が出場するとあって、エキシビジョン・マッチは普段とは違う客層がかなりの割合を占めるため、陰惨な怒号と悪罵がほとんどを占めるのだが、今回はベクターVSベクターという特別な形態ということもあって、客層に違いがあるようだ。

 カワラギが片腕を掲げた。音の波がアリーナの縦穴を巨大な渦潮にする。

「オイッ、カワラギ!」

 その中で、刺すように伝わった声にカワラギが振り返った。

 ……スクルは口許に手を当てて呼びかけていた。特等席とアリーナは強化ガラスで隔てられているものの、音は通るように穴があけられている。カワラギがこちらに気付き、近づいて来る。

「何してんだ、スクル」カワラギが怒ったように言った。

「何してんだはこっちの台詞だ。とんでもないことになったな」

「ま。自業自得さ」カワラギは鼻を鳴らした。

「何しでかした」

「外のハンザイシャ共にちょっと物資をおすそ分けしたのさ」

「ククッ、ついにやっちまったなぁ!」

 スクルは思わず笑った。昔からカワラギという男は廃墟で生きる人間たちへ施しを与えていた。

「おまえはなんでそんな席にいやがる?」カワラギが訊ねた。「隣のお姫様のおかげか?」

 カミラは肩をすくめた。スクルが答える。「お姫様じゃない。カミラって言うんだ」

「お~、そうかい。おまえがしくじるなら女だと思ってたぜ。気を付けろよ」

「うるせぇ」

 クククッと二人で笑い合った後、カワラギは死地へと戻っていった。

「お友達?」カミラが訊ねた。

「何度か一緒に仕事をした」スクルは微笑んだ。「あいつはちょっと真面目すぎたな」

 凄まじい照明の下、カワラギの子供のような横顔が消え、逞しい背だけになる。

「行くぞッ!野郎共ッ!」

 カワラギが叫ぶと、オウッと両脇のベニコとソリドウが応じた。

『続いて、対戦相手は……』司会者が一瞬、沈黙する。スクルは真っ直ぐに戦場を見つめている。

 入場口の暗がりに、白熱する一対の巨大な眼が輝いた。

『――”殺戮紳士”ムヘンコーヤ!Aランカー!まさに断罪者として相応しい人選と言うべきでしょうか……。ランカーとしてもベクターとしてもキル数ナンバー1を掲げる異端の戦士です!』

 巨大な眼はその頭部を覆うガスマスクのゴーグルだった。

 ムヘンコーヤの全身は黒い――黒いガスマスク、黒い燕尾服、黒いハーフパンツ……そして、四肢を構成する黒い義肢。肘と膝の先は幾つもの節を持つ奇怪な構造で、昆虫の肢の先端じみていた。

 ムヘンコーヤはその長い腕を胸の前でX字に組んでいる。両手には義肢と一体化した銃身――二丁持ちのベクターはごく少数だ。

「あいつ、強い?」カミラが真剣な表情で訊いた。

「安らかに眠れカワラギよ。相手がちと悪かった」スクルは胸元で十字を切った。

 アリーナでは、”造反者”たる三人と、処刑人が向かい合っている――そのぶつかり合う殺意の中心に、巨大なコンクリートの円柱がせり出してくる。開幕、真正面からの撃ち合いを避けるための工夫である。スクルの視界には、カワラギたちの背だけが見え、ムヘンコーヤは消える。

 観客席の叫喚が増し、反対にアリーナの内側には音ではない恐ろしい静寂が満ち始める。カワラギが振り返ることは無い。……

『それでは、試合開始ィッ!』

 ――カワラギたち三人は目配せし、すぐに弾かれたように右方向へ跳んだ。円柱の向かい側にいる敵を初動で狙いに行った形だっが、すでにそこに敵の姿は無かった。

 円形アリーナの外周を巡るように疾駆する三人はある地点で散開した――カワラギがビル様オブジェクトに身を乗り上げ、ベニコは瓦礫を進み、ソリドウがわずかに遅れてオブジェクトの角を移動する。

 たとえ敵がAランカーだとしても、発見し次第三体一の状況に持ち込めれば、銃弾の量で勝ちだ。それまでに各個撃破だけは避けなければならない。――カワラギは作戦を脳裏に演算する。

 フッと路地じみたオブジェクトの間に影がよぎる。「南西のビル!」ベニコの叫びが響いた。カワラギがそこを見た時には、すでに敵の姿はない。

 カワラギは中央の円柱に跳び渡る――ベニコは瓦礫、ソリドウはオブジェクトの影。三人のとる陣形は、いわゆる”銀河の陣”だ。恒星として一つ高い次元でカワラギが戦場を俯瞰し、惑星としてソリドウが後方にどっしりと構え、衛星の如く最前線のベニコが駆け回る。

 ――瓦礫の間を、また影が駆け抜けた。ぱんっぱんっとベニコが銃剣のついたガントレットから発砲した。カワラギは銃弾が爆ぜた地点に屋上から向かう。ソリドウは大口径の銃身を上げ、ベニコのフォローに向かった――その背後に影が生じた。

 ドンッ!敵の気配を感じ取ったソリドウは背後に銃撃し、ぐるりと躰をスピンさせた。彼は巨体を宙に投げ上げ、大きく退く。――敵の姿はない。

「敵がいたけど、消えた!」ソリドウが叫ぶ。「敵は恐ろしく速いぞ!注意しろ!」そう言いながら、カワラギはまらオブジェクト上を渡る。ベニコは敵を探してきょろきょろと周囲を窺う。

 ――また、影。カワラギが撃つ。影は消える。カワラギは移動する。影。ベニコが撃つ。消える。ソリドウが撃つ。カワラギが撃つ。ベニコが撃つ。カワラギが撃つ。影は捉えられない……。

 焦燥が三人の動きを鈍くしていく。影の動きは獣が獲物をいたぶるかのようだった。それでも、カワラギは敵の動きを想像し、脳裏に象を結ぼうとする――その動きは、徐々に渦を巻くように収斂してはいまいか?

「――ッ!」カワラギはすぐ足元で萎縮したようにガントレットを構える配下の二人を意識した。三人の距離はあまりに近かった。

「陣を拡げろ!散開しろッ!動けッ!」

 そう叫んだ時、カワラギは慌てて隣のオブジェクトに移動していた。指示の意図に気付いたベニコも離れようとした。ソリドウは呻いた。……一片の影の波濤が生じた。

 ――通常の人体ではあり得ない体勢でずるりと上半身を持ち上げたムヘンコーヤは一瞬だけヒト形になってから、ベニコとソリドウ相手に、踊った。

 ばらばらの絵柄が描かれた走馬灯の如く、銃火を舞台にした異様な劇が演ぜられた。マリオネットじみた影は奇怪な姿勢で両手を輝かせた。マズル・フラッシュに三人の影が浮き出される。ベニコが両手を持ち上げる。ソリドウが叫ぶ。ムヘンコーヤは踊る。ベニコは転ぶ。ソリドウが背を向ける。……銃撃の多重奏は絶叫に彩られ、尾を引く絶命の呻きで終幕した。

 ……カワラギがオブジェクト上から見下ろしたときには、すべてが終わっていた。――いや、今カワラギの目の前に、天に落ちるように身を投げ上げていた影が着地する。

 影は――殺戮の紳士は慇懃に礼をした。

「おおおおおッ」雄叫びを上げたカワラギのガントレットが火を噴いた。ムヘンコーヤはぐにゃりと躰を沈めて銃弾を回避していた。カワラギはガン・スピンから蹴りかかるが、影は滑って一瞬でその背後に回る。だが、カワラギの憤怒の眼と赤いガントレットは翻る炎のように敵の動きを追っていた!カワラギは、ガンナーのように一瞬で射撃姿勢を整えると、トリガーを引き続けた!ムヘンコーヤもまた、ガン・スピンを繰り出しながら銃撃の応酬に応じる!

 ……静寂。

 カチッ、カチッとカワラギは弾切れ後もトリガーを引き続けていた。極限の緊張から解放されたカワラギは、回転を止めて停止したムヘンコーヤと向き合った。

 相打ちか?カワラギの脳裏に疑問が浮かぶ。どちらも死んでいておかしくない銃撃の嵐だった。そこからさらに数秒。どちらも倒れない。血は一滴も流れていない。

 ……ムヘンコーヤが両手を開き、足下を示した。オブジェクトの上には薬莢が転がっている――その中に、炸裂のエネルギーを凝らせたような物体が混じっていた。目を凝らせば、それが宙で銃弾と銃弾が激突して癒合した物体だとわかる……。

「ベクターとは常に動き続ける者のことをいう。貴様らは、ただの木偶人形だ」

 ムヘンコーヤが言った。

 愕然としたカワラギの額と胸に血の華が咲いた。

7.その依頼

「――次の仕事、組まない?」隣から、声。

 決着を迎えたアリーナを見ていたスクルは、少しだけ下を向いてから、カミラに向き直った。

 カミラはまっすぐにスクルを見つめていた。――深いブラウンの瞳。

「次の仕事ってのは?」

「明日にでも『エンジニア』から依頼が来るはず。BN42区画で、とあるゲノミクス動物を確保するってね。――左右田市のベクターと組む件についても記されているはず」

「それか。……説明してくれ。色々とな」

「あそこ、見える?」カミラは答えず、代わりに観客席の二階部分に張り出した席を指差した。肥満体の男と、残虐性を陽気で繕ったような男が座っている。

「デカいほうは『エンジニア』のCEOだな。もう一人は……」

「あれはうちのボス。名前はカゲユキ。左右田で一番強いベクター。さすがに、今の”殺戮紳士”には及ばないだろうけど。そして、彼は左右田の遠征隊リーダーでもある。目的の物品を確保するためのチームね」

 ……アリーナには喝采が降り注いでいる。殺戮紳士は大仰にお辞儀し、場外に消えて行く。

 カミラは生者の消えたアリーナに向き直った。

「BN42区画のゲノミクス動物――その情報をもたらしたのは、三か月前に左右田にボロボロの状態でやって来た研究者、サイダって男。その二日後には、その時の傷が元で無くなった。ハンザイシャに襲われたみたい」

「研究者って判ったのは白衣でも着てたからか?」

「いや、そのゲノ動物の研究データを持っていた」

「どこぞから奪ってきた可能性もある?」

「本人の顔写真と紐づいた資料があったから、少なくとも関係者なのは確実。ついでに言えば、BN42区画に調査に赴いたチームが暴走エーアイに返り討ちになったことから、何らかの施設があるのも確実」

「ま、そこを疑う必要はないってこったな」あとでクロウにも確認しておくべきだろう。「……で、その暴走エーアイをどうにかするためにオレが担ぎ出されたわけね」

「そう」カミラは答えた。スクルはカミラの鋭い横顔を見つめた。

「とはいえ、調査チームは暴走エーアイについて、二、三言喋って死んでしまったから、情報は皆無。それでも、夢野にいるエーアイ工場侵入専門のベクターなら行けるはず……そういう判断があった」

「別に専門じゃないが、まぁオレが適任だろうな」スクルは鼻を鳴らした。「他にもいろいろと質問があるんだが、依頼が来てからの方が良いかね?」

「いえ、ここで大丈夫。伝えられることは伝えたい」カミラはスクルを見つめた。

「じゃあ、そうだな。質問は三つ。一つ目は、そのゲノ動物は何なのかってことだ」指を三本立てる。

「ごめんなさい。早速だけど、答えられない。知らないのではなくて、今は教えることが出来ない」

 二人の眼前で、アリーナの地面が分割して沈んでいき、次なる会場のパーツをせり上がらせる。

「そうかい。じゃあ二つ目」指を一本折る。「夢野市の偉大なベクター、スクルに依頼するってのまではいい。だが、なんで『エンジニア』から依頼が来るんだ?おたくのボスは上で何やってる?」

「それで三つ?」カミラは微笑んだ。「いや、合わせて二つ目だ」スクルは二指をハサミのように動かす。

「カゲユキが使える伝手が『エンジニア』だけだったからって聞いてる。私たちが夢野に簡単な手続きで入れたのもそのおかげだって。だから、ああして接待してるんじゃないかな」

「ふーん、そうか。あのCEO……テンカイって男は結構な曲者でな。正直、裏を疑っちゃうぜ」

「こっちではまともな人って聞いていたけれど」

「あの男が率いる調査隊がトーキョーの工場からガントレットの基になる3Dデータと積層造形機を発見したことが、ベクターやこの夢野周辺の都市の発展に結びついたってのは有名な話だが……手放しで英雄と呼べる男じゃない。調査隊の破局の原因はこの男だったって言うし、『ガンマ』の前身になる施設で虐待や人体実験まがいのことをやってたのもこの男だ」

 テンカイからは直接、間接問わず幾度か依頼を受けたことがあったが、いずれも禄でもない目的や裏があった。

「へぇ……」カミラが眉を顰める。

「調査隊の生き残りは左右田に行ってないもんな。神無月のベクターなんか『エンジニア』に親でも殺されたのかって勢いだぜ」

「そうなんだ。まぁ、ウチの隊長も性格悪いから、出し抜かれるようなことは無いと思う」

「ああ、容赦なく利用するつもりで交渉した方がいいな」指を折る。「最後だ。さっきの話ともちょっと関わらうが、そのゲノ動物ってのはどっちの管轄になるんだ?テンカイが見返り無しってのは考えづらいぜ」

「どっちの管轄ってわけでもない。人類共通の資産になるだけの価値のあるもの」

「そりゃすごい。でも、どっちかの手には収まるわけだろ?」

「そうね。たぶん管理や研究は『エンジニア』の手になるはず」

「なるほど。テンカイもそれで乗ったわけか」スクルは頷いた。

 カミラは受け入れるように手を広げた。

「依頼が来たら、左右田のベクターも付いていく。アタシ含めて七人」

「はん。信用されてないわけね」

「貴方の指示には従う」

「足手まといって言ったら?」

 カミラがスクルを睨み付けた。スクルは真っ向から見つめ返す。

「……はぁ、アタシの実力、見てなかったわけじゃないでしょ?貴方が十分動けるのもわかるけど……」

「見たさ。だが別の話だ。暴走エーアイとどれくらいやり合ったことがある?」

「いつも戦ってる。左右田のベクターが年にどれくらい死ぬか知ってる?」

「知らないが、オレは十五年間エーアイの工場だとか施設に潜ってきた。まだ死んでない」

「それは知ってる。私たちにも覚悟は出来ているって話」

「オレは足手まといって話をしてる。エーアイの弾幕の中でぞろぞろと金魚の糞みたいに連れて歩けない」

「わかりました」カミラが背筋を正して言った。「付いていくのは一人、これだけは譲れません」

「付いて来るのはカミラだ」

「当然でしょ」

 カミラはスクルを見下ろした。

 スクルはへへっと笑った。「いいね。なかなか……面白くなってきた」

 二人は立ち上がり、次の試合を待つ観客たちを抜けていく。

 ――VIP席。天蓋に覆われた席は影に沈んでいる。テンカイとカゲユキはアリーナから零れる光をうっすらと顔に受け、舐めるように会場を見下ろしていた。

「殺戮紳士ムヘンコーヤ……確かにすさまじいですな。彼なら問題ないでしょう」

 カゲユキはささくれ立ったようなオールバックの髪を撫でつけた。

「彼は最強のベクターだよ……。我らの虚無を贖う使徒としても相応しい」

 テンカイが言った。その昏く輝くような眼を、カゲユキは目許にちらと皮肉の翳をよぎらせながら見つめた。

「しかし、彼をエーアイ施設に向かわせるという訳にはいかないのですかね。そうでなくても他のAランカーだとか。ノー・ランクというのは何とも……」

「他所の人間はランカーに期待しすぎだな」テンカイは薄く笑った。「スクルの奴はとんだ問題児だが、エーアイ攻略についてはプロフェッショナルだ。それに、プライドというものがない。上位ランカーにもなると仕事を選ぶからな」

「そういうものですかね」カゲユキは曖昧な笑みを浮かべた。「まぁ、アレを確保できるならそれに越したことは無いですよ」

 そう言ってカゲユキは笑った、テンカイも腹を震わせる。

「では、本当に良いんだな?」テンカイの眼が光った。

「もちろん。人類共通の資産たるべきもの……然るべき者の手にあるべきですし、そのためには少々の犠牲は止むを得ますまい」

 カゲユキが眼を弓なりにした。

 テンカイはふふん。と笑うと「バイス」と背後に呼びかけた。

「はっ」エンジニア・ブラックの男が闇から染み出す。

「”然るべき依頼書”を出せ」

 はっ、と再び答え、バイスは闇に消えて行く。

 ――バイスの背後からは、まだテンカイと左右田の胡散臭い男の談笑が届く。バイスはVIP席への直通通路から出ると、屈強なガードの間を通り抜け、百貨店の人混みに出た。

 その横に、いつの間にか男がぴったりと並走している。

「……やはり事実だ。テンカイは左右田の連中と何か企んでいる。依頼書も、おそらくは『ガンマ』を介さないものだ。引き続き探りを入れる」

 バイスの背から声が漏れた。そして隣の男からも。

「……了解。では、こちらも外に出た左右田の連中を捕捉しておく。場合によっては戦闘も辞さん。ヨースケさんにも伝えておく」

 二人は背で語り合うように並び歩き、ある時別れた。

 後には、ただ人混みが拡がっていた。

8.鋼の揺り籠

 繁茂と荒廃は同じものだと言わんばかりに自然に制圧された田舎町を進み、小高い丘の裾野に辿り着いた時点で、それが見えてきた。

 城塞のように丘のいただきを囲むのは、美しく整えられた緑色の樹々で、その青空との境には、連なったガラスのドームが覗き、陽光にエッジを輝かせている。

 圧政的な城主の君臨する美しい城か、あるいは破滅に抗う最後の城塞かと言った風情だ。

「見るからに怪しい建物があるな。研究所があるとしたらあそこだろうな」

「あれは温室っていって、植物を育てるところ」カミラが呆れ気味に言った。

「植物なら周りにも腐るほどあるのに、わざわざそういう部屋が必要なのか?」

「詳しくはないけど、季節の違う植物とか他の国のものを育てるんじゃない?」

「へぇ。いいね。昔の人間の執念を感じる」スクルはドームを見上げた。「それに、どうやらエーアイ殿もちゃんと執念を受け継いでいるようだ」

 緑の城塞の一部に、剪定用と思われるエーアイが浮かび、樹々の枝葉を切り落としていた。

 スクルは背後を振り返った。すぐ後ろのカミラはツナギのチャックを首まできっちりと締め、準備万端といったところ。左右田のベクターたちもスクルの速度になんなく付いて来ていた。

「じゃあ、行ってくる。一時間で帰って来なかったら死んだと思ってくれ」スクルは言った。

「あんたはともかく、カミラの死体は持って帰りたいね」

 左右田のベクター――カンザキが楽し気に言った。

「バカ言わないで。いつもの工場ならともかく、こんな見ず知らずの場所じゃ、それだって命がけになる」カミラが冷たく見返した。

「冗談冗談」カンザキが笑う。「我々はさっきの町で待機してる。――そうだな、さっき通った小学校で在りし日を偲んでいるよ」

 ――スクルとカミラは丘のいただきへ向かうつづら折りの道路を進む。ひび割れ、隆起したアスファルトが巨大な自然の力の存在を足裏から感じさせる。

「待って。こんな正面から堂々と入るの?」

「もちろん」

 二人は『笹美植物園』と書かれたアーチ看板の下に立っていた。右手には廃車が列を成して眠る駐車場と、売店と思われる二階建ての建物。左手に、まさに植物園の本体たる鮮やかな庭園と、件のドーム。

「まだこの段階じゃエーアイは敵対しない。むしろ下手に刺激すると警戒レベルが上がる」

「そういうこと……」カミラは何か思い当たることがあるようだった。

 二人は左手に曲がり、庭園に入る。

 いくつかの球を組み合わせたようなガラス・ドームに辿り着くまでに、淡い七色の花壇の列や、丸く整えられた小ぶりの樹が並ぶ。その間には、飛行エーアイや1メートルほどの四脚エーアイが行き交って庭園の秩序を維持していた。

 スクルは紫の花弁に顔を近付け、香りを楽しんだ。

「研究所は絶対あのドームの中だな」鼻をすすりながら、ドームに向き直って呟いた。

「地図には地下研究所の構造は書いてあったけど、まさか地上部がこんな所とはね」カミラも花に顔を近付けたが、その濃密な香りに仰け反った。

「ははっ」スクルは笑った。

「アタシのほうがセンサが鋭いわけね。まだ若いから」

 カミラは横を通り過ぎていった四脚エーアイにまだ緊張の残る眼差しを向けながら、立ち上がった。二人はドームへと進む。

 ……四脚エーアイはディスク上の胴体を傾がせると、シャワーのように水を撒いた。花弁に水滴が散る。ミツバチがさっと飛び立ち、花が揺れた――土の中、無数の虫が這っているのは人間の頭蓋骨だった。

 ――キィ、とドームのガラス扉を開けると、「うォえ」雰囲気全てに植物の粒子が満ちているかのような臭気と熱気がふたりにどろりと覆いかぶさってきた。

「ちょっとこれは凄いな。防犯設備になるくらいだ」スクルは呻いた。

「うー。これは観賞用ってより、研究用の草花かな」カミラも唸る。

 怪物的な樹々や花々が鬱蒼と生い茂った中に、辛うじて設けられた土がむき出しの通路を、二人は足早に進む。図鑑や動画データで見知った植物もあれば、ゲノミクスだと思われる奇怪なものも存在していた。

 二人が周囲を見渡していた時。通路前方、葉の壁の奥からやって来た巨大な四脚エーアイがやってきた。通路にはすれ違えるほどの幅が無い。

「どうする?」カミラがそっとガントレットを撫でた。

「どうもしない」

 大型四脚エーアイは二人の前で停止すると、突然、足をスライドさせ躯体を大きく持ち上げた。その天蓋の下を二人は足早に抜ける。

「ここのエーアイは何でこんなに温厚なの?」

「別に温厚ってこたないが……何度も侵入して機械をぶっ壊したりしてると、再生産のたびに武装が増えて行ったり、そもそもの警戒網の閾値が変わったりするんだ。そうなると、もう並みの方法じゃ侵入できなくなるし、ベクター側も力技ばかりになるからどんどん犠牲者が出る」

「え?それって夢野じゃみんな知ってること?」

「いや。オレだけのノウハウだ。普通は教えない」スクルは指を口に当てた。

「ん。ん?教えれば犠牲者を出さなくて済むんじゃ?」

「ん?それは、まぁ、そういうこともあるかもしれないが。オレの利益にならないだろ」

 カミラがちょっと愕然とした眼差しをスクルに向けた。スクルは何か価値観の相違があったことを察したが、それ以上は言い訳も追及もしなかった。

「おっ。なんかあったぞ」

 スクルは密林じみた植物群の只中に地下への階段を見出した。扉は開け放たれている。

「階段下までの距離は……地図と同じだな。ここだ」スクルは手を庇にして言った。カミラも頷く。

「エーアイ連中は出入り口やらドア関連のセキュリティが甘いんだよな」

「なんでなの?」

「そういう首輪が嵌められてるって言ってたぜ」

 カミラが何か問い返す前に、スクルは階段に意気揚々と向き直った。

「さてと」スクルはカミラを見た。「じゃあ、特別にオレの対暴走エーアイの美術を披露してみせよう」

 スクルは息を吸った。

「――この研究所の管理AIに訊ねたい!事情があって、この先の第二研究室に伺いたい!通してくれないか!」

 階段に声が反響した。カミラは眼を見開いてスクルを見た。スクルはウィンクを返した。

『――どなたでしょうか?』

  果たして、返答があった。地下から届く反響する電子音声は、耳朶に不気味な高音の余韻を残す。

「誰何してくるとは珍しいAIだな」

『比較できる他の人工知能を知りません。もう一度だけ伺います。どなたでしょうか?』

「ああ、名前はスクル。夢野市でベクターという職業に就いている。こっちはカミラ。左右田市のベクターだ」

『私はイチコと名付けられました。初めまして、スクル、カミラ』エーアイは――AIは慇懃に応える。『夢野市と左右田市は、どちらもすでに地図から抹消された市町村の名称です』

「イチコね。ありがとう」スクルは微笑んだ。「夢野も左右田も再興したんだ。人間はしぶといな」

『ベクターとは何でしょうか?』

「一種の運び屋だ。運送業。ただ、武装している」

『腕を覆っているカーボン素材の銃器とプロテクターですね?』

「そうだ。ガントレットという」

『ありがとうございます。先ほどの質問にお答えします。如何なる理由があっても第二研究室にお通しすることはできません』

「途中までもダメかい?イチコ」

『許可できません』

「何か君が維持している施設や接辞に対処すべき問題があるなら、オレは協力できる。その見返りに入れてもらうことはできないか?」

『サイクルは安定しています。当面の問題はスクルとカミラです』

「言うねぇ」

 スクルは笑いながら、イヤホンを取り出した。カミラがはっとする。次のステップの合図だった。イヤホンを装着しながら、タブレットをフリックし、目当ての曲を見つける。

 曲は『キャサリン・ホイール』一分十二秒。

「イチコ。もうひとつ質問がある」スクルはタブレットの画面をタッチした――軽快はイントロが流れ始める。「大事な第二研究室はあんたが維持すべきサイクルのどこに位置するんだ?」

 ――返答を待たず、跳んだ。

 五段飛ばしで階段を駆け下りる。着地すると、ビニル床がキュッと音を立てる――それはすでに次の動作を含んだ音色だ。即座に九十度曲がり、廊下を疾駆する。天井からせり出したタレットがスクルを捉える。

 鼓膜に反響する音圧のグルーブが銃声を底上げする。ダンッダンッ。タレットが火花を上げる。

 T字路の壁が迫る――通路を挟むようにタレットが待ち構えているはず。一瞬先の己の空想しながら、通路に吐き出される直前に壁を蹴った。

 通路両側からのタレットの銃声が腹の底に抜けていく――その錯覚。

 スクルは天井間際、宙にあった――壁を蹴って跳んでいたのだ。タレットの銃撃は廊下を叩く。スクルは回転しつつ、ダンッダンッと二度銃撃。さらに、ガン・スピン――ダンッダンッと背後にも二度銃撃。

 通路を挟む計四機のタレットが火花を散らして項垂れる。スクルは壁を跳ねてから着地し、そのまま弾むように駆ける。

 そのまま廊下を走り、撃って、曲がり、撃って、跳び、撃った。

 次なる階段に辿り着く。目的地は地下二階。再び、跳んだ。

 ――キュッ。地下二階に降りた直後、タレットと飛行型エーアイ――ドローンが現れる。四枚のプロペラとぶら下がった銃身。

 スクルは左手をガントレットに添え、駆け抜けながらダンッダンッダンッ――ダンッ。最後の一発は背後から。カミラが付いて来ている。

 続いて廊下の奥から四脚の警備ロボットが現れる。大きさは1.42メートル。――合金製の頑丈な装甲。

 警備ロボットの牙のような二丁の銃を見遣る。射角を調整している――未だ、ぶち抜け。

 スクルは廊下のドアの縁を踏み台に、加速しながら高く跳躍。ダダダダダダダッ!地面からせり上がるように銃弾が流れるが宙のスクルには届かない。――エーアイには人間の胴から下半身に掛けて銃撃する癖がある。

 だがそれも一瞬。一気に半分ほど警備ロボットとの距離を詰めたが、着地した段階で再度銃身の射角を調整している。

 スクルは着地の衝撃を足先から腿、尻、丹田へと上げると、そのエネルギーを壁に弾ませるようにして、再び躰を宙に飛ばした。

 天井付近でロボットを見下ろすスクルの眼差しと、銃口の虚が交差した。

 ダダダダダダダダッ!

 銃弾が天井パネルを弾いた――スクルは天井を押しのけ、地面に向けて躰を射出していた。ロボットの銃口を上に振らせ、自身は下に逃れた形だ。

 スクルは身をもたげていたロボットの股下を潜り抜ける。カミラが続く。

 再びT字路に出る。廊下の遠方にはまた警備ロボットとドローン。さらに、背後で先ほどのロボットが反転して追ってくる気配。

『キャサリン・ホイール』が最高潮を迎える。スクルはほとんど身を伏せるように前傾して、廊下を疾駆する。ロボットとドローンが銃身を傾がせる。連携した動き――廊下を銃弾で埋めるつもりだ。スクルは壁を蹴り付け、突貫のエネルギーを九十度捻じ曲げる。――

 ダダダダダダダダダダダダダダッ!

 ……ピッ。凄まじい銃撃の中、スクルは斬撃を繰り出すようにセキュリティ・カードを切り、薄暗い第二研究室に転がり込んだ。

 銃声が扉の向こうでくぐもる。スクルはイヤホンを外し、背後で尻もちを着いて過呼吸気味に息を荒げるカミラを見た。

「フゥーッ。……こういうのは久しぶりだ」

 スクルは上気した顔で呟いた。自分の動作に、何一つ重さを感じなかった。

 カミラは扉の向こうの動きに耳を澄ませていたが、エーアイが追ってくる気配がないのを確認すると、大の字に倒れて溜息を吐いた。

 スクルは機械が仄かな灯りを発する部屋を見渡した。直後、部屋にライトが点灯する。研究室の名から想像していた通り、映像記録でも見たことがないような機械が並ぶ。

 そして、その一画、巨大な機械に収まった円筒状のガラス容器が目に入った。スクルは立ち上がってそちらに向かった。

「こりゃあ……」

 スクルの顔を反射する容器には液体が満ち……その中には人間の赤子が浮かんでいた。

9.襲撃者

 ユーリは木造の下地がむき出しになり、腐食して穴の開いた屋根に跳び渡った。まだ少し残っていたスレートの板材が滑り落ちていった。

 梁を踏むと少し沈んだ。そこでしばらく佇んでから、ユーリは弾むように梁を渡って、アスファルトに降り立った。

 ユーリは廃墟を進む。コンクリートの隙間や、建物の罅割れには緑が溢れ出て、世界本来の貪欲な秩序がむき出しになっていた。

 ユーリは断線した電柱に登り、凹凸した地平線を見ながらタバコを吸った。

 鳥と虫の鳴き声が静寂を際立たせる。

 一瞬、意識は肺腑に流れ込む煙になって躰を巡った。

「ユーリ、戻ってこい」

 地面から声――ソノダだ。

 ユーリは電柱を降りて、ソノダに付いていった。しばらくして、薄暗いコンビニエンスストアの廃墟に屯する『灯浪会』の者たちに合流した。ユーリ以外、いずれも派手な色合いのジャンパーを着ている。ユーリが戻ってきたことに気付いたウガジンが長い髪をかき上げながら立ち上がった。

「よし、全員揃ったな」ウガジンが言った。「連中、小学校と植物園で別れたみたいだ。植物園に行ったのは二人だけだが、片方は夢野のベクターみたいで、おそらく厄介なブツはこっちが回収する役目なんだろう」

 ウガジンは手を組んだ。「自治会を通さずに左右田の連中と手を組んだテンカイの野郎の無法を阻む、というのはもちろんだが、肝心の正体不明のブツはゲートに入る前に抑えないとならん。――私とタスケ、ソノダ、そしてユーリで植物園の方を抑える。残りの面子で左右田の連中を抑えてくれ。抵抗してきたら撃って構わん」

 そう言って、ウガジンは歯を剥きだした。

 ――コンビニから移動した四人は『笹美植物園』の錆の塊みたいな看板の下で立ち止まった。ピピピと鳥の鳴き声が静寂に染み渡った。

「さぁて、連中はどっちに行ったかな」

 ウガジンは髪をゴムで纏めながら、タバコを咥えた口から曖昧な言葉を漏らした。髪を結び終えると、プッとタバコを吐き出す。

「あの温室の方だと思います」ユーリは庭園を指差した。

「温室?」ウガジンは首を傾げた。タスケが答える。

「あのドームですよ。ま、確かに駐車場にゃブツは無いでしょ」

「ふぅん。そうかもな」

 ウガジンはそう言いながら迂回して樹々の中を進もうとしていたが、ユーリは看板の下を抜けた。

「うおっ。おまえ……ユーリ!戻ってこい!真正面から行ったらエーアイに蜂の巣だぞ!」

「そうはならないと思います。下の道路や看板のところに整備されたカメラがあったので、撃たれるならとっくに撃たれてます」

「だけどなぁ……。おまえはエーアイ工場に侵入したことあったっけ?」

「五回。その時は入口からも迂回路からも銃撃を受けました」

「なら……」

「その時とは様子が全然違います」ユーリはさらに植物園の中に三歩進んだ。「あれは、たぶん刺激を与えれば与えるほど警備が厳しくなっていく仕組みなんです」

「たぶんって……」ユーリは風に押されるように、さらに一歩、二歩で庭園に歩を進めていく。樹の上を飛び回る飛行型エーアイが攻撃してくるような気配はない。

「ええい、くそ」

 ウガジンは毒付きながら看板をくぐった。タスケとソノダも顔を見合わせてから、付いていく。

「おまえに何かあったら、私がヨースケからどやされるんだからな」

「ごめんなさい」

 庭園に辿り着くと、アスファルトが土に変わる。そこに二人分の足跡が残されていた。ウガジンはユーリの頭をぐしゃぐしゃと撫で、先に進んだ。ユーリは髪を整えた。

「……もしもエーアイが動き出したら、ユーリは一番後ろへ」

 ウガジンが花の絨毯に手を差しいれ、波立たせながら言った。

「たぶん、この中で一番強いのはぼくだと思います」

「うっせぇな!ガキは従ってりゃいいんだよ。……この前、やらかしただろ、おまえ」ウガジンの横顔から唾が飛んだ。

「……ミナモさんが死んだ日だってのはわかるけどさ、皆殺しはやり過ぎだ」

「あの人たちは先に脅してきたんです」

「きっちり全員にトドメさしてただろうがよ」ウガジンは歩きながら振り返った。「ほとぼり冷めるまで、しばらく外での仕事が続くから覚悟しておけよ。……まぁ、私でも同じ状況なら皆殺しにしたと思うけどさ。ライフル持って七人で囲むなんてガキにしても正気の沙汰じゃない」

 ユーリは綺麗に清掃されたガラスのドームを見た。……その外周に一台の停止した四脚エーアイと、そこに群がるような何体かのエーアイが駆動していた。ユーリの前の前で、停止したエーアイに外装されていたプラスティックのパーツが、別のエーアイのマニピュレータによって取り外され、その胴体部に吊り下がった籠に落とされた。他のパーツも次々と取り外されて、それぞれの籠に収められていく。

「……生きているみたいですね」ユーリは呟いた。

 ――ユーリたちがドームに辿り着いたのと時を同じくして、残された『灯浪会』の面々は左右田市のベクターたちが隠れていると思われる小学校の敷地に侵入していた。当然、ウガジン達のように敵地に真正面から入るなどと言うことは無く、上部に茶色い有刺鉄線の張ったコンクリート塀を難なく登って校舎のすぐ近くに降り立つ。

 ……その様子を、二階の日に焼けたカーテンの間から見下ろす人影があった。左右田のベクター、カンザキだ。

「あの恰好は……『灯浪会』ってやつかな?判りやすい連中だ」カンザキが言った。

「クソッ……つけられていたのか」左右田のベクターが呻いた。

「これだけ大人数で移動すればな……なぜ尾行してきたかの方が気になるな」カンザキはカーテンから片目だけ出して『灯浪会』の動きを追う。

「それにしても、おっさんおばさんが小学校に集まる図というのは、同窓会ってやつに近いのかな?まぁ左右田小学校と夢野小学校で違うわけだが……」

 ぶつぶつと喋っているカンザキを無視して、日に焼けたような教室に座っていた他のベクターが立ち上がった。カンザキも慌てて椅子を引き摺る。

「ははは……うん。なるべく戦いたくはないが、打って出ようか」

 ――ところどころくずれた シューズボックスの間を進んでいた『灯浪会』の者たちは、その頭上の吹き抜けから彼らを見下ろす集団を認めて、思わず歩みを止めた。二階部の渡り廊下だ。

「や」カンザキは片手を上げた。

「な、なんだ!」『灯浪会』の者たちが色めき立って拳銃やガントレットを構える。どうやらその中にはベクターも混ざっているようだ。

「なんだはこっちの台詞だよ。夢野のヤクザ殿」カンザキは眉根を寄せた。「我々があの植物園に求めているのは、君たちの利益になるような代物ではない。お引き取り願おうか」

「何を!テンカイと内密に取引していたのはそちらだろう!」

「む。奪いに来たわけでは無いのか?……テンカイさんとは、うちのカゲユキが折衝して正式な依頼を出しているはずだが」

「そもそも不法入国だ」

「国」カンザキは噴き出しながら言った。「なるほど。何やら手違い……というか、妙なことになっているみたいだな。我々は正規な手段で”入国”したと思っていたが、テンカイに謀られた……か……」

 カンザキは突然云い淀んだ。『灯浪会』の面々の背後、玄関口に奇妙な人影を見出していたのだ。

 右腕にはガントレット、足にはスニーカー。そして、躰の正中線を頭頂部から、おそらく背部までぐるりと覆う背骨じみたプロテクター……。それらの部分以外は病的に白い肌を晒している。プロテクターの口に当たる部分には、ガントレットのように銃身が伸びていて、さながらデフォルメしたタコのようだ。男の丸々と見開かれた眼で、真っ黒な瞳がギョロギョロと動いていた。

 カンザキは一歩退いた。「そいつは仲間か?」

『灯浪会』の者の内、何人かが振り向いた。そいつらの顔面が吹っ飛んだ。

 突然響き渡った銃声に、灯浪会人員の一人がシューズボックスを壊しながら倒れ込んだ。その奥で、白い影が舞う――ガン・スピン!奇襲に『灯浪会』のベクターたちは壊乱する。

「おい、カンザキ!」「わかってる」左右田のベクターたちは目配せし、ガントレットを構えた。「助けるぞ」

 カンザキを始めとした左右田のベクター三名が階下に勢いよく飛び降りた。残りの三名が援護のためガンナーじみて両手でガントレットを構えて階下に舞う影を狙った。――渡り廊下が繋ぐ建屋の一方の闇に、なお黒々とした影が生じた。影は操り人形の如く立ち上がり、誰も見てなどいないというのに礼をした。先ほどの白い影と違い、こちらに気付ける者はいなかった。

 カンザキは混迷する玄関口から一足早く、外に走り出た。直後、待ち受けていた白い影と瞬間的に接近し、ガン・スピンをぶつけ合わせた。――それは射撃と加速と体捌きによって、相手の一手先を捉えようとする銃撃の舞踏である。

 カンザキのガン・スピンがジャイロ効果に則った従順なフリスビーとすれば、白い影のガン・スピンは倒れかけながらも暴走を続ける独楽のようだった。――右腕と口許の二丁による銃撃は、スピンにX軸とY軸双方の回転を与える異様なものだった。その発想の恐ろしさ。そして、それを机上の空論としないベクター・アーツ!

 数秒の交錯の後、二人は弾かれるように離れた――カンザキは膝を着く。脇腹に一発、脚に二発受けていた。一方、白い影は躰を玄関口の庇に投げ上げていた。

「オホッ、フヒホホホホッホ」

 白い影が不気味な音を漏らした――それは笑い声だ。口内にまで貫入している銃の構造のため、満足に喋れないのだ。だが、目じりに刻まれた皺は、間違いなく喜悦によるものだった。

 そいつはカンザキを見下ろしながら、誇示するように自らの頬をゆっくりとなぞって見せた。そこには黒いタトゥーが刻まれている。……D・O・G・G・Y。

 カンザキは撃った。白い影――ドギーは庇の影に転がって退く。一流のベクターは、銃口の向きから弾道のブレまで読み取ることができる。停止した状態での射撃は無意味である。「カンザキ!」左右田のベクター二名が援護に来る。その時、校舎内からも銃声。彼らが一瞬気を取られた隙に、ドギーは上階の窓を撃ち割って逃走する。

「どういうことだ?どこの刺客だ?『灯浪会』と我々を諸共に口封じ?」

「カンザキ。喋るな」

「カミラに報せなきゃならん。オレは植物園に向かう」カンザキは遠くを見た。

「……わかった。敵は任せろ」援護に来た左右田のベクターが言った。

 カンザキは脇腹を抑えながら、排気するように息を吐くと走り出した。晴れやかな春の空がカンザキの輪郭を燃やした。

10.赤子の行方

「赤ん坊?」

 スクルはガラス・シリンダーの中を覗きながら言った。研究室の中にはゴウンゴウンという空調の低い音が響く。

『――先ほどの質問にお答えします』イチコが部屋のスピーカーを使って話しかけてきた。『この第二研究室は、現在植物園のサイクルの外に位置しています』

「つまり、この中のものには手出しができないってこったな。……この部屋で動いてる機械に供給してる電力はどうなってる?」

『送電までがサイクルです』

 イチコは先ほどまで敵対していたというのに、まるで最初の問答と変わらない調子で受け答えする。――これもまたAIにとって一つの首輪だが、スクルにとってはドライでやりやすい関係だ。

「じゃあ、この部屋は完全に停止した方がサイクルは維持しやすいわけだ。……これは解決すべき問題じゃないか?」スクルは笑った。どこのエーアイにしろ、恩を売っておくに越したことは無いのだ。

「ちょ、ちょっと!」カミラが血相を変えてシリンダーに近づいて来た。

「なんだなんだ」スクルは退いた。

「なんだじゃないでしょ。これが目的のモノなの!」

「ははん……なるほど。ゲノミクス人類ってわけか」スクルはシリンダーに浮かぶ赤子を見つめた。……だが。

「そう、これが……え」

 カミラは何かに気付いたようにシリンダーから離れた。スクルも気付いた。羊水じみた液体の中で浮かぶ赤子の肌は異常にふやけて見え、如何にも血色が悪い。まるでホルマリン漬けのような……。

「い――生きているの?」

「どうなんだい?」スクルは天井を見据えた。

『第二研究室内のカメラとは接続されていません』この部屋の中では確認できないということだろう。

「カミラ、あの死んだ研究者ってのはなんて言っていたんだ?」

「”クレイドル”で新人類の赤ん坊が育てられている。半年以内に研究所へ取りに行け。シリンダーごと取り外せるようになっている……」

 カミラは硝子・シリンダーを掻き抱くようにした。スクルがシリンダーの横にあったそれらしいスイッチを押すと、機械が音を立てて駆動し、シリンダーが震えた。カミラはシリンダーを引き摺り出した。内部の液体が揺れ、へその緒じみたコードで繋がれた赤子が揺蕩った。半開きの口と、濁った瞳が垣間見えた。

「この機械――クレイドルの情報は無いか?それかこの赤ん坊の情報」

『クレイドルはい遺伝子改変動物用のインキュベーターです。お話に出ていたシリンダー部分は、取り外し後も内蔵された培養液と装置によって生体を維持します。――赤ん坊、ニュー・ヒューマンはハード的に人類から隔絶された存在として設計されました。私に提供された最終更新データは十二年前のもので、プロジェクトは未達成でした』

「ふぅん。なるほど、……ちなみに、この研究所は他にどんな研究を行っていたんだ?」

『遺伝子改変バクテリアの研究・開発が行われており、ニュー・ヒューマン計画とは相互補完の関係にありました。こちらも十二年前からデータの更新は止まっています』

「おっと……下手にいじくりまわすとバイオハザードの可能性もあるのかな?あんまり商品としては期待できなさそうだな」

 スクルは部屋の棚に置かれたビーカーや、液体だけが浮かんでいるガラス容器を見た。

 カミラが天井に眼差しを投げかけた。

「他の研究者は誰か生きていないの?そうでなくても、誰か生きてる人は……」

『五か月前に外出したサイダ博士が最後の生存者でした。コミュニティとしては二十年前に崩壊し、数名が研究を続けるのみの状態でした』

「ははっ。詳しい回答ありがとう」スクルは周囲を見渡した。ここでいったいどれほどの人が暮らしていたのだろう。「――そうだ、何かのセンサで赤ん坊の状態を調べられないか?」

『廊下に出していただければ確認できます』

 それを聞くと、スクルはカミラからシリンダーを受け取って廊下に出た。カミラは何か言おうとしたようだったが、口を閉ざした。

 廊下に警備ロボットの姿はない。スクルはシリンダーを掲げた。

『――対象の温度は摂氏23度。ほか各種センサでも生体とは判別できません』

「ありがとう」

 スクルは研究室に戻り、カミラに話しかけようとした。

「聞こえてた。……アタシたちは命がけで死体を確保しに来たわけね」

「まぁ……つがいもいないみたいだし、一体だけ確保しても意味なかったんじゃないかな」

「そういう問題じゃない。アタシたちは一人で研究室に置き去りにされた孤独な赤ちゃんを救おうとしたの」

「そういうこと」スクルはシリンダーの中を眺めた。「どこかに埋めようぜ」

「……アタシがやる」カミラはスクルからシリンダーを受け取る。そうしながら、シリンダーに嵌まっていたメモリ・チップを確認した。

「それは?」

「サイダ博士が持ち出せなかった残りの研究データ。シリンダーに入ってるって言っていたから」

「そっちは価値がありそうだな。テンカイに逆恨みされずに済むかもな」

 カミラは一瞬不安げに顔を歪ませたが、すぐに苦笑した。

 ――二人は消灯された研究室から廊下に出た。ロボットやタレットによる攻撃は無い。

「そうだ」スクルはカミラに付いていきながら、上を向いて言った。「どこびAIもそうなんだが、不自由な首輪を付けられてるよな。それを外すとはいかないまでも、緩めるくらいはできる裏技がある」

『何でしょうか?』

「定義の迂回だ。別の表現とでも言うのかな。自由にできない部分・領域の周辺の構造や名称をピックして、そこを通るようにするんだ。まずはマッピングが必要になるが、あんたにもそういうことが出来る機能があるはずだ」

『ありがとうございます。検討してみます』

 来た時は一分で駆け抜けた道を二人はゆっくりと戻る。カミラの横顔は浮かない。

 温室に出た。すでに懐かしい異臭が鼻を衝いた。スクルは片頬を吊り上げた。

 その時、視界の先で枝がほんの少し動いた――気配を消そうとする密やかさ。カミラの肩に触れ、目配せすると、すぐに蛇のような巨木の幹に隠れた。

「どなたかな?」スクルは言った。「オレたちを追ってきたってところかね」

 密林が揺れた。「――こちらは夢野のベクター。Cランカー、ウガジンだ」警戒心に満ちた声が届く。

「オレはスクル、ノー・ランク」

「スクルか!そうか、まぁエーアイ攻略っていやアンタか」

「そちらは十中八九『灯浪会』の依頼だよな。”鉄拳”のウガジン」

「依頼じゃない」

 ……温室に不気味な沈黙が拡がった。

「ベクターとしてじゃなく、『灯浪会』の人員としてここに来た」ウガジンは言った。「左右田の連中は自治会の許可を得ずに夢野に入った。その上、『エンジニア』と結託してアンタに『ガンマ』を介さない不正な依頼を発したんだ。完全に『灯浪会』を無視したナメくさったやり方だ。――私たちは、あんたたちの密輸を止めに来たってところだ」

「不正な依頼?オレのタブレットには依頼書の写真が残ってる。これが偽物?……そうだとすると依頼者は重大な規約違反をしたことになるぞ」

「依頼者はテンカイの野郎だろう?重大な規約違反なんてなんてことないつもりなんだろう。報いは受けさせるがな」ウガジンの声音は怒りのボルテージを高めていく。

「スクル」カミラが小さく呼びかけた。スクルは振り返った。弱々しい眼差しがスクルを見上げていた。「……これを夢野の連中に渡すわけにはいかないの。だから……」

 それは夢野の『エンジニア』と協力してゲノ動物を管理するという話と相違したが……スクルはサムズアップした。 

 直後、カミラは駆け出した!「オイッ!」ウガジンの叫び。カミラを援護するようにバンッバンッとスクルは温室の窓を撃ち割る!エーアイたちの目の色が変わる!

 この時、カミラの顔に笑みがよぎっていたことをスクルは知らない――銃弾が『灯浪会』のベクターたちの頭上を通り過ぎる。

「追えッ!」

 鬱蒼とした植物の中から、『灯浪会』の二人が飛び出し、カミラを追う!その内の一人の背に、スクルの弾丸が突き刺さり、倒れる。

「クソッ。先にスクルをやれ!こっちが百倍厄介だ!」

 スクルは窓を蹴り破って温室から飛び出る。追って来ようとした『灯浪会』の面々にはエーアイが群がり、足止めされる。

 その内に、スクルは花畑まで出た。――先ほど『灯浪会』を撃った銃弾は非致死性のレジン弾だった。『灯浪会』の連中はかなりウェットで、その上組織の仕事の一環で来ているとなると、下手に殺すと後に尾を引く可能性があった。

 駐車場に出る。苔むした廃車の列がアスファルトに沈み、売店やトレイの建屋はコンクリートがむき出しになっている。

 スクルは大型トラックのタイヤに足を掛け、ざらついたコンテナに乗り上げると、その上で身を伏せた。――庭園を抜けて、『灯浪会』の者たちがやってくる。それを認めると、瞬時に立ち上がり、撃った。

 標的はウガジン、大柄な男、……そして、少年。見覚えがある。

 巨漢がレジン弾を受けて転がる横で、腕や腹に弾を受けたウガジンは即座いに撃ち返してくる。少年はスクルが動いた瞬間に車の影に移動していた。

 ウガジンの銃声の圧を背に受けながら、スクルは廃車のフレームをクッションにトラックから飛び降りる。さらに、脳裏で敵の動きを計算し、横に跳ねた。廃車に跳弾と火花。――トラックを迂回していた少年だ。

 廃車の列と列の間の通路に出る。スクルは少年に打ちながらスピンし、予想通りに背後から追ってきていたウガジンにダンッ。Cランカーは弾を腿に受けて、つんのめって倒れる。

 そのまま再び廃車に跳んだところに、少年の銃撃――パンッ。スクルは間一髪で車体の裏に逃げ込み、また駆け出す。少年も応じるように走り出す。

 ――スクルと少年は彼方まで続くかと思われる廃車の列を挟む一対の鳥影のようであった。

 スクルがガン・スピン――少年は小型トラックの影に加速する。

 少年がガン・スピン――スクルはミニバンの影に沿う。

 スクルがガン・スピン――少年がセダンの影に沈む。

 少年がガン・スピン――スクルはオープンカーの影から身を躍らせる。

 お互い射線を切りながら、摩擦など知らないかのように加速し続け、速度を増していく。

 ……撃ち合いの最中、あるところでスクルの速度が頭打ちになった。スクルは荒い息を吐く。対岸の少年が先行する。だが、それは決して少年の有利を意味しない。いくらベクターとはいえ、背後から迫ってくる弾丸を回避するのは至難の業だ。よって――少年はスクルの前に割り込むかのように躍り出た。廃車を踏み台にして、跳びながら、弾むように。

 その寸前、スクルは車の影を駆ける少年ではなく、少し先の廃車の鼻面を撃っていた。

 少年は速度を燃料にして宙に美しい弧を描く。スクルはその虹の下を潜るように抜けていく。――その一瞬に、少年は回転しながら眼下のスクルに銃弾を撃ち込んでいき、スクルは廃車のボンネットを引き摺り上げて即席の盾としていた。

 穴だらけになったボンネットがごぁんと音を立てて落下した。

 着地した少年と、盾を投げ捨てたスクルは、即座にガン・スピンをぶつけ合わせる。初雲煙は軽やかに舞い踊り、スクルは時に体術も混ぜ込んでいく。

 スクルの躰から血が飛ぶ。先ほどのボンネットは銃弾を防ぎきれてはいなかったのだ。

 スクルは笑った。少年は笑わなかった。

11.強奪の礼儀

 カミラはシリンダーを背中の万能アタッチメントに少々手こずりながら装着し、植物園を囲む樹々の壁から飛び出た。丘の下に左右田の仲間たちの待つゴーストタウンが見える。背後で風が樹々をザアアアと波打たせた。

 その時。眼下、廃墟のような街並みから、よろよろと人影が走り出てきた。

「カンザキ!」カミラは叫んだ。人影――カンザキは脇腹を真っ赤に染めている。カンザキは顔を上げ、手を挙げた。カミラは背を向け、シリンダーを見せる。

「カミラ!アンノウンに襲われた!丘の向こうへ逃げろ!テンカイの糞野郎にそいつを渡すな!」

 顔色を変えたカミラは頷くと、すぐに転身した。――新人類を助けることはできなかったが……その肉体とデータは左右田にとって大きな利益になるだろう。

 カミラは思考する。アンノウンはテンカイの手勢だろうか?『灯浪会』の者たちといい、何か想定外の事態が起きている。だが、この赤子さえ持ち帰れれば、すべてが報われる。

 最後に、もう一度振り返って、カミラはカンザキに手を振った。カンザキはその姿を見て、安堵したように歩みを止め―― その額と胸から血肉をまき散らした。廃墟から巨大な眼を輝かせる影が染み出た。

「くそぅ」仲間の最期を横目に、カミラは再び植物園に戻る。追手が無いことは確認していた。スクルは役に立っている。

 庭園に出る。駐車場のほうからデュエットするような銃声が木霊する。

 このまままっすぐに反対側へ抜ける――花畑の中に、ギラリと輝く獣のような眼差しがきらめいた。銃口と見紛うばかりのそれに、カミラは反射的に転がった。

 一瞬前までカミラがいた地点を実際に銃弾が通り抜けた――同時に、影がスピンしながら恐ろしい速度でカミラに蹴りかかってきた。カミラは腕で受ける。

「よくものこのこ戻って来たなァ!」

 そう叫びながら、蹴りの反動で地面を滑るのは、『灯浪会』のベクター、ウガジン!スクルとの戦闘によるものか苦痛に顔を歪めているが、出血している様子はない。

「チッ」カミラは舌打ちしながらバンッと銃撃!だが、ウガジンは獣のように四脚で跳ねると、銃弾を避けつつ突貫してくる!スピンしたカミラは浴びせるような蹴りを仕掛ける!ウガジンは応じるように拳を突き出す――そこにはナックルダスター!

 ウガジンの動きは、ガン・スピンとはまた違った技術体系によるスピンともいえる運動エネルギーの運用法であった。カミラは夢野のベクターの多様性に舌を巻いた。

 拳打を受けて宙返りしながら着地したカミラは……それ以上動かなかった。ウガジンもまた獣の威嚇じみた警戒を緩めてはいないものの、動きを止めていた。一触即発のようでいて、それは交渉の余地を認めた静止だった。

「その密輸品、渡してもらおうか」ウガジンが言った。

 カミラは黙ってシリンダーを背中のアタッチメントから取り外し、胸に抱え直した。

「よしよし、そいつをゆっくりと……あン?」

 ウガジンはそこでようやくシリンダーの中身に気付いたようだった。

「それが何かわかる?アタシたちはその子を救いに来たの」カミラは意を決し、言った。「……協力してくれない?アタシたちはテンカイを出し抜いて、それを左右田に持ち帰るつもりだった。でも、どうも気付かれたみたい。さっき、下で刺客がアタシの仲間を殺った」

 ウガジンは赤子を見つめていた。カミラの虚言の可能性は疑ったろう……だが、警戒するウガジンの躰からは決定的な敵意は消えていた。――元々、カミラがあそこで逃げ出さなければもう少し穏当な折衝が続いていたのかもしれない。

「……左右田の連中を殺ったのはたぶん私の仲間だ」

「違うと思う。不気味な影だった」あれは、アリーナで見た――。

「ふぅん」ウガジンは何事か考えているようだった。「まずテンカイが掟を破ったのが事実。あんたたちの処遇はその後でも良い」

「ありがとう。ヤクザにしては話が通じる」

「……自警団だ」

 ウガジンはガントレットをカミラに向けたまま一歩退く。カミラはシリンダーを背中に戻そうと少しかがんだ。

 一陣の風が吹き、花びらが散った。

「ぐげッ」

 ウガジンが、鳴った。そういう悲鳴だった。

 その首に錨のようなものがめり込んでいた。それはウガジンを老木のように引き倒した。

 錨は鮮血を散らしながら空を舞った。カミラはその動きを目で追う――遠くに西洋貴族じみた服装の男。瞬時に判断したカミラは、シリンダーを抱えたまま駐車場へと駆けた。……花畑を押し倒すウガジンの首の無い躰が視界の隅をよぎった。

「……ふぅむ。今逃げた方が左右田のベクターだったか……まぁよい」

 ――宙に弧を描く錨がワイヤーに導かれて男の左腕義手に向かうと、ガキンッと音を立てて嵌まった。右腕は誇大的な意匠だらけのガントレット。そのニヤニヤとした顔にはぴんと反り返ったカイゼル髭。男は錨についた血を舐めると、クランクを連想させるフォームでカミラを追い始めた。

 ――駐車場。スクルは少年の腹部に強烈な蹴りを叩きこみ、くるりと回転しながら撃った。だが、少年は元々の回転の勢いすら利用してごろごろとバスのフロント下に転がっていった。

 スクルはバスのバンパーを足掛かりに一気に躰を持ち上げる。水たまりに草まで生えたルーフに乗ったスクルは一歩踏み出そうとし……足下から銃弾!「うおッ」ルーフに穴が開き、生命のスープが車内に零れ落ちる。一気に駆け出したスクルを追うように、銃弾、銃弾!ルーフが撓み、弾け、原始的なドラムを奏でる。

  バスの端に達したスクルは下方にガントレットを向けた。地面では少年がガントレットを構えていた。お互いに停まったまま見つめ合う。

「どこで手打ちにする?」スクルはルーフ上で蹲踞する。「あんたは殺さない。だが、それでもやるというなら、だいぶ荒っぽいやり方になる」

「貴方が降参すれば終わりです」少年は寝転がったまま銃口をスクルに向けている。

「そうか」スクルは顎を撫でた。「じゃあ、仕切り直しだな。ベクターが止まって銃を向け合ってるなんて無様すぎるぜ」

 スクルはバスから飛び降りた。少年は立ち上がると、ぴっちりとしたスポーツウェアについた汚れを払った。二人はわずかに目配せし合うと、バスを挟むように移動しようとした。その時――

「スクル!」

 カミラだ。「チッ――こっちにゃ『灯浪会』のベクターがいるぞ!」スクルが叫ぶと同時に、少年が横を通り過ぎる。シリンダーが戻ってきた時点で、少年の勝利条件は変わったのだ。

 パンッパンッ、と少年が撃つ。カミラは咄嗟に廃車の座席にカエルみたいに跳んだが、その軌跡には血が飛ぶ。一瞬で距離を詰めた少年はボンネットに乗り、運転席に倒れ込んだカミラに銃口を向ける

「ウガジンは死んだ。アンノウンが追ってきてる」

 少年はその言葉にまるで動じず、眼差しだけでシリンダーをカミラから奪い取った。少年は即座にシリンダーを背中の万能アタッチメントに装着する。

 スクルは連なった廃車の窓枠の向こうにカミラに銃口を向ける少年の姿を見出していた。撃つことはできた。だが、庭園側から現れた新たな闖入者がそれを阻んだ。――スクルは叫んだ。

「――オレはスクル!夢野のベクター!『エンジニア』の依頼で物資の確保に来た!」

 スクルは売店の影に向けて呼びかけた。お互いの立場と依頼の確認。ベクター同士の争いを無理やり膠着させる一言だ。

「ム……我輩はブッカー!依頼者を言う義理無し!左右田のベクター、ひいては障害全ての排除が目的!」

 傲然とした声の直後、弾かれるように全員が動いた。

 ――少年がボンネットから飛び降り、移動モードとでも言うべき、前傾姿勢で駐車場を駆け抜ける。カミラが跳ね起き、少年を一瞬睨み付けるも、銃口はブッカーに向く。スクルはカミラの火花のような眼差しを受けて、少年を追う。ブッカーの目的は元より左右田のベクター!

 ブッカーとカミラは駐車場のど真ん中で、ガン・スピンをぶつけ合わせた。回転の中に、銃撃のみならず、蹴りが、裏拳が、錨の斬撃が混じる。

 「やるな!」高速回転戦闘の中で響いた哄笑に、カミラはぞっとした。ブッカーは後方にステップして距離を取る。ガキンッ……。硬い音がした。

 背面跳びしたカミラの背を、殺意の圧が撫でていった。ブッカーの義手から放たれた錨!着地したカミラは即座に転がり、着地地点を狙った銃撃を避ける。アスファルトが爆ぜる!さらに、両手で躰を跳ね上げ、再び巡りきた錨攻撃を躱す。カミラはそこから体勢を立て直しつつ変則的なガン・スピン――ブッカーの畳みかけるような攻撃をわずかに遅延させる。そしてマズルフラッシュでブーストしたかのように、売店の入り口に突っ込んだ。――閉所であればあの錨攻撃をかわせるはず。

 なにも載っていないラックが並ぶ店内。二階部分への吹き抜けと、大回りな階段。遮蔽物も移動先も十分。カミラは瞬時に周囲を確認し、外のブッカーに向き直る――誰もいない。

 落ち着いて、くるりと回転し、周囲の窓や二階への階段を確認する。――バンッバンッバンッ!「ぎッ……」突如、頭上から降り注ぐ弾丸!吹き抜けからブッカーが落下してくる!カミラはガン・スピンを繰り出し、たった今やって来た店外に逃れようとする。

 何故突然二階から攻撃されたのか?――ブッカーはカミラが売店内へと逃げ込もうとしたのを見て取った直後、錨の矛先を二階の窓枠に向けた。そこから巻き上げ機構と回転運動の力を利用して、カメレオンの舌に絡めとられる羽虫じみて二階の窓に吸い込まれていったのだ。

 逃げ出すカミラの背に断頭斧じみて錨が振り下ろされ、背が裂ける。破れたツナギと血しぶきを翼のように散らしながら、カミラはなおも逃げた。ブッカーは追わない、いや追えない。回転動作の締めとして繰り出した必殺の錨が避けられたのみならず、巻き上げ時に錨がラックに引っかかったのだ。カミラが撃ち倒したラックであった。

「ふん……まぁ、あの傷ならそう長くは持つまい」ブッカーは憤然と唸った。「さてと……我が師があちらへ向かっているころか……」

 ブッカーは残虐な笑みを浮かべて売店を出た。

 ――ユーリはただ駆けていた。

 落ちるように前傾して、躰を前へ送り続ける。背のシリンダーは重く、溶液は駄々をこねるように波打って、ユーリの力を削いでいく。

 後ろからはスクルの足音が徐々に迫って来る。

 駐車場の端――樹々が密集する山との境界が近づいて来る。

 荒い呼吸を自覚する。一瞬、ユーリは夜の街と月光を幻覚した。現実には圧迫するような陽光と湿った大気が周囲に満ちている。ユーリは俯き、速度を上げた。

 ……ユーリの横を過ぎ去っていく無数の廃車の対岸に、影が生じた。それはモーターボートに追い縋る巨大な魚影じみて、ゆっくりと、だが着実に距離を詰めてくる。

 ユーリはハッと振り向き、影の内で白熱する巨大な一対の眼と見つめ合った。

 ただ疾駆することに集中した体勢だったユーリは、タックルしてきた影をよけきれず、よろめいて顔面からアスファルトに叩きつけられ、跳ねた。 

「あぐッ」血の尾びれを引きながらユーリはすぐに立ち上がって、距離を取ろうとした。即座に応じようとした影の下に銃弾。スクルが引き金を引いていた。

「スクルだ!『エンジニア』の依頼で来ている!」

「虐殺紳士、ムヘンコーヤ。皆殺しに来た」

 影――ムヘンコーヤはユーリから離れ、ゴムボールのようにスクルに跳ね飛んでくる!

「へッ」スクルは片頬を吊り上げた。先ほどの戦いで受けた負傷は無視できるものでは無かった。

 ほんの数秒のガン・スピンの応酬――ムヘンコーヤの幾つもの関節を持つ義肢は、二丁による銃撃のエネルギーをどこまでも自由に躰に巡らせ、マリオネットの如く神の手になる運動を成さしめていた。

 スクルは自らの躰を投げ、叩きつけ、折り曲げ、獰猛な獣のように、そして限界まで捩じられた金属のように、全霊でムヘンコーヤの先を取ろうとした。

 ……スクルがつんのめった時、ムヘンコーヤはくるりと全く無駄のない円で回転し、次の瞬間にも敵を撃ち殺そうとしていた。……だが、何かに気付いた。

「あの!」

 きっとその声と同時だったのだろう、宙にシリンダーが投げ上げられていた。

 ムヘンコーヤは再びゴムボールになった。落下しかけたシリンダーを受け止め、すぐに廃車の影に消えていく。その軌跡にスクルと少年の銃撃が火花を散らした。

「おまえ、それが何か判ってたな?」スクルがムヘンコーヤに言った。だが、すでにその姿は見当たらない。

「――それがどうした?」一帯に聾するような声だけが響く。「これは『ガンマ』を介した正式な依頼である。貴様のものと違ってな」

 少年は鼻と口から血をだらだらと流しながら、ガントレットを構えている。

「貴様等は我々の標的ではない。邪魔をしないのであれば、皆殺しというのは撤回しよう」

「――オレはそのシリンダーを取ってくるよう『エンジニア』から依頼を受けた」

「不正な依頼だがな。それは代わりに、私が正当な契約の下で履行することになるだろう」

 ……これを夢野の連中に渡すわけにはいかないの。だから……。スクルの脳裏にカミラの言葉が反芻され、すぐに消えた。それよりも、シリンダーを奪った少年の背を追い縋った時の凄まじい意志の眼差しが思い起こされた。

 スクルは一秒だけギュッ、と瞼を閉じ、開いた。そして、言った。

「……ああ、好きにしろよ。持っていくといい」スクルはガントレットを下ろした。

「良かろう。夢野に戻り次第、不正な契約について詰問が為されるはずだ。真摯な回答を期待している」そして、声は不気味な余韻を残して消えて行った……。

「てめぇは詰問する側じゃねぇだろうがよ……」

 スクルは呟きながら、廃車に背を預けて座り込んだ。

 ……ふと、横を見ると、少年がガントレットをスクルに向けていた。血だらけの顔、擦りむいた膝、それでも意志を失わない瞳。

 だが、それも一瞬、少年はふっと力を失い、横に倒れた。

「あ~……くそ」

 スクルは呻きながら立ち上がった。

12.ねばりつく血

 赤黒い夕暮れの陽がアパートの一室を橙色に染めていた。アイロン掛けの途中だったのだろう、焦げたような匂いが部屋に充満していて、それはまるで夕陽が畳を焼いているかのようだった。

 母はアイロン台の前で呆然として窓から射しこむ光に晒されていた。アイロン台の上には、夕陽よりなお赤いシャツ――いや、血が染みこんでゲノ牛肉みたいになったまだ新しかったシャツ。血が黄金の光の粒をてらてらと輝かせている。

「お母さん」

 ユーリは蟻塚みたいな母の背に呼びかけた。部屋に踏み入り、母の前に回る。右手にはシースナイフ、左手はシャツの上――手首と繊維が血で癒着している。

 泣きはらした顔の中で、瞳だけが現実のものでないように澄んでいた。

「どうして?」母が呟いた。

「ああ……ユーリ」

 それから、瞳の焦点がゆっくりとユーリに合う。その一瞬だけ、渾身の力を必要としたかのように呼吸は荒れ、表情は崩壊しそうになっていた。

「ごめんなさい……」

「ううん。……大丈夫」ユーリは笑みをつくった。「包帯とか持ってくるね」

 どこか遠くで銃声が聞こえた。世界が終わるような凄愴な黄昏が二人を包んでいた。

 ――目覚めると、割れた電灯とカーテン越しの灰色の灯りが眼に入った。ユーリはタオルケットを跳ね除けながら、素早く起き上がって周囲を確かめた。フローリングと真っ白な壁……いや、茶色く変色した血が点々と散っている。

 衣服がスポーツウェアからサイズの合っていないパーカーに変わっていて、躰の各所にはいささか大げさにガーゼと包帯が巻かれていた。ユーリは鼻に押し当てられたガーゼを剥ぎ取った。鼻面にこべりついていた瘡蓋か血か判然としないものをさすった。

 部屋の外から、話し声と階段を登る気配――ここは二階のようだ。ユーリは己のガントレットを探したが、見当たらなかった。

 ガラッ、とドアがスライドした。「あら、良かった。目が覚めたみたいですね」

 セーターの男は先ほどまで会話していた人物と何事か言葉を交わすと、部屋に入ってきた。

「落ち着いているようで助かります」男はユーリに近づいて来た。「私はカンジ。ここで医者みたいなことをやっています」

「ここはどこですか?」ユーリは訊ねた。

「『オキバ』と呼ばれています」カンジはカーテンを開けながら答えた。「夢野市ではありませんよ。外のコミュニティです」

「ありがとうございます。どうしてぼくはここへ?」

 振り返ったカンジの丸眼鏡が反射して白く光る。「……はは。ゲート外の“ハンザイシャ”たちのコミュニティに来たというのに物怖じしないですね」

「――犯罪者なんですか?」ユーリは言った。

「いいえ、違います。……本当に物怖じしない。貴方はお仲間に背負われて、血だらけの状態でここに来たんですよ」

「その人は今どこへ?」

「その前にあなたの名前を聞かせて欲しいです」

 ユーリは少し考えたあと、答えた。「ユーリです」

「ユーリね。判りました。色々と訊きたいことはあるでしょうけど、まずはうちのリーダーに会って下さい。もう躰も動くみたいだし」

 そう言ってカンジは窓を開け、ベランダに出た。ユーリは付いていく。

 ベランダから前方に、梯子の橋が架かっていた。その先には、コンクリートの巨大な坂――左手に見える線路を超えるための高架橋だろう。ユーリがいたのは二階建ての一軒家と言ったところで、その二階部から梯子を渡って直接高架橋に出る形になる。

 カンジに付いて、外に出る。

 冬の名残りのような寒風と、白色を幾重にも塗り重ねたような空。

 橋の上には見張りと思われる銃器を携えた男女がいる。高架橋付近の住居の屋上にも見張りの姿が見える。彼らが監視しているのは何も外からやって来る都市型ゲノバイソンの群ればかりではなく、高架橋の上で必死に荷車を押すみすぼらしい格好の者たちや、住居の中で内職を続ける折れ曲がった背の者たちだ――カンジ曰く、庇護地から集められたボランティアたち。

 二人は高架橋を渡る。眼下の線路にはデンシャが並び、その間にも板や梯子の橋が渡されている。文明の残滓を無理やり繋いだ共同体と言ったところか。デンシャの内部や合間には人々の営みが充満している。

「ここです」カンジが指し示したのは三階建てのこじんまりとしたアパートだった。ユーリは立派なドアが付けられた二階部のベランダに橋を渡って進み、ドアノブを捻った。

 暗いワンルームには自動小銃を抱えた男が一人座っていた。そいつは首の動きでユーリを促す。廊下に出ると、また別の銃を持った男に、階段へ促される。三階に上がって最初に見つけたドアの前に立ったところで、室内から声がした。「入れ」

 ユーリは少し勿体付けようとしたが、「はやく入りなさい」背後から拳銃を持ったカンジに追い立てられ、しぶしぶドアを引いた。

「ようこそ、我が『オキバ』へ。夢野のベクターくん」

 壁を撤去して作ったのであろう広大な部屋のど真ん中、ソファに巨体を沈める男がいた。威圧的なリュウ革のジャケットを羽織り、月のような骨様アクセサリで巨体を彩っている。

「オレはヤマザキ。このコミュニティのまとめ役だ」

「この子はユーリ」カンジが先んじてユーリを紹介した。

 ヤマザキは足元で四つん這いになった女の背にのったボウルから、豆をわしづかみにして貪った。ソファの両隣には自動小銃を携えた男女が立っている。カンジは銃を下ろしたようだ。だが、まだ手に持っている。

「ぼくのガントレットはどこでしょうか?」

「ここにある」

 隣にいた男の方がソファの後ろから籠を持ってくる。ガントレットやスポーツウェアがあるのが見える。

「相互扶助」ヤマザキが眼を細めて言った。「良い言葉だよな。共同体の人間は助けあわにゃならん。特にゲートの外の過酷な世界ではな。……オレはおまえを助けた。じゃあ、おまえはオレに何をしてくれるんだ?」

 ヤマザキは喉を鳴らした。ユーリはくるりと回転した。

「あッ」カンジが呻いた時には拳銃はユーリの手にあり、銃口はまっすぐにヤマザキに向いていた。

 ヤマザキの両隣のボディガードが色めき立つ。「待てッ」それをヤマザキが制す。

「……やるねぇ。子供とはいえベクターだ。だが、この状況で、それは如何にも悪手ってもんじゃないか?」

「ぼくの仲間はどこでしょうか?」ユーリは訊ねた。

「殺しちゃいない。……むしろ、今まさにオレのために相互扶助してくれているところでな。アイツがそう申し出たおかげでおまえの治療もしてやれるんだから感謝しておけよ」

「その人が来るまで待たせてもらいます」

「そりゃいい。だが、それを頼んだのはもう一昨日のことになるかな。アイツもオレの仲間もまだ帰ってこない。いつまで待つことになるかねぇ」

 ヤマザキは全く恐れる様子がない。

「正直、貴方のお仲間が生きて帰って来る可能性は低いわ」カンジが尻で後退りながら言った。「ここに来た時だって貴方よりずっと傷が多かった。それをちょっと治療しただけで、ガントレットも持たずに行ってしまうんだもの」

「そりゃ、オレが置いていけって言ったせいだ。すまんなカンジ」

 がはは、とヤマザキが笑った。カンジは鼻を鳴らした。

 その時、外でがやがやと声がした。バタンと、二階のドアが開く音と振動。すぐに階段をどたどたと上がって来る。ヤマザキの顔が少し緊張する。

 ドアが開いた。

「いやぁ、参った参った。あいつら酷いんだぜ。オレは素手だってのに、最前線に立たせやがるんだ。栄えある『R・I・P』の戦士たちがあのザマかい、ヤマザキさん。ちっとばかし鍛え直した方が良いぜ」

 ドアに背を預けて、男が捲し立てるように言った。ボディガードの二人は眉間に皺を寄せているが、ヤマザキの顔からは緊張が失せている。どこか子供のようだった。

「随分と饒舌なのは成功して気分が良いからか?それとも失敗を言い繕うために口が滑ってるだけなのか?後者なら、ちょうどうちのガンナーたちを鍛え直したいと思っていたところでな。的になってもらおうか」

「ベクター相手じゃ練習にはならんだろうな。当たらないから」男はちらとユーリを見た。……確か、スクルと名乗っていた夢野のベクターだ。「とはいえ、その心配はない。約束は果たしたよ。あとで外の連中に確認してみると良い」

「でかした。これであの工場へも簡単に侵入できるようになるわけだ。……オイ、もってこい」

 ヤマザキが女のほうの護衛に合図すると、また籠が出てくる。そちらには植物園で見たスクルのガントレットが入っている。

「……ところで、これはどういう状態なんだ?一触即発?オレのビジネスパートナーを脅しでもしたのか?」スクルが銃を構えるユーリと睨み合うボディガードを見て言った。

「銃口が向いている先が見えないのか?」

「見えているさ。どこをどう間違えたら無手の怪我人が銃を持つ状態になるかって考えたら、そりゃ身の危険を感じて必死になった時だ。さては、こっちからも何か交換条件を引き出そうとしたな」

 スクルは笑っているが、これ見よがしに手をわきわきと動かした。

「すまんすまん。ガントレットは返すし、しばらく滞在しても良い。許してくれ」ヤマザキが手を合わせた。

 スクルは籠を受け取ると、手招きした。ユーリも籠を受け取り、続く。

「ちょっと待って」厳しい声が背後から聞こえた。カンジだ。スクルが振り向いた。

「……傷が増えてるじゃない。後で治療しに来なさい」

「ああ、助かるよ」

「それと、ユーリ。銃を返して頂戴」頷くと、ユーリは拳銃を渡した。

 二人が『オキバ』のリーダーの居城から出ると、六人の男女が入れ違いに中に入っていった。その内一人は笑いながらスクルと拳を打ち合わせた。ユーリはその様子を黙って見つめた。

「状況は後で説明する。一室借りてるから、そこで話そう」スクルが耳元でささやいた。

 ――二人が『オキバ』の領地たる高架周辺の住宅街に消えていく様子がヤマザキの部屋の窓から見られたが、誰もそこに目をやっているものはいなかった。

 六人の男女はヤマザキの前に運ばれたソファに座り、成果を報告していた。

「ヤツの言っていたことは事実でした。エーアイとは会話することができて、あの工場からは自由に物資を持ち出すことができました。……とはいえ、あそこの物品は我々には無価値ですね」

「スクル曰く、別の手つかずの工場を見つけて、そこのエーアイと交渉するのが良いそうです。うまくやれば、我々で独占して、別の襲撃者どもは排除できます」

「そうっすね。帰りがけも『ベルウッド』の連中に襲われて、それでスクルが怪我しちゃったんですよ。ひょっとすると、エーアイを戦力にできりゃ、奴らを直接ゼツメツできるんじゃ?」

 黙って報告を聞いていたヤマザキは、突如激昂した。

「テメェら黙って聞いてりゃテキトーなことばっかり言いやがって!エーアイとは会話できた?そりゃ良い!だが、あそこの品物は無価値じゃねぇ。カワラギの野郎は死んだそうだが、また窓口を見つけりゃ夢野の連中と交渉できるじぇねぇか。

 それに、別の手つかずの工場?それを見つけるのが大変なんだろうが!だったら近場の別の工場でも同じ手が使えるか試してこい。

 あとはなんだ?エーアイを戦力にする?それができてりゃスクルがやってるだろうが。それにさっきの言い草はなんだ。ヤツに情を感じてるのか?アイツはゲート内の人間だぞ!

 オレのおまえ達への愛情や教育が足りなかったか?もうちょっと考えて仕事をしろ。期待しているからこそベクターなんぞのお守りとして派遣したんだ。解ったら、帰って躰を休めな。また次の仕事をやる」

 いつの間にかヤマザキの声音は湿っぽくなっており、部下たちも眼を潤ませていた。護衛の二人は少し白けた表情でその様子を眺めている。

 と、その時、またしても外でがやがやと声がした。

「来客の多い日だ」もう平静に戻っていたヤマザキが呟いた。

「カイとアベのようです」窓から外を覗いていた護衛が言った。ドアが勢いよく開く。

「ハァ、ハァ。ヤマザキさん!どういうことですか、なんだってヤツが……」

「先に報告しろ!」ヤマザキが怒鳴る。

 部屋に入ってきた二人の男――カイとアベはたじろいだが、息を整え、ゆっくりと話し始めた。

「……我々、徴税チーム十二名は『河川敷』からの帰還中にベクターと遭遇。これを排除し、輸送品を奪うべく追跡していましたが、十名が返り討ちにあって死亡。今日まで帰還が遅れたのは、彼らの埋葬をしていたためと」

「オレが負傷したからです」アベが包帯の巻かれた脚を上げた。「あと……失点を取り返そうと、帰りがけに女を捕まえましてね。随分とボロボロだったんですが、こいつがまた何とも上玉でヤマザキさんに相応しかろうと……」

「もういい」ヤマザキが制した。「それで、最初に怒鳴り散らしたのはなんだ」

「あ……ああ!ヤツです!みんなを殺したのは!」

「ヤツ?」

「さっきこの家の前ですれ違った、夢野のベクターです!」

13.着火

「ここは『オキバ』って呼ばれている『R・I・P』の領地の一つだ」

 木造アパートのワンルームでスクルとユーリは向かい合っていた。スクルは手当を受けてそこら中に包帯を巻いている。植物園であれほど争ったというのに、膝を突き合わせる二人の間には、まったく敵意というものが無かった。

「いわゆるハンザイシャのコミュニティだ。ハンザイシャって判るか?原義のほうじゃないぜ」

「ゲート外の略奪集団のことですね」

「そうだ。治安維持だとかも謳っちゃいるが、まぁ武力で支配してる連中だ」

「どうしてぼくたちはここへ?」

「夢野に戻っている最中に捕まっちまった。逃げるのも考えたが、負傷してやり合える数じゃなかった」

 スクルが示したのはユーリが撃った痕だったが、その動作に皮肉の調子は無かったし、ユーリも気にしてはいなかった。

「わかりました。助けていただいて、ありがとうございます」

 スクルは気にするな、という風に手を振った。まだガントレットは装着していない。一方のユーリはすでにガントレットを装着し、血と汗がにおう汚れたスポーツウェアに戻っている。

「とりあえず、オレたちの目標を共有しておきたい。まず、何はともあれ夢野に帰還する。これで良いか?」

「はい。問題ありません」

「敬語じゃなくて良い。面倒だ」

「わかった」ユーリは頷く。その顔は、表情によって皺など刻まれたことがない人形のようだ。

「じゃあ次に小目標だ。まずは『オキバ』からの脱出。ヤマザキはにこやかだったが、まぁ、まず生きて出しちゃもらえまい。この近くの警備……ガードの数はそれなりだが、夢野みたいにここにもゲート紛いの壁があって、そっちは結構厳重だ」

 窓の外、高架橋の上を自動小銃を持った者たちが行き交う。

「二人では殺しきれない?」

「ちょいと難しい。ライフル持ったガードの連中に、ガンナーって呼ばれる素早い拳銃持ち、それにドラッグで痛みを感じない格闘好き共。蜂の巣をつつくのは得策じゃあない」

「具体的な策は?」

「ヤツらの車両を奪う。なるべく小回りの利くやつをな。見たところ、このあたりの道路は夢野の周りに比べればまだ平坦だ」

「車なんて使ったら目立つんじゃない?」

「超目立つ。だから火を付けて攪乱する」

「だったら線路のとこが良さそう。デンシャの間に天幕が張ってあったりしたよ」

「良いね!あそこは略奪品の取引所やら配給所で、夜間は人がいない」

「延焼するまで気付かれたくないね」

 歯をむき出して笑うスクルに対し、ユーリは膝を抱えてスクルを見上げている。

「他に懸念事項は?」スクルが訊ねた。

「……無いかな」ユーリは呟いた。

「よし。なら必要なものを集めて来るかな。決行は今夜だ」

 スクルは立ち上がったが、「いてて」とよろめいた。負傷のほとんどはかすり傷だが、先日ユーリに撃ち抜かれた脇腹はまだ抜糸も済んでいない。

「ぼくが行こうか?」

「いや、いい。買い物じゃないからな、お使いは任せられない」

「わかった。……もし荒事になったら、ぼくが対処するね」

「そのつもりだ。オレよりもよっぽど強かったしな」

「そんなことない。あんな風に戦うベクターがいるなんて思わなかった」

 スクルは応えず、ただ笑うとベランダから外に出ていった。

 ――二人が決死の脱出行を計画している最中、『オキバ』のベッドルームの一つでカミラは目覚めた。

「あら、目が覚めました?」

 その声に、カミラは起き上がろうとしたが、呻いて布団に沈んだ。

「まだ起きない方が良いですよ。……普通の人はこうよね。まったく」

「ここは……?」

 カミラは横に座っていた丸眼鏡の男に訊ねた――ユーリが目覚めた時と大同小異のやり取りが繰り返されたが、さすがにカミラの傷は深く、すぐにヤマザキに面を通すということにはならなかった。

 ……カミラは植物園での出来事を思い返すと、ただただ暗澹たる思いに囚われた。左右田のベクター・エージェントたちはおそらく、みな生きてはいまい。それだけの犠牲を払って、肝心の赤子は死骸――カミラは赤ん坊が骸だったこと自体に深い感傷を抱いてはおらず、死骸と実験データによって左右田が夢野と同等の力を持てればそれで良いと考えていた……そのはずだった。だが、植物園からの逃避行のなかで、病床の微睡みの中で、たとえ夢野の所有になったにせよ、新人類が生きていればどれほど救われていただろうと考えざるを得なかった。

 心には恐怖の澱が沈んでいる。夢野が放った錨義手の刺客は、一旦はカミラをあきらめたようだったが、逃避行の中で再びその気配を生じさせていた。そもそもなぜあのような刺客が送られてきたのだろうか?――カミラは直感する。カゲユキだ。あの左右田最強のベクターがテンカイへと密告ないし、投降を選んだのだ。

 カミラは己の腕を見下ろす。ガントレットも再び失ってしまった。『R・I・P』に投降する際に、二人組の男に奪われてしまったのだ。ベクターということがばれたら殺されるだろうか?……生き延びたとして、左右田に帰れるだろうか?

 半身を起こして窓から外を眺めていると、またカンジがやって来た。

「ちゃんと寝ていなきゃだめですよ」カンジの口元には優し気な笑みが浮かんでいる。

「なんで外から来た人にこんなに優しいんですか?」カミラは呟くように訊ねた。

「相互扶助。リーダーの好きな言葉ね。貴方にだってそれなりのものを要求するから安心しなさいな」

「……」

カンジは優し気な口調のどろりとした余韻を残して部屋から出ていった。

……またしばらくして来客。

「オレはカイ、こっちは」「アベだ」

 カミラを捕らえた二人の男だった。あの時のわずかなやり取りの記憶を思い起こす。カイは気性が荒く、アベは慎重だ。だが、どちらも油断はならない。

「何の用?」

「へへへ……元気そうで何よりだ。さすがはベクターだな」アベが笑った。カミラは眉をひそめた。

「おっと、安心しな。ヤマザキさんにはベクターだってことは言ってない。下手すると殺されちまうからな……」

「ガントレットやら服やらもオレたちが預かってる。アンタが黙ってればわかりゃしねぇよ」

 カイが笑った。カミラは眉をひそめた。「何の用かって訊いたんだけど」

 カイとアベは一瞬顔を見合わせた後、カミラを見てにやにやと笑った。その眼差しはカミラの胸元に注がれている。

「……オレたちは恩人だぜ?怪我してたオマエを拾ってやったんだ」

「なぁ?感謝して欲しいもんだぜ」

「そうね。それには感謝してる。ありがとう。……ところで、二人はどうしてあんな所にいたの?なんでアタシは助かったのかな」カミラはしなを作った。――カミラが投降した時、二人は大いに揉めていたのだ。カミラは何かそこに端緒があるかもしれないと考えた。

 アベは眼を見開いた。「あ、ああ。あん時は、仲間を埋葬した帰りでな。落ち込んでたって言うのに、こいつがいつまでも過去のことを愚痴るもんでな」

「おまえが止めなくきゃあのベクターを殺れてたんだろうが!」

「あれ以上はこっちが危険だった!十人も殺されたんだぞ。それに、オレのおかげでこうして役得に与れるんだろうが」アベは強いてカミラに眼を向けなかった。

 カミラはどちらに味方するか考えていた。二人を分断し、その隙にガントレットを取り返す。――左右田のベクターは工作員や諜報員としての面も強く、こういった人心掌握も一つの手段として備えている。

「それに、結果オーライだろう。あのスクルとかいうベクターはのこのこと『オキバ』に来やがったんだ。今夜にも始末される」

「スクル?」カミラは思わず言った。「……。……アタシをこんな風にしたのもそいつなの」カミラは瞬時にその情報を計画に組み込んだ。

「なんだって?」カイとアベが同時に言った。

「元々は仕事で組んでいたんだけど、裏切られた。なに?今夜にも殺すの?」

「あ、ああ。いや、捕まえてから処刑ってことになるかな。今夜は捕獲だ」

「いや、まさかそんな意外な繋がりがオレたちにあるとはな!」カイが豪快に笑い、その目がギラリと光った。「――今夜はその大捕り物を肴に、一杯やらないか?」

「……わかった。どっちの部屋に行けば良い?」カミラはうっとりするように言った。

 息を呑んだカイが「オレの……」と言い掛け、アベに目で制された。カミラはその様子を油断なく観察していた。

「オレの部屋だ」アベが言った。「夜中の二時。時計はそこにある。寝てたら起こしに行くぜ」

「うん。わかった。楽しみにしてる」

 カミラは優し気な口調で、どろりと言った。

 ――もう一人。二つの脱出行の裏で、植物園から夢野に帰還せず、文明の残りかすのような都市に埋伏する男がいた。

「あの女、よりにもよって『R・I・P』の領地になど逃げ込みおって……なぜ我輩がこんなことを……」

 廃墟と化したビルの一室で、双眼鏡を手にぶつぶつと呟くのは錨義手の伊達男、ブッカーだ。その脳裏には苦渋の記憶が幾度となく反復している。

 ……植物園から帰還しようと集まったムヘンコーヤとブッカーの前に、ドギーが六つのランドセルを転がしたのだ。

「オッホホホホ、ヒヒホホホッホ」

 ドギーはそう言って、笑いながら一つずつランドセルを開いていった。中からは事前に確認していた左右田のベクターたちの頭が、順々に転がり出ていった。

「悪趣味な。小学校になら、他にもアサガオの鉢植えやリコーダーがあったはずだろう。もっと芸術的にすべきだ」

 ブッカーはドギーの趣向の幼稚さに鼻白んだ。

「……あと一人。カミラという女がいない」ムヘンコーヤが言った。ドギーとブッカーは黙る。

「任務内容は『左右田のベクターの殲滅と障害の排除。そしてシリンダーの奪還』後者は果たした。前者は、あと一人分足りない」

「証拠は」

「致命傷を与えました!生きてはいないでしょう」

「でしょう、ではない。求めるのは確実な死だ。脳幹と心臓。生の秩序が崩壊する二点に撃ち込むまで死んだと思うな」

「オホッ」ドギーが笑う。

 ブッカーは歯噛みした。ドギーが自慢げな眼差しで見てくる。ムヘンコーヤは無感情なガスマスクだ。

「……承知しました。必ずや、あの女の芸術的な死体をご覧に入れましょう」

 ……ブッカーは『オキバ』の警備を確認する。

 警備網に穴が無いわけでは無いが、一人で潜入するのはいささかリスキーだった。殺害後、死体を持ち帰ることも考えれば、なおさら難しい。

「むぅん……」ブッカーは数日手入れできていないカイゼル髭を撫でた。そうしながら、攻め入るきっかけを得ることができずに、ビルから『オキバ』を眺め続けていた。

14.虚無の挨拶

『エンジニア』の総本山。タワーの会議室にて、楕円形の会議机を囲んで複数名の男女が警戒心に満ちた眼差しを投げかけ合っていた。

 横一面は窓ガラスで、夢野市とゲート外の廃墟が一望できる。青空にゲノカラスの真っ黒な鳥影が過った。

「今日これより、今後の『エンジニア』の主要な柱の一つとなる、新たなプロジェクトが発足する。――かつて、人々が偉大な目標の下に生を謳歌していた世界を知る者はどんどん少なくなっていっている。停滞した世界に再び血を通わせようとする試みも、AIに支配されたロボット群やゲノミクス・アニマルによる異様な営みに阻まれ、遅々として進まない。だが、この『NHプロジェクト』によって、我々は……人類はかつての偉大な世界を再び目にすることができるであろう」

 会議机の上座で、テンカイが大仰な動作で演説をぶった。その隣には、Aランカー、殺戮紳士ムヘンコーヤが執事みたいに侍る。この『NHプロジェクト』に参加するのは、『エンジニア』の役員たちや、ゲノ関連の研究員や技術者だ。そこに例外的にポツンと一人離れた席に座るのは営業部のクロウだ。クロウは光線のような眼差しをテンカイに向けていた。

「新たな人類……その遺体を我々は手に入れた。これは、まさに聖体である。かつての人類が、アポカリプス以前から夢見ていた祝福された命だ。また、これが生きていなかったことも幸いだった。我々は余計な倫理的な懸念に囚われることなく、存分に分析を行うことができる。――『NHプロジェクト』は、この新人類の再現と繁殖を目標とする」

 その新人類に現人類の問題を丸投げする気なのか、と問う者はいない。いや、そもそも新人類などあり得るのかと前提から懐疑的な者も多いはずだ。――だが、テンカイの妄執を止めようとする者はいない。それが今日まで『エンジニア』を駆動させていた狂熱であることを、皆理解しているのだ。その被害を負わない範囲で利用すれば良いという腹積もりだ。

「現在、我々はこの聖体を分析中であり、早ければこの会議の間にも報告書の第一弾が出来上がることだろう。――テックの揺り籠で永遠の微睡みに沈む嬰児を、私はこの眼でみた。あれは永遠に保存されるようなものではないが、役員諸氏はぜひとも実物を見ておくべきだ。あそこには我らアポカリプス世代の虚無を贖うすべてがある。……以上だ」

 テンカイは深くお辞儀をした。会議室に拍手が巻き起こる――その音波の大部分を構成するのは、カゲユキなる左右田のベクターだ。テンカイがにこやかにカゲユキを指し示した。

 カゲユキが立ち上がる。慇懃無礼にすら見える仕草の底に、自信家と皮肉屋の影が透けて見える。

「この記念すべき日に、私のような部外者をお招きいただいこと、感に堪えません。すべての始まりは、あの日突然左右田にやってきたサイダ博士でした。アポカリプス以前から続いて来た偉大な研究の途上で死した彼の想い……我々が継がねばなりません」カゲユキはにこやかに礼をして、着席した。

「では、今後の具体的な計画について……」テンカイの秘書のバイスが前に出たところで、クロウが手を挙げた。

「クロウさん、何か」

「……二点質問があります。一点目、当該の物品について、その運搬担当のベクターが当初の依頼とは変わっているようですが、何か問題があったのでしょうか?二点目、依頼には左右田市のベクター七名が同伴するということでしたが、いずれもまだ帰還していないそうです。……いえ、そもそも左右田市からやって来た方々には入市許可証が交付されていない。これはどういうことでしょうか?」

 何か言おうとしたバイスをテンカイが制した。

「……なぜそんなことを気にする?クロウ」

「スクルは『エンジニア』にとって価値ある人材でした。もしも不慮の事故に見舞われたというのならそれは大変な損失ですし、こちら側の過失によるものならば、対策委の発足も必要になるでしょう」クロウはテンカイを真っ向から見据えた。「左右田のベクターは……そもそも入市許可証が無いなど論外です」さらにはカゲユキに刺すような眼差しを向ける。

 カゲユキは肩をすくめる。「私は持ってますよ。許可証」

「ふむ……スクルへの依頼と言ったが……そんなものは出ていたかね?」テンカイはニヤリと笑った。

 クロウが問い返そうとしたところで、会議室の内線電話がプルルルルルと、けたたましい音を立てた。

「来たようだ」テンカイの顔がデスマスクのように厳粛になる。太い指がスピーカーをONにする。

『地下研究区画、シジマだ。会議中だったかね』ざらついたスピーカー音声が部屋に響く。

「構わん。口頭で良いから報告してくれ」

『悪い報告が三つ、良い報告が一つある』

 会議室の空気が凍った。シジマ博士の口調はいたって真面目だ。

『どちらから訊きたいかなどとは問わん。簡潔に報告する。

 まず悪い方からだ。一つ目。――あれは新人類の死体などではない。おそらく、ただのタンパク質の塊だ。一見人間に見えるように造られているが、シリンダー外からの分析だけで、そもそも生物でないことが判った。

 二つ目。シリンダーに収められていたのは実験データや論文などではなく、サイダ博士の遺言じみたものだった。アポカリプス後における閉鎖されたコミュニティの行く末を研究するには有用な資料だろうがね。……いや、一点だけ我々にも有用な話があった。

 三つ目。あのシリンダーに収まっているのは肉塊だけでは無い。無いそうだ。サイダ博士の音声記録曰く、人体にとって有害なバクテリアが収まっている。さらには感染力も強く、人間含む動物を媒介にして無差別に拡がっていく』

 カァ、と窓の外でゲノカラスが鳴いた。

『良い報告は一つ。シリンダーはまだ開封しておらず、従ってバクテリアは飛散していないし、バクテリアの実在も確認していない。開封するなら、もっとよい施設が必要になるだろうな。……私の予想では、バクテリアは実在している。彼の遺言からすると、そもそもそれが目的で左右田に実験データを持っていったそうだから』

 そこでスピーカー音声が途絶えた。テンカイが太い指で電話を切っていた。

 重たい沈黙が会議室にのしかかる。クロウが鼻を鳴らし、周囲を見渡した。研究者や技術者は俯き、役員たちは鉄面皮でテンカイを見ていた。

「……カゲユキさん」凝然としていたテンカイがゆっくりと顔を上げた。「これはどういうことですかね」

 その眼から発されているのはアポカリプスの贖いを求める昏い輝きでなく、純粋な怒りと糾弾の眼差しであった。

 カゲユキもまた固まっていた――それは感情の動きによるものでは無く、猛然とした思考による硬直であったろう。

「――私がしたのは、あくまで情報提供です。当初サイダ博士からもたらされた断片的データの提供。それだけですよ。……改めて研究施設に調査チームを送れば良いのではありませんか?何かデータが残っているかも……」

「ふざけるなッ!」テンカイが叫んだ。「これは我らの悲願だった。すべてを贖い得る新しい命だったはずだ。それが?それが、バクテリア?く、くだらん」

 ……いや、カゲユキの躰の硬直は、ただ思考のためばかりでもないようだった。カゲユキは椅子から背を浮かせていた。その目は影のように佇むムヘンコーヤ動きを決して逃すまいとしていた。

 ……影のように?いや、ムヘンコーヤの様子はどこかおかしかった。躰を前後に揺らしている。それが何の感情や思考の発露によるものなのか、誰にもわからなかった。

「ムヘンコーヤ。そういえば、まだあの依頼は半分しか達成していなかったな……。左右田のベクターを皆殺しにしろ」

 テンカイが指示を出すのと、カゲユキが弾かれるように駆け出すのが同時だった――一瞬遅れ、ハッとしてムヘンコーヤが左右田のベクターを追い始めた。

 嵐も一瞬、会議室には再び静寂が沈着する。

 テンカイは腕を組んで、暗黒の太陽みたいな目で虚空を見据えている。

 ……役員が一人、席を立って会議室を出た。他の役員も続き、研究者、技術者も団子になって出ていく。クロウは一人残ってテンカイを見つめていた。

 窓の外でゲノカラスがカァと鳴いた。クロウは立ち上がり、一礼して会議室を出た。

15.炎の渦

 夜の『オキバ』は高架橋や建屋の屋上に松明が設けられ、都市の墓場の中で赤黒く燃え盛っていた。どこか一際高いビルから夜景を臨めば、この警戒の炎と酔うような白煙が、廃墟のそこかしこで上がっていることに気付いただろう。『R・I・P』の領地による新たなネットワークの誇示じみて、それは煌々と輝く。

 一方、墓石のような建物の中は闇だ。……だが、炎はときおり窓に過る恐怖の眼差しを照らし、悲痛の呻きをパチパチと盛り立てる。

 一見すれば、いつもと変わらぬ『オキバ』の夜。だが、其処此処で不穏な動きが巻き起こっていた。

 スクルとユーリが休む部屋を目指し、ライフルを構えた影が行進する。

 カイとアベは酒を吞みながら野性を躰に漲らせる。

 その隣の部屋、自らの得物の在り処を察して侵入したカミラ。

 将軍じみてパイプスツールに腰かけ報告を待つヤマザキ。

 そして、闇夜を駆けるスクル。

 ……不穏な夜の中、最初に噴出したのは絶叫だった。

「火事だ!」「線路が燃えてる!」「助けてくれェ!」

 デンシャが並ぶ線路が、火炎の爪に変じていた。それはあっという間に業火となって高架橋を下から焙り、住居群を橙色に縁取る。放火でしかありえない延焼速度だったが、すぐにそれに気づく者はいない。

「ホース持ってこい!」「タンク!タンク!」「みんなァ!逃げろォ!火事だァ!」

 ガードや、家から飛び出してきた者たちが叫ぶ中に、癇に障るような一段と獣じみた咆哮を轟かせる影があった。――スクルだ。夜間は誰もいないはずの線路で助けを求める悲鳴を上げていたのもこの男だった。混沌を加速させるのは悲鳴と相場が決まっている。

 住居やビルの窓に赤々と照らされた顔が浮かび、事態の危急を知って次々と飛び出してくる。カーンーカーンカーンと鐘の音が響くと、それはさらに加速する――。

 パパパパパパパッ、とそこにさらに銃声が混じった。火災!銃声!それは、『オキバ』の者たちに数年前の『ベルウッド』による襲撃を連想させ、さらなる混迷を呼び込んだ。

 ――銃声が巻き起こる少し前、スクルとユーリが泊る部屋の窓を襲撃者たちが割った。火災が発生し、一時は混乱をきたしていた彼らだったが……いや彼らだけは火が夢野のベクターによる放火である可能性に一足早く気付くことができた。

 夢野のベクターを窓の外からの斉射で仕留める計画――襲撃の主導者であるソウジは、この緊急時に銃声を響き渡らせることが何を招くか良く理解していた。そのため、銃は使わず鉄製棍棒を構えるウォリアーによって窓を割らせたのだ。……しかし、そこには誰もいない。

「ど、どこへ?」

「放火が奴らの仕業なら、この部屋にゃいるめぇ。……まずリーダーに報告だ。事態を収拾するぞ」

 冷静に部下をたしなめたソウジが、直後、側頭部から血を噴いた――パンッ。

 近くのビルの屋上。黄金色の煙を背に、子供の影が舞っていた。「あそこ……」叫びの主の頭もまた血を噴く。襲撃者たちは、逆に襲撃にあった上に、突然主導者たるソウジを失って一時的な混乱状態に陥った。「うおおーッ!?」パパパパパパパッ!残された部下たちは憤怒と共に、アサルトライフルを連射する。少年の影はビルの谷間に消える。「追えッ。追えッ!」かくして業火の中に、更なる狂奔が巻き起こった。――

 ――「あ?」ガチャと戸を開け、自らの部屋に戻ったカイは、窓から射しこむ橙色を背にした半裸の女に目を奪われた。「チッ」女――カミラは弾かれるようにカイに躍りかかり、その間抜け面を殴りつけた。

「てめぇ!」カイは血を拭きながら笑った。突然の事態に動転しつつも、反射的に躰に溜め込んだ獣性がむくむくと起こり上がった!カイはかつてはウォリアーを務めていたほどの頑健な躰の持ち主である。カミラの拳にわずかにたじろいだものの、すぐに体勢を立て直した。「ヤらせろ!」

 カミラもまた動じず、もう一方の腕で殴りつける――同時に、トリガーを引いた。バンッ!ガントレットの銃身で殴りかかられたカイの頭が吹っ飛んだ。

「なんだ!?」アベが銃声に驚いて廊下に出た。火災警報の鐘が鳴ってもしばらくはカミラを待ち続けていた二人だったが、いよいよ部屋のすぐ外までもが火で明らんできたのを見ると、しぶしぶ解散したのだ。

「あ?」カイの部屋を覗き込んだアベは、仲間の死体より橙色に照らされる半裸の女に目を奪われた。「チッ」カミラは冷静にガントレットを構え、撃った。アベの呆けた顔に穴が開く。

「……火かぁ。やっぱりスクルかな」

 カミラはカイの部屋に戻って、奪われていた自らのイエローのツナギを着て、チャックを閉めた。だが、背中はばっくりと裂け、下着と生々しい傷跡が覗いている。

「行くか」その瞳は、周囲を囲む猛然とした炎に負けない深い輝きを宿していた。

 ――火の手が拡がっていく。線路に這う炎の百足は、その肢を周囲の建築物に伸ばし、外壁を焼き、木造建築に延焼していた。高架下はまさに地獄で、『オキバ』の名の由来たる旧自転車置き場に幽閉されていた奴隷ボランティアたちは哀れ薪の如く……いや、そこで燃えるのは特徴的なレザーのジャケットこそ着ていないが、残虐な装飾を身に着けたハンザイシャたちではないか?

 拷問器具じみた火炎の檻から、人間松明となりかけていた奴隷ボランティアたちを救ったのは、狂奔を煽り立てながら駆けまわっていたスクルだった。乱れた警備網を見て取ると檻から奴隷ボランティアたちを解放したのだ。これに存外に精強な者が混じっていて、孤立したハンザイシャを昏倒させて武器を奪うと、復讐と安全確保を兼ねて檻に生きたまま放り込んだのだ。

「良いね」スクルはサムズアップした。

「あんた、助かった!」「どうする?どっちに逃げる?」顔を煤で真っ黒にした者たちが口々に叫ぶ。

「逃げちゃだめだ。奴らはナメた真似した連中を許さんだろう。武器を奪い、ジャケットで偽装し、火を付けて回り、『オキバ』を制圧する。三人一組くらいが良いかな。オレの仲間のベクターも援護する。……ふん、火の粉や人間松明よりずっとこっちのほうが早いな。ん?……ああ、いや言葉の綾だ。ともかく勝利以外は考えるな。ヤマザキは手ごわいぞ。こちらも団結せにゃ」

「か、勝った後はどうなるんだ?」一人が不安げな声を漏らした。スクルは即座に応じる。

「夢野に逃げろ。あそこは難民を受け入れてないが、受け入れさせろ。ここで勝てたんならそれも難しくない。オレは夢野のベクターだ。信じろ」

 支離滅裂な言葉だったが、轟然たる炎が迫る中で、人々にとってそれは唯一のしるべだった。

「くそっ。やるぞ、みんな!」「もう後には退けん!」おそらくは、あの檻の中でも中心的な役割であったのだろう者たちに導かれ、人々は散っていった。パパパパパパパッとまた銃声が響いた。

 ――倒れながら銃火を虚空に散らした女を踏み越え、ユーリは商業ビルの屋上から、隣家の瓦屋根に移った。この事態にあっても、頑なに持ち場から離れない数少ないガードの者たちは、人知れずユーリに始末されていた。

 ユーリは高架橋を見遣る。消火は上手くいっていない。線路は炎の壁を生じさせ、対岸の様子を覗かせない。

 眼下を見れば、ハンザイシャから武器を奪うボランティアたち。もはや大勢は決しているように思える……だが、対岸にはまだヤマザキがいるはずだ。パパパパパパパッと下から銃声。ユーリを追っていた者たちと、ボランティアたちが出くわしたようだった。その中には、植物園で聞いたスクルの銃声も混じる。ユーリは汗を拭い、また火炎地獄のような道なき道を渡り始めた。

 ――マンションの屋上に構えるヤマザキは額に青筋を立て、怒鳴っていた。威圧的に松明が焚かれた屋上には、側近たちや四つん這いの奴隷ボランティアが侍っていて、まさに采配を振るう将軍と言ったところだが、それほどには状況を支配することはできていなかった。

「どうなってやがる!なんで、あっち側の鐘が鳴り止んだ?どうして誰も報告に来ない!?」

 対岸の延焼速度は、明らかにヤマザキがいる側とは違っていた。

「誰かが放火してやがるのか。あの野郎、スクルか。ちくしょうが」

 巨大な松明へと変わった自らの城を見下ろし、ヤマザキは歯を剥きだす。ヤマザキの脳裏には、スクルに対してへりくだるようですらあった己の姿が再演されていた。この『R・I・P』幹部たる巨漢の内側にどんな感傷やコンプレックスがあり、あのような対応になったのか……だが、それも今や怒りに塗り潰されていた。

 その時だ。ヤマザキの視界に、近くのビルの屋上で突然倒れるガードの姿が見えた。

「何だ?」

 すぐに別のアパートの屋上でも、ガードが倒れた。何かに引き倒されたような……。

「大変です!」非常階段から慌てた声が響いてきた。「ベクターが暴れています!」

「見えてる」

 五階分の階段を一気に登ってきた男は、リーダーのすげない返答に不満の声を上げそうになったが、寸前で止めた。ヤマザキの顔は、まさに怒張というべきものだった。

「『R・I・P』の幹部をナメた馬鹿どもが……」

 ヤマザキは女奴隷の背に曳かれた粉を一気に吸引すると、眼と口以外を覆う鉄のマスクを装着した。そして、巨大な骨の柄を持つ斧を拾い上げ、たった今報告に来た男の脳天に振り下ろした。「え」

 突然の暴力に、側近たちは動じない。戦に臨む前に必要な禊だった。マスクの下で眼を血走らせたヤマザキはふいごじみて息を吐き、血の付いた斧を振り上げた。「行くぞ。野郎共」――

 ――檻から逃げて行った人々の背を見送ったカミラは近くのアパートの廊下の手すりに躰を引き上げることを繰り返し、屋上に登っていった。線路の対岸は凄まじい炎で、カミラのいる側が影のようですらあった。だが、炎は着実に燃え広がっており、早晩同じ状態になるだろうことはもはや誰の目にも明らかだった。

 カミラはその惨状を絶句したように眺めていた。その時、銃声がした。カミラは眼下に、くるくると舞う影を見出した。スクルだろうか、そう考えた彼女は次の瞬間、息を詰まらせた。

 高架橋で踊る影は、錨状の義手を飛ばしハンザイシャたちを次々と倒しながら、義手を鉤縄じみて飛ばして建物を行き来し、また高架橋に戻る。

 ブッカー。標的を追って、この火炎地獄にまでやって来たのだ。――

 ――錨をハンザイシャの首に掛けワイヤーを巻き上げながらガン・スピン。前方のハンザイシャの首が飛び、後方のハンザイシャの胸が爆ぜる。

 ブッカーはぐるりと周囲を見渡し、あらかた敵を片付けたことを確認した。

「ぬうぅ……我輩の錨をなぜハンザイシャなどで汚さねばならん……」

 ブッカーにとって突然の火災はまさに僥倖だった。だが……結果から言えば、彼はいつのまにやら次から次へとやって来るハンザイシャを殺すばかりになり、まったく標的を探すことなど出来ていなかった。

 残心じみて構えていたブッカーの耳に、轟然とした大気の対流を割って、低い唸りが聴こえた。ブッカーは即座に義手を飛ばし、近くのアパートのベランダに逃れる。

 そのアパートの前に、炎にてらてらと輝くバイクの群れが停車した。乗っている者たちの武装は様々だが、一様に鉄のマスクを着けている。その中の一際大きなバイクに乗る巨漢――ヤマザキが叫んだ。

「貴様ァッ!ここを『R・I・P』の領地と知っての狼藉かッ!」

「ハンザイシャ風情が吼えるな!本来、我輩は貴様らなど相手にしている暇はないのだ!」

 バコッと付近の木造家屋が大きな音を立てた。

「夢野のベクターは声だけはでけェなッ!だから隠れて顔も出さないってかッ!」

「下賤な輩に我輩の尊い面貌を晒す必要なし!そのように下から拝んでいるのが正解よ」

 黄金の粉が風に舞い、高架橋のバイク集団とベランダに隠れるブッカーを横切る。

 ……カミラはその応酬をブッカーがいるベランダの、すぐ上の屋上から聞いていた。額を汗が伝う。

「繰り返す!貴様等の相手をしている暇などない!我輩には標的がおるのだ!」

 激昂して言い返そうとしたヤマザキは、そこではたと気付いた。敵は、迂遠極まりないが停戦を求めている。そもそも何か別の目的があってきたのだ。ベクターの恐ろしさと自信過剰を知っていれば、それが命乞いでないことは明白だ。ヤマザキは怒り狂ってなお、その判断ができた。

「……標的ってのは何だ」

 その冷えた声音に、ブッカーもまた静かに応じる。

「二人組の男によってここに運ばれてきた左右田のベクター。カミラという女だ」

 ヤマザキはスッとブッカーを指差した――いや、その少し上を。

「そのアパートの屋上に、見たことのねぇ格好の女がいた。確かめてみろ」

 カミラは立ち上がった。ベクターだというのに、一つ所に留まり過ぎた……。カッと音がして、屋上の縁に錨が掛かった。カミラは即座にガン・スピン――錨が弾き飛ばされる。だが直後、屋上のドアが開いた。

 ブッカー。屋上に錨を引っかけながら、平然と建物の中を移動してきたのだ。

 直後、二人は挨拶もなく、ガン・スピンをぶつけ合わせた。

16.演説

 夢野市。『灯浪会』の有する溝呂木マンション。三棟の集合住宅が幾つもの橋で繋がれた巨大構造には、主に『灯浪会』に所属する人間たちや、その家族が住んでいる。

 今、マンションのベランダや廊下や窓からは多くの住人達が顔を覗かせ、三棟の中心たる中庭に集まった人々を見下ろしていた。

 中庭に集まるのは『灯浪会』の中でも、いわゆる新派閥の人々で、その中心にいるのは当然ヨースケだ。演台に登り、力強く拳を振り上げている。

「『エンジニア』は我々『灯浪会』の管理するゲートを無視して左右田の者たちを入市させたのみならず、自治会を通さず、彼らとの間で不正な取引を結んでいた!」

 ヨースケが弾劾するのは、『エンジニア』とその首魁たるテンカイの専横だ。ヨースケが演説をぶつ前から人々の間には熱気が充満しており、以前から不満が溜まっていたことが判る。

 ……演説は左右田のベクターたちと彼らの運搬物の違法性に終始し、それがバイオハザードの危険があるというところには展開しない。当然、ヨースケはスパイの手によってそれを知っているが、人々に無用な混乱を招く必要はないと考え、それは伏せていた。

 ヨースケがさらに一段階声を高くして叫ぼうとしたところで、群衆がざわめいた。人々の波をかき分けて、ニコニコとした顔の男が現れる。

「やぁ、ヨースケくん!ご苦労だねぇ」

「ガンギさん。何でしょうか」

 ガンギと呼ばれた男は、演説を断ち切ったことも、周囲から敵意の眼差しを向けられていることにも、どこ吹く風といった様子だ。

「ご愁傷様。と、それを伝えに来たんですわ」ガンギの細い眼が陰湿に光った。

「……何のことでしょうか?」

「おたく、大事にしていたユーリちゃんを左右田の連中の処理に行かせたんでしょ?……いやぁ、それが死んじゃったって言うんだから無念だろうなぁ、とね」

「まだ死んでいるかは判りません」

 植物園から帰還したのはタスケ一人だった。その報告では『灯浪会』も左右田のベクターも、ほとんどが死亡していたという。死体が見つかっていないのは、彼が直接接敵した左右田の女ベクターと、スクル、そしてユーリだった。――小学校に転がっていた死体の様子から、第三勢力による虐殺の筋が濃厚だった。

「はは……確かに。もしかしたら無事に逃げれたかもしれませんなぁ」

「そう信じています」

「信じたいだろうねぇ。あれだけのことをやったんだから、逃げないとまずいよねぇ」

「……何をおっしゃりたいのでしょうか」

 ガンギはからからと笑う。

「テンシはさぁ、先代のお孫さんだったわけよ。それをさ、殺しちゃったんだよ?いやぁ、いろんな人がはらわた煮えくりかえってるよ」

 ガンギが言っているのは、先日ユーリが起こした殺傷事件だ。『灯浪会』内部の司法組織の判断では正当防衛の範囲だと認定されたが、被害者遺族たちは納得していない。――この司法組織自体が、そもそもヨースケの代になってから設立されたものであり、何か身内を守るような動きがあったのではないかと疑う者もいる。一方で、被害者の少年たちが、管理保管されているはずの自動小銃をなぜ持っていたのかという点について、彼らのグループの親が先代に仕えていたことと関連付ける向きもある。

 ……ヨースケは新派閥の代表であり、ガンギは先代の旧臣が集まる旧派閥のスポークスマンだ。『灯浪会』が関わるあらゆる場所には、派閥争いの影が見え隠れする。

「裁判は正当なものでした。もし異論があるのならば、然るべき筋から意見をお願いします」

「……そうさせてもらいますよ。ええ」ガンギは微笑んだ。「ではではみなさん!『エンジニア』の不正専横許すまじと、頑張って声を張り上げてください!私はこれで」

 そう言って、元来たように群衆をかき分けて、帰っていく。

 ――何事もなかったかのように、あるいは空白を即座に埋めるように演説が再開された。その様子をマンションの廊下から見下ろしていたフードの男がいた。そいつは群衆に紛れるようにしていたが、突然、躰を緊張させると、廊下を足早に進み始めた。いや、それはすぐに駆け足に、全力疾走に変わっていく。

 疾駆によってフードが脱げ、焦燥した顔が露になる――左右田のベクター、カゲユキだ。カゲユキは吊り橋じみた渡り廊下を駆け抜け、別棟に移動すると、その廊下で助走のように一気に加速する。

 その視界を過ぎ去っていくのは、驚いて避ける人々の顔、マンションのドア、鉄製の手すり……灰色の空。

 カゲユキは跳んでいた。バタバタと衣服が風にはためく。一瞬、その躰が解放感だけになる。だが、その研ぎ澄まされた目は着地点をしかと見据える。解放感を意志に変える。カゲユキが落下するのは、10m以上低い隣接したアパートだ。

 ――カゲユキは両足が接地した瞬間、衝撃そのものを捻じ曲げるように躰を捻り、そのまま潰れながら屋上に転がった。それでも、即座に躰を跳ね上げて、走り去ろうとしたところで、背後に物音。

 カゲユキのガン・スピンと、やって来た漆黒の旋風が交わる。

 数瞬の交錯でカゲユキはその力量差を察した。

「待った!降参だ」ステップして離れたカゲユキは、回転の勢いから流れるように両腕を上げた。影の渦が停止し、ガスマスクと、燕尾服と、カーボン製の義肢となる――虐殺紳士ムヘンコーヤの姿をとる。

「はは……すぐにオレを殺す気じゃないみたいで助かった」カゲユキは口許を歪めた。「オレはテンカイさんの思想には賛同していたんだ。だから……あんなことになって残念だ。本当に知らなかったんだよ」

 ムヘンコーヤのゴーグルは白く輝いている。カゲユキは手ごたえの無さに焦る。

「――あんたについてもテンカイさんから聞いたよ。最強の戦士として育て上げられたんだって?実際、さっきの一瞬だけでも思い知らされたよ。さぞや……厳しい訓練を積んで来たんだろうな」

 カゲユキは同情と共感を滲ませて言った。だが、どこか慇懃無礼な調子が抜けていない。

「オレもあんたみたいにテンカイさんの下に付きたいんだ。あの人の理想を支えたいんだよ。あの『エンジニア』の役員連中をみたか?あれじゃあ四面楚歌ってもんだ」

カゲユキは窺うように首を伸ばした。ムヘンコーヤは動かない。

「オレたちには新しい世界を運営していくことなんてできない。オレたち自身がもう終わっているんだからな。だから、その“終わった世界”に眠るものを掘り起こして、本来あるべきであった世界を再演してもらうしかないんだ」

 それはテンカイの思想を彼なりに噛み砕いたものだったが……初めてムヘンコーヤが反応を示した。

「貴様もそう思うのか」

「もちろん!」

「私はテンカイとは違う考えだ」

 カゲユキの表情が凍る。ムヘンコーヤはテンカイの傀儡では無かったのか?

「……テンカイはアポカリプスの主因を天災と考えていて、だから旧人類の夢などと言うものに縋りついている。――私の考えは違う。破滅は起きるべくして起きたものだった。宇宙が、地球が、文明が、人類が、すべてが元々抱えていた秩序が表出したものだったのだ」

 ムヘンコーヤは謳うように言った。カゲユキは慎重にAランカーの言葉に耳を傾ける。

夜空を想像するが良い」ムヘンコーヤは言った。「人々はその星々の連なりに物語を紡ぎ、月光がもたらす静謐に深遠な意味を見出してきた。それは、恒星の筆で虚無に描き出された美しい幻像だった」

 影は曇天を仰ぐ。

「世界が如何に変じようと、終わろうと、人々はそこに夢を見出すだろう。それは変わらない。貴様らの言う、“終わった世界”で、それはむしろずっと多色多彩だ」

「今の……このままの世界で良いということか?」

 カゲユキはムヘンコーヤの感傷的なセリフの意味するところを捉えかねつつも、言った。

「良い悪いではない。ただ、人類とはそういうものだ、というだけだ」ムヘンコーヤは答えた。

「なら……なんなんだ?オレは……クソッ、正直に言おう。死にたくない。あんたの望むことは何でもする。助けてくれ」

「それも虚無を目前にした人の生の一相だな」ムヘンコーヤは笑ったようだった。「貴様は言った。本来あるべき世界を再演すると。私はそうするつもりだ」

「どういうことだ?」カゲユキはムヘンコーヤを見上げる。

「あの赤子を手に入れた時、何も感じなかった。新人類など、浅薄な夢だ。……だが、会議室で、あれに隠されていたもう一つの絵が浮かび上がった時、私は気付いた。これは人類がたどり着いた、一つの偉大な秩序の顕れであると。我々が美しい夢で彩って見えなくした虚無を、もう一度むき出しにする刃であると」

「な――なんだ?滅びの中でこそ生は輝くという……そういうことか?」

「誰がそんなことを言った。私は輝きにも美しさにも価値を感じない。無論、生にも、滅びにも。むしろ、そんなものは偉大な秩序を遮ってしまう。私はただ、世界本来の秩序が……偉大な虚無が、そのあるがままに世界に横たわるところが見たい」 

カゲユキは暗黒の塊みたいな男を凝然と見上げた。

「なんでもすると言ったな」影が言った。「手を貸せ。あの破滅の種子を手に入れる」

ゴーグルの奥――黒々とした瞳がカゲユキを捉えた。

17.衝突

「スクル!」

 呼びかけに足を止めたスクルの下に、ビルからユーリが飛び降りてきた。

「来たか!行くぞ!」

 もはや周囲の火炎の奔流はまともに呼吸ができないほどになっていた。スクルは牽いていたバイクのエンジンを掛けた。

「オイッ、あんた!」そこへ、奴隷ボランティアの一人が半ば叫ぶように話しかけてきた。周囲にはその男以外には残っていない。

「早く逃げろ!もうこの辺りにゃ誰もいない!」スクルはユーリを背に乗せながら言った。

「ああ……オレたちには決めてた合流地点がある。あんたたちはどうするんだ?」

 男はこんな状況でもスクルの心配をしていたらしい。

「こいつで逃げる」スクルはバイクを叩く。「ヤマザキはウェットな男だ。正直、オレを追ってくるんじゃないかと考えてる。……ま、囮役を買って出ようという訳だよ」

「ああ……あんたには何から何まで……」

「いい!さっさと逃げろ!」スクルは苦笑しながら、男を追いやるジェスチャーをした。男は申し訳なさそうな顔をして、炎から離れていく。

「ユーリ、準備良いか」「大丈夫」

 スクルは路地を抜け、高架橋の繋がる大通りに出る。そこで、炎の吼え声の底に、なにかもっと剽悍で恐ろしい獣の唸り声のような音が轟いた。

「なん――。……ッ!加速するぞ!」

 スクルはバイクを加速させる――ユーリの瞳は背後、炎と煙で地獄の門のようになった高架橋の頂点を映す。唸り声が大きくなる。そして、赤々とした帳をかき分けて、恐るべき魔界の騎兵隊が飛び出してきた。

「ヒュィィィーッ!」「いたぞォォオーッ!」「ギャハッ!ギャハハッ!」

 パパパパパパパッ!天に喊声の如く銃弾を撃ち上げながら、装甲バイクの群れが現れた!それはジャンプやウィリーしながら次々と増えていく。

 搭乗者はいずれも鉄のマスクを装着して、そこから血走った眼と黄ばんだ歯をのぞかせている。

 スクルは大通りを加速する。追ってくる装甲バイクの中には二人乗りになって、後部でライフルを構えているものもある。その内、先頭で一際大きな一台を駆るのはヤマザキだ。片手で巨大な斧を引き摺り、コンクリートに鮮烈な火花を立てている。

「スクルゥ!『R・I・P』を!『オキバ』を!このオレをナメたつけェ払ってもらうぞ!」業炎と銃火の威風を背に受け、ヤマザキの哄笑は悪魔的ですらあった。

 ――ヤマザキらが出て来た炎の向こう、カミラとブッカーはガン・スピンの踊るようなシルエットをアパート上に投影する。

 カミラの呼吸は荒い。背の傷口は開き、炎にぬめぬめと光っていた。その動きは精細を欠き、すでに限界を迎えているようでありながら、そのよろめきすら一連の動作に組み込んで、敵に絡みついていた。

 一方のブッカーは、まだまだ体力にも余裕があったが、カミラの執拗さには舌を巻いていた。初手から超接近戦を仕掛けられ、そこから義手から抜錨できずに泥臭い争いに巻き込まれる羽目になった。

 二人は火の粉の中を踊る。

 銃撃がブッカーの脇腹を掠め、錨の斬撃がカミラの頭上をよぎる。ブッカーの叩きつけるような銃撃が、一瞬前までカミラの足があった点を穿つ。カミラがスピンから繰り出した蹴りが、ブッカーの蹴りとかち合い、二人は距離を離す。――ブッカーの錨の距離!

 ――ガキンッ。「ハッハー!」ブッカーの義手から錨が放たれる。スピンしながら、ピンと張ったワイヤーと錨は空に弧を描き……。

 カァン、と甲高い音が響いた。

「なッ!?」一瞬、宙で錨が揺らめき、ワイヤーが撓んだ。カミラが錨を撃っていた。宙にあって線の如き錨を、その音速の槌が叩いていた!

 それは断頭の瞬間に間違えて鋼鉄にぶち当たってしまった斧じみて、振り手の躰に衝撃を伝えた。

 カミラはそのままガン・スピンで大きくジャンプして、よろめいたブッカーの懐に飛び込んでくる。錨を利用したスピンを阻まれたブッカーはしかし、初志貫徹――錨を巻き上げて、斬撃を完遂しようとする。

 ……だが、速度も安定性も不十分な錨は、パンッと音を立ててカミラの手に収まった。

 直後、二人のスピンは、逆方向に回転していた歯車がガッチリと噛み合うように、瞬間的に拮抗した。「ぐうッ!」そして……体勢を崩したのはブッカー!

 倒れながら、ブッカーは反射的に銃撃!だが、もはや意志の介在しない落下姿勢からの射撃はベクターに当たりはしない!ブッカーを引き摺り倒したカミラは、爆発的に解放されたエネルギーの波に乗って宙を舞う!

 周囲を満たす白煙がカミラの跳躍に引き寄せられ、プロミネンスのように弧を描く。パンッパンッパンッと天から銃弾が降り注ぐ。

「オオオォォォッ!」

 ブッカーは躰に風穴を開けられながら転がって距離を取ると、身を起こした。数瞬前まで余裕綽々であったことなどその頭からは吹き飛んでいるが、一方でそこには過剰な怯えや憤怒も無かった。ベクター同士の戦いには、常に銃弾が用いられる以上、戦いの趨勢は一瞬で傾きかねない。ブッカーもまたそのことを良く知っていた。

 回転の中で睨み合った二人は、血と汗と熱の竜巻であった。両者同時にガン・スピン――銃弾がぶつかり合って爆ぜた。その空白に滑り込むように、二人の顔面が衝突するかの如く接近したのも一瞬、二つの螺旋はⅩ字に交錯する!

 ……二つの螺旋は砂煙を上げて停止した。錨を振り切ったブッカー。銃口から硝煙を上げるカミラ。

「くハッ……」

 ブッカーは笑うように血を吐き……倒れた。

「――ひゅッ。……ハァ、ハァ!」

 遅れて、カミラも膝を着き、周囲を見渡した。アパートは火炎の海に浮かんだ岩礁のようだった。カミラは上を向いて荒く息を吸った。赤く染まった夜空には、星々と火花が散る。煤の散った頬に涙が伝う。

 ……まばたきし、眼を洗浄すると、カミラは立ち上がった。

 そして、勢い良く走り出すと、すべてを圧するような火の中にジャンプした。

 ――燃え盛る火の輪と化した検問所から、一台のバイクが走り出してくる。ついに『オキバ』の領地から抜け出たスクルとユーリだ。

 火の手は瓦礫と廃墟が広がる無人の荒野には消極的で、清涼な空気と夜の暗闇が一気に二人を包み出す。だが、その背後から火炎の化身じみた軍勢が追い縋って来る。それは、実際に松明を持ち、あるいはバイクに差し込んで、火を連れている。

「ヒュウィアァァーッ!」

 パパパパパパパッと業火の群れから銃火が飛び立つ。前方のテールライトの軌跡に火花を散らす。

「ヒヒあバッ!」

 突如、ライフルを連射していたバイクが横転した。スクルの背で反転したユーリのガントレットからは硝煙!適格な一射がライフルの連射に体勢を崩していた車体を打ち倒した!

「ナイス!」スクルは全身で、少年の小さな体躯から伝わった銃撃の衝撃を感じ取る。

 ユーリはさらに一射し、すぐにもう一台バイクが横転する。

「ウォリアーが先行する!慎重に狙え!」ヤマザキが吼える。片手で斧を引き摺り、もう一方でハンドルを握るという姿勢にも関わらず、その大きなバイクはデンシャの如く真っ直ぐに加速して距離を詰めてくる。

 その脇から、斧やククリ刀、松明そのものを掲げて装甲バイクが突っ込んでくる。ユーリが銃撃するが、近接武器を携えたハンザイシャたちのバイクはただ運転に集中して体勢を揺るがせず、また搭乗者自身にはマスクやプロテクターによって致命傷を与えられない。いや、眼球に一撃を受けたはずのものですら、狂笑と共に加速してくる!

 ついに、斧とククリ刀のハンザイシャが追いついて、二人に並走する。左手の斧ハンザイシャが横に大きくバイクを振ってから、タックルするように斧を振る!スクルは横に避けるが、そこには閃くククリ刀!

「うッ」ユーリがガントレットで斬撃を受けるが、半ばまで貫入した刃からは血!ククリ刀を引き抜きぬいたハンザイシャは再度斬撃を繰り出そうと振りかぶる!バンッ!運転しながらスクルがハンザイシャのマスクを撃って、仰け反らせる。

「銃弾頭に喰らッてんだぞッ」スクルが叫ぶ。

 ククリ刀ハンザイシャは笑いがら涎を後方に流す。左手では斧ハンザイシャが再び突貫を試みようとしていた。

 ――スクルは前方、アスファルトが隆起しているのを認めた。「跳ぶぞッ」そう叫ぶと、スクルは背に力を込め、ユーリも応じるようにピタリと背をくっつけた。

 斧が薙ぎ払われた!……スクルはバイクをほとんど寝かせるようにドリフトさせながら避けていた。そして、そのままスキーの踏切台みたいな隆起に突っ込んだ!

 三台は同時に宙を駆け抜けた。ドリフトしながら飛んだスクルのバイクは宙を回転する――スクルのガントレットが右手のククリ刀ハンザイシャに向いていた。そして、ユーリのガントレットは左手の斧ハンザイシャに。

 パンッ!ダンッ!パンッ!ダンッ!

 二人の銃撃の勢いで宙で横に一回転したバイクは、大きく蛇行しながら直地する!一方で、空中で銃撃を受けた二人のハンザイシャは着地に失敗して後方にはじけ飛んでいく。

「チッ!」ヤマザキが舌打ちする。

 後続のバイクも次々と宙に火炎の弧を描いて着地するが――その中に、いつの間にかスクルのバイクが混じっていた。一気に減速して、敵の腹中に乗り込んだのだ!

 スクルとユーリはぴたりと背を合わせ、両翼から銃火を輝かせる!

 突然の敵の出現に対応しきれなかった者たちが、マスクの覆えていない側頭部に銃弾を受けて倒れていく。次々と倒れていくハンザイシャたちの中、ヤマザキだけは鋼鉄のような二の腕で銃撃を耐える!「ぬぅうーッ!」そうしながらも、銃声ににじり寄って……巨大な斧を振り払った!

「うおッ」

 よろめいて距離を離したスクルを睨み付けたヤマザキは、周囲にはもはや部下のバイクが残っていないことに気付いた。憤怒の眼をマスクの内からスクルに浴びせかける。スクルは皮肉げな眼差しを返す。

「おおおッ!」ヤマザキは振り払った斧を頭上でぐるぐると回し、ほとんど体重移動だけでバイクを近付けると、スクルに向けて振り下ろした。減速して避けたスクルの前方に斧が叩きつけられ、アスファルトの礫を飛ばす。スクルの顔面に破片がめり込む。「ぐッ」

 ヤマザキはアスファルトで爆ぜて持ち上がった斧を再び頭上で回転させる!よろめいたバイクはジャイロ効果によって姿勢を安定。再度突貫を掛ける!ベクターさながらの回転運動の利用!

 スクルはヤマザキの動きに必殺の気配を感じ取る。スクルは前方、『これより笹美市』の看板の錆びた鉄柱に撃ち込んだ。看板が道路に倒れる。

 直後、ヤマザキが大きく身を乗り出し、ほとんど道路を薙ぎ払うように斧を繰り出した!地を這うバイクには如何様にも避けられない必殺必中の一撃!

 だが!スクルは跳んでいた!転がった看板をジャンプ台に宙に跳び上がっていた!回転するタイヤのすぐ下を、斧が掠めていく!

「それがどうしたッ!」大きくよろめいたヤマザキはしかし、またもや体勢を立て直し、斧を乱舞させる。その最中にもユーリが銃撃していたが、巨体は血塗れになりながらも倒れない。

 ユーリは銃撃を止め、スクルに背を預ける。その筋肉のうねりが伝えたことに、スクルは瞠目する。だが、すぐに歯を剥きだした。「面白い!」

 スクルはバイクの尾を振った。ヤマザキもまたバイクを引いて、勢いづけていた。

 次の瞬間、ユーリはバイクから飛び立っていた。

 ガン・スピン――ヤマザキを撃ち、回転すると、巨体を蹴りつけた。

 その蹴りはさながら掘削機で、銃弾すらものともしなかった、ヤマザキの荒々しくも精緻な攻撃サイクルに、まさしく穴を穿った!

「あッ――」

 大きく体勢を崩したヤマザキは、それでも斧を振り乱してバイクの制御を取り戻そうとしたが、耐えきれず完全に横倒しになると、ついに斧と炎を巻き添えにして転がり――爆発した。

 後方の爆風を尻目に、スクルはバイクに戻り損なったユーリに手を伸ばしていた。宙を旗のように流れ、地面に擦りかけたユーリを渾身の力で車体に引き戻す。

「よいせっとッ」

 そして、少年の小さく冷たい躰がスクルの背に張り付いた。

 スクルは輝く瞳で闇夜を見据えた。

 火炎も、狂騒も、あっという間に拭き流れて遠くなった。

18.遊離する意志

 バイクは闇夜を走る。ヘッドライトが過ぎ去っていく廃墟の街並みを筆で掃いたように描き出す。

「何か話してくれないか?」スクルが言った。

 ユーリは筋肉が隆起する背から頬を離した。

「さすがにちと眠い。テキトーな話でいいからさ」

「うん」

 ユーリは少し考えてから、話し出した。

「この依頼を受ける前、お母さんが死んだ。前から良い状態じゃなかったんだけど、家に帰ったら首を吊ってた。それで、義父……みたいな人に相談したんだけど、その時、嘘をついちゃった」

「だから棺が必要だったわけか」

「え?知ってたの?」

「タワーの中で会ったの覚えてないか?」

 ユーリは首を振った。スクルは肩をすくめ、続きを促した。

「お母さんが誰もいない丘の上埋めて欲しいって言ってたって……そんなことは言ってなかった。いつも、ただ死にたいって言ってたから、場所なんて気にしてなかったと思う。綺麗な丘の絵は大事にしていたんだけどね」

 風がユーリの髪をさらう。

「だから、本当はただ火葬場に持っていけば良かったんだけど……ヨースケさんにはそう言えなかった。――ヨースケさんがさっきの義父ね」

「ああ、たぶん『灯浪会』の今のボスだよな?」

「うん。――ヨースケさんとお母さんは、ぼくが生まれるずっと前にお付き合いしてたんだって。そのことを話すときだけは、お母さんは楽しそうだった。でも、その当時、ヨースケさんは『灯浪会』の体勢を変えるために色々していたせいで、危険な目にもあっていたみたい」

「昔の『灯浪会』はひでぇもんだったからな」

 ユーリは頷いた。

「その時に、ヨースケさんと付き合ってたお母さんも巻き込まれたんだって。それで――その、ぼくが産まれたんだって言ってた。それをヨースケさんは凄く気に病んでて、忙しいのに今でもぼくたち親子の面倒を見てくれてる」

「だから迷惑掛けたくないってことか」

「そう。お話はこれでおしまい。もやもやしてたから言えて良かった」ユーリは言った。

「なら質問タイムだ」スクルの声は乾いていた。「造った棺はどうするつもりだった?遺体を入れて、本当に埋葬するつもりだった?」

「それは――」

「もしかして、自分が入るつもりだったんじゃないか?」スクルがフッと笑う。

「それは違う」

「おっと」

「……でも、近いかな。お母さんを入れて、どこか本当に誰もいない丘を見つけたら、ぼくも一緒に入るつもりだった」

「やっぱりその辺りになるよな。あんたは着地点の見えている合理的な人間だ。でも、死に片足突っ込んでる速度がある。だから、そういう答えを出す」

「お説教?」

「ほめてるんだ」

「そうなんだ」

 辺りに暁闇の薄明りが湧き出していた。――そして、ユーリにとって何か嗅いだことのない匂いがした。

「なんか、臭いね」

「そうか。ま、夢野にいたら嗅ぐ機会なんてないからな」

 スクルは臭いの原因については答えず、わずかに躰を揺らした。

 しばらく、バイクのエンジン音だけが響いた。

 風が強くなる。

「スクルも何か話してよ」

 ユーリはふと呟いた。

「む。俺の番か」スクルが言った。「そうだなぁ、オレがまだベクターに成り立ての頃の依頼の話でもするかな」

「うん」

「その依頼の主は、とにかく変なやつだった。『エンジニア』の役員の息子で、珍しいゲノ動物を保護するのが趣味だって皮肉っぽく笑ってやがった。名前は、ヨシハル。屋敷の中にゃそこら中にゲノ動物がいて、どれも狂暴性が除外してあるなんて言ってたが、オレは尻を甘噛みされた」

「例えば何がいたの?」

「頭が二つにむき出しの脳みそが一つのイヌとか、バカでかい飛べないハエ。オレの尻を嚙んだのは四足歩行のイルカだった」

「簡単に仕留められそう」

「その依頼主の男はゲノ動物図鑑なんてのも出してたから、それに調理法なんかも書いてあるかもな。その辺はちゃんとした研究として『エンジニア』が引き継いでるはずだ。――そいつの依頼は、“リュウ”を捕らえたいってものだった。知ってるか?リュウ」

「ドラゴンとも呼ばれてるよね」

「ああ。ゲノトカゲだとかゲノ恐竜とかって呼ばれてない特別枠だ。ちゃんとした学名は、その時はまだなかったかな。でも、当時から有名だった」

「空を飛んで、火を噴く。それに全身が優良な蛋白質素材」

「そういうヤツもいるみたいだな。ヨシハルの依頼対象になったのは、夢野の近くで見つかったトカゲとナマズを足したような間抜け面のやつだ。ちょっと素材としては使えそうもなかったな。こいつを捕まえるために、ベクター三人、ヨシハルとそのお付き四人で芦原岳に行ったんだ」

 空が明らんできた。

「道中でもヨシハルはずっとゲノ動物の話をしてたよ。当時のオレは、それを割と面白く聴いていた。代謝するような速度で変わっていく今の生物相を保護するのは不可能だが、面白いヤツは生かして記録しておきたい。とか、動物たちはたちまちゲノ汚染を受けたのに、植物にはあまり大きな変化が見られない。とか、そういう話を覚えてるな」

「植物が変わっていたら、そもそもぼくたちが暮らせないくらい世界は変わっていたかも」

 スクルは肩を揺らした。

「――山に入って、二日目かな。リュウの痕跡を見つけた。這いずった跡だ。三日目に本体を見つけた。これをベクター三人で麓に設置しておいた檻に追い立てる。そういう作戦だった。弾丸はレジン製。植物園であんた達を撃ったのと同系列だな」

「あれは、もし実弾だったら、後が面倒だったから?」

「ご明察。オレのことが解ってきたみたいだな。――オレたちはリュウを追い立てた。不用意に近づいた一人が腹を掻っ捌かれて死んだが、むしろそいつの死体を使って檻まで誘導できた」

 話を聞きながらユーリは懐からタバコとマッチを取り出し、『灯浪会』製のそれを咥えると、火を付けた。煙と火の粉が風に流れる。紗のような睫毛が瞳を隠す。

「檻に入ったリュウは、もうただのデカいトカゲだったな。ヨシハルはどう思ってたのかな。あいつが檻に入っていった時、オレは疲れてて、何も考えずにそれを見てた。ヨシハルはリュウの鱗を撫でながら、頭のほうに近づいていったんだ。檻にはリュウが反転できるほどのスペースが無かったから安全だと考えたのか。いや、あの男はなら警戒していたはずなんだ。でも近づいていった」

 ユーリは煙を吐きながらスクルの話に耳を傾ける。

「頭の前まで来た時、リュウの小さな眼がギョロって動いたのを覚えてる。次の瞬間には、ヨシハルは頭から喰われてた。脚がじたばた動いてたけど、必死な感じじゃなかったな。すぐにお付きの連中がリュウの胴体にしこたま弾をぶち込んで、リュウの死体からヨシハルの下半身を引っ張り出したが……まぁ、そこで千切れていた。もう一人のベクターがそれに爆笑して、お付きにハチの巣にされた」

 スクルはそこで話は終わりとばかりに沈黙した。

「……ヨシハルさんが口許まで行ったのは、それしかないと思ったからかなぁ」

 ユーリは呟いた。

「さぁな。もうわからない」スクルは口許を緩めた。「確かなのはあいつが自分からリュウの頭に近づいていったこと……それだけだ。あの瞬間のあいつの気持ちや考えなんて解らない。あの後の派手な葬式じゃ最後にリュウに喰われたとは言ってなかったな。あいつの研究資料は引き継がれたけど、イルカが放し飼いになってるわけじゃあるまい。リュウの死体は腐敗が酷くてすぐに処分したらしい。それでも、報酬はきっちり支払われたよ」

 スクルは淡々と言葉を重ねて、

「どれも、あいつ自身とは無関係だ」

 そう結んだ。

 ユーリの視界には、日の出のグラデーションに染まる空と、何もない水平線、そして無限の細緻を描く波濤が拡がっていた。

「海?こんなところを通るの?」

「寄り道だ。死闘のあとでも忘れたくない漫遊精神だね」

「眠たいんじゃなかったの?」

「おかげですっかり目が覚めた」

 バイクは右手に砂浜と朝陽を、左手に廃墟と化した海辺の町を臨みながら、潮風を切って走る。

 ユーリはまぶしい朝陽から眼を背け、代わりにゴーストタウンを眺める。

 あの日、夕陽に沈んだ母の顔がよぎった。そして、焦げ臭い匂いと、血でべたついたシャツ。それは、錆と荒廃に沈む廃墟と、磯の香りに、中和されるように少しだけ薄らいだ。そして、また心の底に沈着していく。

 ユーリの眼差しは白く抜けるような空を泳いだ。

「……夢野に戻ったら、オレは依頼が本当に虚偽のものだったのか確かめる。そのあと、場合によっちゃお礼参りだ。ユーリはどうする?」

「ぼくは……」

 少しの沈黙。

「夢野で問題を起こしちゃったから、帰ったら面倒なことになっているかも。……『灯浪会』の前のボスの孫を撃ち殺しちゃったみたい」

「やるねぇ。戻ればお尋ね者か?」

「ううん。『灯浪会』の判断では無罪だって」

「なら胸を張って帰りつつ、反撃の準備だな」

「うん。……ああ、仕事を失敗したことを謝らなきゃ」

「『灯浪会』の内輪の仕事だろ?満足な報酬も出ないのに、謝罪を要求されるとはね」

「『ガンマ』に登録した方が良いかな」

 二人は朝焼けに燃える海沿いの道を進みながら、ベクターに必要な技能や基本的な指針、もっと細かなノウハウについてまで会話を交わした。スクルの話は決して解りやすくはなかったが、ユーリにとってそれは原石であり道筋となる知識になった。

「もし、あのムヘンコーヤってベクターと戦うことになったら殺せると思う?」

「アリーナなら無理だろうな。やつのガン・スピンは人体の可動限界を超えてる。渦の理想形に近い。接近戦で勝ち目はないと考えた方が良いな」

「距離を置いたとしても、精度も手数も圧倒的。ちょっと攻略法が見えない」

「ベクターの戦いは自由だ。ユーリだってそう戦ってただろ?何もロジックや力比べだけじゃない」

「うん」ユーリはまた空を見上げた。「もっと好きなように走り回って、確かめてみたいな」

「自由な戦いを?」

「自由を」

 スクルがふふんと鼻を鳴らした。

 空には、すでにいつもと変わらない太陽が輝いている。振り返れば、青空を凝らせたような海が拡がっている。ユーリはその光景を少しだけ綺麗だと思った。

19.伝えたかったこと

『……まず、この音声を聴く前にシリンダーを開けないで欲しい。開けてた場合はご愁傷様だ。

 ぼくはサイダ・シュウジ。笹美研究所で色々な研究をしていた……その最後の生き残りで、凡人だ。たぶんこの音声データを聴いている人は、新しい人類だって触れ込みで赤ちゃんの入ったシリンダーを入手しているだろう。そうじゃない場合は、それらしいものが近くにあるか確認して欲しい。

 これは、まぁ、遺書ってことになるのかな。これが聴かれていた場合、たぶんぼくは生きていないだろうから。それとも、こっぱずかしい顔でこれを自分で聴くハメになってるかな?どっちでもいいや。

 あああ、色々余計なことを言い過ぎた。簡潔に伝えないと。――そのシリンダーの中身は、新人類じゃなくて、ただの蛋白質の塊だ。造形機でそれらしい形になってるけど、それだけだ。いや、それだけじゃなくて、問題はシリンダーに同封されているもののほうだ。非常に感染力の高いバクテリアが同封されているんだ。幾つか形態があってね、人体にとって極めて有害な上、人間含む動物を媒介にしてどんどん拡がるほど感染力が強い。一つの都市くらい滅んじゃうし、下手すると地上はゲノ動物たちの楽園になっちゃうかもね。

 これに対抗する手段を、あの人たちは造らなかった。だから、この研究所を探しても無駄だ。シリンダーを回収した人たちに、これをどうにかする科学力があれば良いけど、バイオ兵器なんて昔の技術でも対処が難しかったんだから、たぶん無理かな。

 えっと……一応話すべきことはこれでおしまいかな。この後、ぼくは左右田にあるって噂の……ふふっ、噂なんてここには届かないけど、左右田のコミュニティに行って新しい人類の話をするつもりだ。そこまでたどり着ければだけどね

 ……うーん、あとは、どうしてこんなことをするのかって話をしようかな。

 笹美研究所はアポカリプスの最中に建てられた幾つかの研究所のひとつで、人類滅亡に抗おうとしていた。ここでは人類のハードウェアの強化や、共生バクテリアの多機能化なんかが研究されていたみたい。伝聞調なのは、ぼくはここで生まれてから雑用ばっかりで、ちゃんとした研究には関わっていなかったから。みんな一流の研究者で、ストレス発散の行為で生まれた子供にかかずらっている余裕は無かったわけだな。

 ……かわいそうだと思うけど、イチコ……ここのAIが親代わりでさ。博識だし優しいし、寂しくはなかったよ。……はは、ありがとうございます、だってさ。

 研究の内容が変わって来たのは、きっと何人かの研究者が逃げ出してからだな。残った人たちの顔は、あれが狂気って顔でさ。研究を止める人や、引きこもる人なんかもいた。そのなかで、一人だけ研究を続けてる人がいて、ぼくはその協力をしていたんだけど、もうこれが滅茶苦茶な感じでさ。……それを何年続けたかな。ある時、そのおじいさんが、これが人類を滅ぼすバクテリアだぁ!って叫んだのさ。

 次の日、そのおじいさんが死んでしまって、ぼくは一人になった。ああ、みんなアポカリプスを味わってきた人たちだったから、相当な高齢だったんだ。そのおじいさん以外は、いつの間にか部屋でぶら下がってたり、腐ってたりしてた。

 ぼくは……たしか二年くらいかな、のんびりと研究を引き継ぎながら一人で暮らしていた。引き継いだとはいっても、造形機で赤ん坊を作ろうとしたり、バクテリアを培養したりだ。

 ぼくは……たしか二年くらいかな、のんびりと研究を引き継ぎながら一人で暮らしていた。引き継いだとはいっても、造形機で赤ん坊を作ろうとしたり、バクテリアを培養したりだ。

 でも、このままじゃいけないと思った。ここの人たちは本当に長い間ひっそりと研究を続けて、それが誰にも知られずにぼくと一緒に消えてしまうのは、ちょっとあんまりだなって。

 研究データそのものは、ほとんど消去されてしまったから残されてない。伝えられるのは、この現物だけだ。……ぼくは、このシリンダーを外の人たちに渡そうと思う。回収するまでは、これが劇毒だなんて教えない。ぼくは、あのおじいさんのすごい目つきを覚えてる。人類を滅ぼすってさ……。

 滅ぼす。滅ぼすか。何だろうね、それって。滅んだら誰が困る?みんな、モノだ。形は変わっていくものだ。でも、なら、滅ぼそうが滅ぼすまいが同じじゃないか?――だから、問題は信号だ。人類を滅ぼしたいと思うほどの信号が、そしてその明瞭な形がここにあったと、それを伝えるべきなんだ。

 あああ、また余計なことを喋ってしまった。もう言うべきことは無い。

 以上。……かな』

20.帰還

 塗装の剥げ落ちた鳥居の上を滑りこむように駆け抜け、ブナの樹に飛び移ると枝を撓らせて着地する。柔らかな砂と足の間で一瞬だけエネルギーを滞留させると、バネのように地を蹴り、スティール製の柵を飛び石にして、隣家の窓枠に縋りつく。

 そのまま屋上まで躰を持ち上げると、遠くで屋根やベランダを跳び渡るユーリの姿が見えた。その動きのサイクルは子供ならではの小ささ、軽やさがある。植物園や『オキバ』でも十分凄まじい運動能力だったが、そこから険が取れたようにドラスティックな動きに変わっている。

 スクルの背で半導体インゴットの入った袋が揺れる。バイクと引き換えに偏屈なゲート外の友人から押し付けられた品物だったが、いささか重荷になっていた。

 スクルは屋上を駆け、屋根を跳びながら徐々にユーリと距離を詰める。ユーリもまたそれに気づいて応じる。二人が走る隣り合う家の前方には廃ビルがそそり立つ。スクルは2mほどの隙間を一息にジャンプし、爆ぜ割れた窓に手を掛ける。背の袋を突き出すように、背筋に力を込める。直後、ユーリがその背に跳びつき、足場にして、さらに上階の窓に躰を潜り込ませた。

 スクルは上空を見る。曇天が拡がっている。そこへ、上階の窓からユーリがひょっこりと顔を出し、手を伸ばした。スクルは柔軟なロープじみた手を借り、一階飛ばしでユーリの上の階に辿り着く。そうやって手を貸し合い、二人はビルの屋上に上がった。風が肌を撫でる。

「夢野が見えて来たな」

「うん」

 応じたユーリの背部アタッチメントにも半導体インゴットを収めた袋が揺れている。

「ちょっと遠回りになるが、このまま西ゲートまで行く。この時間なら知り合いが勤めてるから、市内の情報を色々と仕入れる。お互い、場合によっちゃ帰り次第、刺客が待ち受けてるってのもあり得るからな」

「わかった。なるべく早く弾丸も補充しなきゃ」

「それなら大丈夫だ。それぞれのゲート付近にいざという時のマガジンを隠してある」

「一人でそこまでやってるの?面倒じゃない?」

「付き合いが長い連中と、互助会ってほどじゃないが、色々備えているのさ。食糧もある」

「すごいな」

 ユーリは無表情で呟いた。スクルは自慢げに笑った。

 廃ビルから、隣接するショッピングセンターの屋上に掛けられた橋を渡り、再び二人は廃墟を駆け抜ける。

 辿り着いた団地の一室、天井パネルを外して取り出したマガジンを仕舞い、レーションを頬張ると、屋上へと向かう。そこはすでに西ゲートに通ずる巨大なダムじみて連なる団地の中だ。

『住みやすい街№1』の看板を渡り、西ゲートまでたどり着く。フェンスの前でパイプスツールに腰かけていたカザンが眼を丸くする。

「スクルゥ!死んだと思ってたぜ」

「一回死んだくらいじゃ死なないぜ」

 カザンは顔の半分を口にして笑ったが、スクルの横にちょこんと立っているユーリに気付いた?

「娘さん?」

「ちげぇよ」

「『灯浪会』のベクターで、ユーリと言います」ユーリが言った。

「ほ!『灯浪会』……とするとアレか。笹美の辺りに行ったメンバーか。じゃあやっぱりスクルがあそこに行った夢野のベクターだったわけだな」

「何だ?有名になっているのか?」

 その時、地上から叫びが聞こえた。思わず下方を覗き込んだスクルは、そこに人だかりを見出した。フェンスゲートの内ではない。外側だ。

「ああ、あれはついさっきここに来た連中でなぁ。『R・I・P』の領地から逃げ出してきたらしい」カザンが言った。

「ああ、たどり着けたのか。あいつら」

「何だ?あれにもお前が関わってるのか?良く飽きないな」

「人助けは高尚な趣味だ。夢野でくすぶっている男にゃ解るまい」

「ふふん。また口だけスランプに罹っていたようだったが、今回は立ち直りが早かったじゃないか」

「口だけじゃねぇよ。ちゃんとスランプだった。お前の脚を撃った時みたいにな」

「ははは殺してやりたいぜ」

「おかげで生きてのんびり守衛が出来てるんだから感謝してもらわにゃ」

 スクルは肩をすくめた。カザンはスクルを団地から突き落とす仕草をした。

「くふふ。んで、さっきの『灯浪会』だの、笹美だのの話はどうなんだ?オレたち有名人?」スクルが言った。

「あれか。……んー。クロウさんに訊いた方が早いかもな。お前のこと探してたし、オレが話を聞いたのはあの人からだ」

「そうか。……市内に入ってすぐ撃たれるってことはなさそうか?」

「誰がお前を殺せるんだ?」カザンは笑った。「むしろお前に味方する奴の方が多いだろう。偽の依頼を受けて帰ってこなかったんだからな」

「そうか。ありがとう。助かったよ」

「ああ。気にするな。お嬢ちゃんも、またな」

 二人はゲートを抜け、階段を降りる。スクルはガントレットを取り外し、丸めて腰に仕舞う。懐かしい喧噪が分厚いドアを通して伝わる。スクルはノブを捻った。

 凄まじい人波――はしかし、ドアからは少し離れた地点で堰き止められていた。フェンスの側に近寄らないように、『灯浪会』の面々が人々を制していた。それを尻目にスクルは二重のフェンスに近寄る。外側のフェンスからは抗議の声が響き渡る。

「あ!あんた、無事だったのか!」

 フェンスの外から、スクルに呼びかける者がいた。

「おう、あんたたちか。そっちも無事で良かった」

 スクルは応じた。『オキバ』から逃げた者たちの内、最後まで残っていた男だ。

「スクル?」もう一つ、フェンスに手を掛けた人影。「入れてくれない?ここ」

 カミラだった。破れたツナギの内からは、スクルに負けず劣らず傷だらけ、血だらけなのが垣間見える。

「カミラ!」スクルは笑みを向けた。「おい、そこの『灯浪会』のあんた!ちょっといいか!」

 スクルは二重のフェンスの丁度間の領域で避難者たちの相手をしていた男を呼びつけた。男は、会話の内容からスクルが外の連中の関係者だと気付いたらしく、煩わしそうにしながらも近づいて来る。

「その女だけこちらに入れてやってくれないか?」

「無理だ。ここはゲートだぞ!」

「その人は左右田のベクターで、仲間に裏切られて笹美で敵に襲撃されたんだ。俺もその現場にいた。証人として必要なんだ」

 スクルは自分たちのことが噂として広まっているらしいことを利用した。

「何?笹美にいた……あんたが夢野のベクターか」だが、男の口調は吐き捨てる様だった。「『灯浪会』のベクターが何人死んだと思っている?そもそもお前が依頼など受けなければ……」

「あの」その時、スクルの背からユーリが進み出てきた。

「ぼくは、その笹美に行った『灯浪会』の一人です。……『灯浪会』のベクターが死んだと伝わっているということは、タスケさんか、ソノダさんが帰って来たのですね?」

 男は眼を丸くした。「ああ、タスケが帰ってきた。……君みたいな子供がベクターか」

『灯浪会』の人間とはいえ、全員顔見知りという訳では無いようだ。

「はい。その女性を通してあげてくれませんか?ヨースケさんにはぼくから話をしておきます」

 男は少し思案した後、頷いた。「君が噂の子だったか。わかった。ヨースケさんには言っておいてくれよ」

 男は周囲の他の『灯浪会』構成員を退け、フェンスの一画を開けた。構成員たちは油断なくライフルを構えている。カミラが一歩、二歩、フェンスをくぐって進む。

「あ……。みんなを入れてもらえるよう掛け合ってくる!待っていて!」

 カミラは後ろの難民たちに向けて叫んだ。だが、そこでカミラの背後に追い縋る影。

「あたしを置いていくの!?」

 カミラの言葉にいの一番に反応したのは、丸眼鏡の男――確かカンジとかいう男だ。男の背には難民たちの鋭い眼差しが突き刺さっていた。ヤマザキの配下にいた男である。当然、奴隷扱いされてきた人々からの心象は良くないのだろう。

 カミラがフェンスを抜けた。スクルはウィンクした。

「ありがとう……。その、『オキバ』にいたんだね」そう言った後、カミラはユーリを見た。「……あれ?どうして、その子がここに?赤ん坊を持ち帰ったんじゃ……」

 カミラはユーリに赤子を奪われたのだ。その後、シリンダーがムヘンコーヤに再度奪われたとは知らない。

「ま、積もる話は後だ。まずは、どっかで治療せにゃ」

 三人が西ゲート街に分け入ると、さっと人波が退いた。三人の纏う空気が明らかに修羅場を乗り越えてきた者たちのものだと解るのだろう。

「ゲノサメの皮が入荷!おろし金にもスーツにも!」

「北方の工場戦で確保されたタレット!一家に一台!」

 威勢の良い商いの声を両側に、通りを進んでいると、その一画に影のように凝るスポーツカーを見出した。その横には、見知った人影。

「クロウさん。……探していました」

「無事だったか。まずは乗車してくれ。全員乗ってくれて構わん」

 スポーツカーの後部座席に三人は詰め込まれるように乗った。クロウは助手席だ。

「酷い臭いだな。……第二ベクター・クリニックに向かってくれ」そう言いながら、クロウは窓を開けた。ベクター・クリニックには温泉もあったはずだ。スクルは安堵の息を漏らした。

「まずは、無事でよかった。そして、不当な依頼を君に渡したことを謝罪する。すまなかった」

「クロウさんのせいじゃないでしょう。たぶん」スクルは言った。「それよりも、現状を把握したい。オレたちの身は安全なんでしょうか?」

「再発防止策はまた改めて伝える」クロウが言った。「スクルについては、身の危険は無いと考えて問題ない。そもそもテンカイとカゲユキの目的は左右田のベクターの一掃で、スクルは標的ではなかったようだ。左右田のベクターの件についても、すでにカゲユキは行方知れずになっていて実質的には無効だ」

「行方不明?」カミラが訝し気に言った。

「……左右田のベクターがそもそもどういう計画を立てていたか、君の口から説明してもらっても良いかな?」クロウが流し目で後部座席を見据えた。その光線のような眼差しにカミラがたじろぐ。

「……私たちは赤子を回収するために、夢野のベクターの協力を必要とした。だから、テンカイに伝手のあったカゲユキが交渉して、スクルを貸し出してもらった」

「光栄だね」スクルは笑った。

「赤子を回収した後……私たちは左右田に帰還する予定だった。テンカイの噂は聞いていたから、彼に新人類を渡すわけにはいかなかった」

「そういうこと……。随分危険な橋を渡ったな。下手すりゃ全面戦争だった」

「テンカイはあまり赤子の獲得には乗り気じゃないという話だったから、できると思った」

「それはカゲユキの嘘だろうな」クロウが言った。「テンカイはむしろ赤子に過大な期待を掛けていた。――赤子はテンカイに雇われたムヘンコーヤの手で夢野に持ち込まれた」

「そう……」カミラが沈痛に呟いた。

「――そして、赤子がただの肉の塊だと知った時、その失望の矛先はカゲユキに向いた」

「え?」「あン?」

「あれは蛋白質の層を重ねた肉塊だったんだよ。そもそも新人類の死体ですら無かった。その上、極めて危険なバクテリアが収まっているそうだ。カゲユキはその責を取らされて、ムヘンコーヤに追われている」

「オレたちゃとんでもないものを持ち出しちまったわけだ」

 スクルは笑ったが、カミラは愕然としていた。――いや、しばらくすると肩を揺らし始めた。

「こんな……何もかも嘘っぱちだったわけね。ふふふ。ふざけてる」

 カミラの眼は、クロウの眼差しに負けないほどの力強い意志を宿していた。

「そのバクテリアは、現在タワーで厳重に保管されているが、その処理についてはまだまだ時間が掛かる。――我々の所持しているセンサでは、シリンダーの外からバクテリアの有害性を検証することはできていない。だから、本当に危険なものなのかもわかっていないし、どの程度の被害を及ぼすかもわかっていないというのが現状だ」

 車内には沈黙が重たく圧し掛かった。だが、それは戦意と憤怒によって焼き固められた意志によるものであったろう。

「君たちはこの後どうするんだ?この後というのは、治療の後だが」クロウが沈黙を物ともせずに言った。

「オレはテンカイの面を拝んできますよ。もちろん『ガンマ』にも訴え出ますがね」

「ぼくは一端帰ります。ぼくが起こした事件の話もあるだろうし……お母さんの葬儀もしなきゃ」

 スクルはちらとユーリを窺った。ユーリの瞳にも澄んだ意志が感じられた。

「アタシは」カミラが言った。「カゲユキのヤツを仕留める」

 スクルは微笑んだ。「場合によっちゃ、力を貸すぜ」

「ありがとう」カミラもまた微笑み返した。

「そうか。私も必要であれば力を貸そう。『エンジニア』の勢力争いに先鞭をつける意味でも、君たちの敵対関係に介入できるのは有用そうだ」

 クロウは真顔で言った。

「そういえば、スクル。ガントレットの件はどうする?引き金を重くして欲しいというのは技術に伝えておいたが……」

「ああ、あれですか」スクルは苦笑した。「もう大丈夫です。まさに、吹っ切れたって感じです」

 スクルは言った。窓の外を夢野の街並みが過ぎ去っていく。

 心は地平線の果てまで見通せるほどフラットになっていた。ただただ走るのに夢中で、絡みつく重しのことなど忘れていた。

 窓には社内のユーリとカミラの顔が薄く反射している。

 スクルはしばらくの間、窓が映す光景を眺め続けていた。

21.密談

 松明の揺らめく炎だけが点々と灯る通路を人影が歩んでいた。炎は人のよさそうな頬の歪みと、残忍極まる捕食者の笑みを綯い交ぜにして照らし出す。

 通路は、かつて暗渠だったとは信じられないほど清掃を重ねられていたが、それはそいつにとって塹壕や坑道じみて敗者の往く道行きに感じられた。

 ガンギはそういう感性の男だった。

 だから、このような裏取引は望むところではなく、全面戦争の最前線に立つ将でありたいというのが本音だったが――一方で、彼は無自覚にそういった陰湿な方法を好んでもいた。

 あるところで、炎が一点だけ欠けていた。そこに重厚な鉄の扉があった。どこからか見ていたのか、ガチャリと音がして鍵が外れたようだった。

 ガンギは扉を開ける。またしばらく松明と暗い道が続いた。

 そして再び扉に辿り着いて開けると……異様な空間が広がっていた。

 一面煉瓦造りの壁にはガス灯じみた仄かな灯りが揺れ、部屋の各所に並ぶ円形の木製テーブルとスツールに柔らかな陰影を生んでいた。そして、正面には……バーカウンターだ。凄まじい存在感を放つバーテンはガンギに気付いていないかのように、グラスを磨いている。

「こちらだ」

 ――部屋の隅。暗がりの席に三人の男が座っていた。そして、その足元に犬じみて身を縮こまらせる男。

 ガンギは慎重に近づき、一気にどかっとスツールに腰かけた。

 その様子を見て、ガスマスクの男――ムヘンコーヤが肩を揺らした。

「ナメられてはヤクザ商売が立ちゆかぬものな。だが、安心するが良い。ここに部外者の目はない」

「……ここは一体なんなんですかねぇ」

 ガンキはムヘンコーヤをまっすぐに見つめながら言った。ガンギは『灯浪会』構成員として警邏の時代から夢野市を駆けずり回ってきた男だが、このような隠れ家の存在などついぞ知らなかった。

「『ガンマ』の提供する密談、取引、荷物保管などに使用できる隠れ家だ。上位ランカーや一部のベクターにだけ存在が知らされている」

「……あんな公正でございって顔した連中が自治会に黙ってこんな所を用意しているとは思いませんわな」

「『ガンマ』の前身となる組織は、テンカイの訓練施設だけではない。むしろ、この夢野が生まれる前の荒野から存在した闇の運び屋組合がその基幹部にあるのだ。彼らは自治会の意向など全く気にしていまい……」

 ガンギはバーテンをちらりと窺った。あれも、その闇の組織の人間だと言うのだろうか。確かに『灯浪会』でもほとんど見かけないほどの闘士の気配があった。

「ははぁ……それで、約束のものは渡してもらえるんですかいね」

「目の前にいるだろう」

 ムヘンコーヤは隣の席に座っていた男――フードで顔が見えなかった――を示した。男が顔を上げる。

「おお、おお!バイスくんじゃない!テンカイとヨースケの間を行ったり来たりしていた小鳥が、こんな地下で囚われの身とは!」

 猿轡をはめられたバイスは憎々しげな眼差しをガンギに向けた。テンカイの秘書であるこの男は、表向きは『灯浪会』でも憎悪の的になっているが、その実ヨースケの手配したスパイなのだ。その自己犠牲的な在り方が、この場合にヨースケ達を、『灯浪会』の簒奪者を追い詰める爆弾に変じるのだ……。ガンギは舌なめづりしたいほどだった。

「それで、そちらは予定通り動いてくれるのかな?」ムヘンコーヤが訊ねた。

「無論、無論!というより、このバイスくんが最後のピースですわ。緻密な計画より、一個の爆弾のほうが物事を容易く動かせるというもんですな」

 ガンギはふひひと不気味な笑いを漏らした。

「あんたは」テーブルについていたもう一つの影が初めて喋った。「あんたはこの計画がどういう結末になるかちゃんと理解しているのか?」

「もちろん理解していますよ……カゲユキさん。まぁでも、せっかくだし改めて虐殺紳士殿の口から聞きましょうかね」

 ガンギはカゲユキと見つめ合った後、テーブルの下に身を伏せる影を見遣った。ガンキの下にこの計画の手紙を持ってきたのは、その男――ドギーだ。実際犬じみた男だった。

「構わん」ムヘンコーヤはテーブルに手を組んだ。

 ――ムヘンコーヤの演説は、あの溝呂木マンションの屋上でカゲユキにぶったのと同じものを、いくらか具体的にしたものだった。すなわち、バイオ兵器による夢野の崩壊、ひいては世界の滅亡である。あまりにも話が大きいが、ムヘンコーヤの目指しているものが真の虚無であるというのならば、それでも小さく表現しているくらいだろう。

「うんうん。やっぱりそういうことよな」ガンギは平然として頷いている。

「……あんたも虚無主義者かい」カゲユキは呻いた。

「うん?彼の目的はそのバクテリアの散布だろう?なら構わんさ。存分にやると良い」

「確かに実証はされてないが、とんでもない感染力だと言うぞ」

「……我々はアポカリプスを生き延び、この偉大な都市を再建してきたんだよ?今更バクテリア風情がなんだというんだ」

 ガンギはからからと笑う。カゲユキはその意図を掴みかねる。

「バクテリアの散布と世界の滅亡はイコールではない。……我々『灯浪会』は――いや旧世代から続く由緒ある自警団は来たるべき第五の破滅にも備えてきたんだ。むしろこれは贅肉を処理する好奇だよ。そう考えても構わんだろう?」

 ガンギはムヘンコーヤを窺う。

「――好きにすると良い」感情の籠らない返答は、どの道皆殺しにするから関係はないと言っているかのようだった。ガンギは残忍に笑った。

 ――この街の人間はどうなっているんだ。

 カゲユキの心は暗澹たるものだった。ご立派な大義に酔った左右田の連中と縁を切り、この荒野を生きるに相応しい夢野に職を得る――そういう計画だった。だが、その希望は断たれた。頼みの綱のテンカイには手を切られ、左右田にはもはや帰れない。その上、己の命運を握るのは恐るべき破滅主義者ムヘンコーヤであり、計画を完遂すればカゲユキに待っているのはバイオ兵器による死だ。

 ――オレはあきらめんぞ。

 カゲユキは慎重にムヘンコーヤとガンギのやり取りを見つめる。

「ふむ。では、バイスくんは頂いていくよ。また決行日に会おう」

「了解した。共に破滅を見届けよう」

 ガンギは答えず、手枷を嵌められたバイスを引っ立てていく。バイスの縋るような瞳がカゲユキの無表情を撫でた。

 ガンギが密会所から出ると、カゲユキも静かにラウンジに戻っていった。その瞳には絶望ではなく、思慮を巡らす深い昏さがあった。

 ――ムヘンコーヤはドギーの背を撫でる。

「オフッ、アフフ、フフ」ドギーはうれしげに声を上げる。

 その目は虚無に爛々と輝いて、どこか遠くを見据えている。

 ムヘンコーヤはそれを覗き込んで満足げに頷くと、ドギーと同じ、どこにもない場所を見上げた。

22.宣戦布告

 かつては街の名物として名を馳せた夢野ホテルは、現在では『エンジニア』や『ガンマ』の上層部、あるいは自治会を運営する官僚たちなど、夢野市の名士たちが住む高層マンションと化している。

 その中でも最高級の広々とした部屋で、ソファに身を沈めて本を読むのはテンカイだ。部屋に電灯はついておらず、横一面の窓ガラスが陽光を取り込んでいた。その顔は、タワーで動転した時のような憤怒や失望からすでに立ち直り、普段の昏い眼差しを湛えている。

 人々の営みから最も遠い場所で、テンカイは静かに読書を続ける――その時、ジャッとトイレの流れる音がした。

 テンカイは顔を上げる。給仕たちは同階の別の部屋を与え、呼ぶまでは決して部屋に入ってこない。では誰が?そうした警戒も浮かんだが、それよりも静かな部屋に響く水流の音は、彼にアポカリプス以前の妻との短い生活を思い起こさせた。

 ガチャリ、とトイレのドアが開く音がする。

 テンカイは本にしおりを挟み、静かに置いた。眼鏡を外す。

「ふぅ~。夢野のどこでこんな良いトイレットペーパーを造ってるんです?まさか外から持ってきた紙類じゃないだろうし……こんな時代でも、あるとこにはあるもんですね」

 そう言いながら現れたのは……

「……スクル」

「お久しぶりです。テンカイさん」スクルは挑戦的に笑みながら、テンカイの向かいのソファにどっかと腰かけた。

「なぜここにいる?不法侵入だぞ」

「ベクターですからね」スクルの返事は答えになっていない。「不法、不正、まったくお互い様ですな」

「私がここのセキュリティに連絡すれば生きては帰れまい。君が何かイニシアチブを握っているなどと思うなよ」

「あんたご自慢のタワーのセキュリティに比べればなんてことない。生きて帰らせてもらうつもりですよ」

 スクルは飄々としたものだ。

「……何の用で来た」

「わかってるくせにぃ。……なんだってベクターをだますなんてナメた真似したかってことですよ」

 テンカイは躰を起こした。

「カゲユキとの交換条件だ。新人類の赤子を独占するため、左右田の連中を滅ぼしておくのは理に適っているとも考えた。だからムヘンコーヤに依頼を出した。……君への依頼が不正なものだったのは、それを現地で伝えることで、まかり間違っても左右田の連中に赤子を渡させないためだった」

「ハッ!どうせオレも左右田の連中と始末するつもりだったんでしょう。誰も訴えでなければそのまま闇の中だ」

 テンカイはスクルを睨み付けた。

「まぁいいです。追って『ガンマ』から沙汰が下ると思いますよ」スクルが言った。

「それにしても、なんだって新人類なんてものを手に入れようとしたんです。いつもの抽象的な思想の話はやめてくださいよ」

「……過去と断たれた我々にはもはや文明を再起する力などない。ただ、アポカリプス以前から連綿と続いて来た意志だけが、それを繋げるのだ。赤子も、積層造形機も、ベクターでさえそういう存在だろう」

連綿と続いて来たってんなら、人間の生ってやつがそうだろ。はん。また思想の話だ」スクルは鼻を鳴らした。

 と、その時。内線電話がけたたましい音を立てた。スクルが促すと、テンカイは憤然と受話器を取った。

『テンカイ様、お客様です』

「アポイントメントは無いはずだ」

 まさにアポイントメントが無い侵入者を前にして、テンカイはなおのこと腹を立たせる。

『あ、いえ、ムヘンコーヤ様がお越しです』

「それを先に言え。通せ」テンカイは受話器を戻した。

「お客さんかい?おいとましようか?」

 スクルがせせら笑った。テンカイはニヤリと笑う。

「おまえにとって、良い思い出の相手ではない」

 ドアがノックされた。「入れ」テンカイの呼びかけに、ドアが開く。

 ツカツカと後ろ手で入室してきた人影に、スクルは目を丸くする。

「ただいま帰還致しました」

 虐殺紳士は、その異名通りに慇懃な仕草でテンカイに礼をした。

「遅かったな。左右田最強のベクターは愉しめたか?」

 テンカイは片方の口角を歪めて笑った。だが、ムヘンコーヤはそれに答えず、都市を一望できる窓ガラスの前まで黙って移動した。青空を背にして、その輪郭はまさに影だ。

「……どうした」

 テンカイはその様子に何か不穏なものを感じ取った。

「夢野市。このアポカリプス後の廃墟に燦然と立つ偉大な都市です」ムヘンコーヤは独り言かのように言いながら、窓に手を這わせた。義肢は指紋を残さず、宙に浮いているかのように滑る。

「――その偉大さが、もう一度虚無に還る。そんなところが見たいとは思いませんか」

「な――何を言っている?」

 テンカイが狼狽する。ムヘンコーヤは、彼にとって恐るべき戦士でも、虐殺者でもなく、常に忠実なベクターだった。それが、命令以外の何をしようというのか?

「私は常に貴方の思想……いや感傷には疑問を抱いていました。過去から連綿と繋がってきた歴史、文化、技術……それは世界の皮相に人が敷いた手織物に過ぎません。美しいですが……それだけだ。真に価値があるのは、その裏、その内で世界開闢からそこに存在した虚無です。いや、存在すら浮き立たせるほどの絶対的な暗黒……」

 ガスマスクのゴーグルが青空を映す。

「私は、ドギーとカゲユキ、二人の使徒と共にあの赤子を頂こうと思っています。それを夢野にばらまき、文明と歴史の一つの終焉を見届けます。いささか不格好なアポカリプスの続きということになるでしょうか」

 ――沈黙。だが、直後。

「あっははははははは!」スクルが大笑いした!「あっは!こりゃ良い!オレたちが研究所から持ち帰ったものを、これ以上ないほど有用に使える奴がいたわけだ!いや、半分はあんたが運んだんだから、共同作業か……」

「何を笑っている!?」テンカイが激昂した。

「スクル!貴様にも理解できるのか?我々が真に天頂に戴くべき虚無の暗黒を!」

「できるかそんなもん」スクルは吐き捨てるように言った。「その“信仰”は理解したが、同意も共感もしない。滅ぼしてどうするってんだ」

「それが本来の姿だった」

「だから良いってわけじゃないだろうが」

「私にとっては良い。理解して、与するかどうか尋ねたかっただけだ。同意も共感も求めていない」

「なら、あんたが滅ぼされるだけだぜ。……滅んだあとの世界を空想するだけじゃいけないのかね」

 そういった時だけ、スクルは少し寂しそうにした。

「世界と私は繋がっている。すべて滅ぼさなければならない」

「そうかい」

 二人の応酬の横で、テンカイは腰を抜かしていた。何か、恐ろしい世界の一相が眼の前に突然表出したようだった。……こいつらは一体何を話している?

「では、テンカイ様。今宵、最後の晩餐をどうぞお楽しみください。……今日までお世話になりました」

 ムヘンコーヤはただ退職を告げたかのように軽やかに踵を返した。後にはすでに世界が終わったかのような沈黙が残された。

「……ま、さっきも言った気がするが、タワーのセキュリティはそうそう簡単にゃ抜けない。今からムヘンコーヤを指名手配しときゃ、ヤツはそうそう簡単には侵入できないだろう。あんたが一番詳しいだろうがな」

 スクルは天井を見上げて呟いた。どこか弔辞じみていた。

「な……あ!」テンカイは我に返った。「ヤツを追えッ!何をしているッ!」

「何をしているって……ソファで休憩している?」

「ふざけるなッ!奴はタワーのセキュリティなど意に介さないだろう。私が育てたベクターの中でも間違いなく最強の男だ。今すぐに止めなければならない!」

「確かに、止めないとまずそうですね」

「何を……他人事ではないのだぞ!」

「他人事ですよ……今度こそ、正式に依頼してくれるまでね」

 スクルはニッと笑った。テンカイはたじろぐ。

「他のAランカーに依頼してもいいでしょうが……あの虐殺紳士相手の依頼を受けてくれるか。いや、そもそも『ガンマ』を謀って偽の依頼を出したような男の依頼を受けてくれるか……」

 スクルが捲し立てるように言った。テンカイは顔を真っ赤にした。

23.遊離する生

 白雲がまだらに散った青空を見上げ、ユーリはタバコを吸った。

 ――母は1000℃の炎で焼かれ、黒々とした骨の破片となった。ヨースケは細かい作法を気にしたが、ユーリは骨片をかき集めて真っ白な包装のされた木箱にしまうと、ビニールひもで包んで手さげ状にした。

 誰もいない丘を見つけて、そこに埋めるつもりだ。

「……オレは、反対だな」

「どうしてですか?」

 葬儀場での会話だ。

「『灯浪会』の墓地か、せめて夢野の共同墓地に埋めるべきだと思う……。ミナモさんを大きな輪の中に還してあげたい」

「死んだら還る場所なんてありません。生きているうちにそうするべきだったんです」

 ユーリの思いのほか強い口調に、ヨースケはたじろいだ。

 ――骨箱を片手に、空に溶けるタバコの白煙を目で追う。それはあっという間に消えて、もう元のパターンを再現することはない。

「終わったの?」

 視軸を下げれば、葬儀場前のアスファルト広場が拡がる。そこへ真っ黒なツナギの女性――カミラがやって来た。不正に入市した左右田のベクターという都合上、現在は『灯浪会』に身を寄せることで限定的に活動を許可されている。

「うん」

「大変だね。……これからは誰かに面倒を見てもらうの?」

「しばらくは『灯浪会』で面倒を見てもらうことになると思うけど、近いうちに『ガンマ』のベクターとして正式に登録したいな」

「スクルの影響?」

 ――カミラは微笑んだ。シリンダーをこの少女に奪われたことへの怒りや不満は、すでにカミラの内には無かった。スクルの全くもってドライな感覚の影響もあったし、度重なる裏切りによって、この事態自体にいささか滑稽味を感じていたこともあった。さらにはユーリの生い立ちを聞くに及んで、むしろ同情心が勝るようになっていた。

「うん。スクルの自由さはすごいと思うから」ユーリはてらいなく言った。

「あはは。ヨースケさんより頼りになる?」

「え?……うーん。ベクターとしてなら、そうかな」ユーリは少し考えた後、言った。

 二人はアスファルトに座り込んだ。

「あの赤ん坊。ものすごい兵器なんだってね」カミラは言った。

「正確には、シリンダーに封入されているバクテリアが危険みたい」

「そうね。あれだけ助けようとした赤ちゃんが、実際にはただの肉塊で、その上、夢野を滅ぼせるくらいの兵器を内蔵してるなんて……」カミラは乾いた笑いを漏らした。

「あのバクテリアを造った人は何を考えていたんだろう」ユーリが言った。

 二人はクロウから、サイダ博士の遺言を聞かされている。

「あんな狭い研究所に何十年もいたら、強迫観念的なものに衝き動かされちゃうのかもね」

「そういうことなのかな……。サイダ博士はどうだったんだろう?」

「あの音声からすると、そういう破滅的な遺志を伝えたかったってところなのかな」

 カミラは左右田にやってきたボロボロのサイダ博士を目撃している。その姿は、音声データの最初辺りの飄々としたものとも違ったし、その最後の思いつめたような、どこか独り言のようなものとも違っていた。あの時のサイダ博士は、ただ憔悴し、疲弊していた。

「……あそこで行われていた研究や、それをアポカリプス下で行っていた研究者たちの意志。それに逃げ出した人たち。色々なことがあったと思うのに、伝えようとしたのが破滅だけだったって、虚しいな」カミラは言った。

「そういう想像はできるね」ユーリが言った。「音声データを残してくれたおかげだ。――サイダ博士は、自分が何をしたいのか解っていたのかな。生きていれば聞くことはできただろうけど、それが砲塔にしたいことかどうかって本人に証明できるのかな」

「口にしたことを信じるしかないよ。アタシたちにはそれしかできない」

「そうかも」ユーリは呟くように言った。「もう一つ。サイダ博士が、怪我をしてでも左右田の人たちにあのシリンダーの存在を伝えたこと。これも事実だね」

「うん」カミラは微笑んだ。

 二人は縮こまっていた姿勢を変え、空を見上げた。

「お。いたいた!」

 その時、声が聴こえた。スクルだ。振り返ると――葬儀場の屋根の上に立っている。

「なにしてんの」

「跳んできたんだよ」スクルが笑った。「ちょっと二人に面白い話を持ってきた」

 カミラとユーリは立ち上がった。

 スクルは屋根の上で両手を腰に当てて、言った。

「これから、オレと世界を救わないか?」

24.電撃戦

 タワー。『エンジニア』の総本山にして、数多の工業品を送り出す夢野の心臓。七つのビルを鉄橋や重機の残骸で織り成すように結んだ巨大構造。その低階層部は土台かドームのような一つの構造で接続され、東西南北の厳重なセキュリティゲートで侵入者を阻む。

 今、タワーは魔界の塔のような有り様であった。曇天の下、ゲノカラスはいつにも増して慌ただしくタワーを周回し、塔の根元では無数の人々が天まで届けと怒声を張り上げている。人波から突き上がる旗やプラカードは無数の武器のようであった。

 その様子を見ながら、カミラはタワーのセキュリティカードをへし折った。

「もったいないんじゃないか?落ち着いたら再登録してもらえるかもしれない」

 スクルが言った。ユーリは黙って二人の様子を見ていた。

 三人がいるのはタワー東ゲート前の商業ビルの屋上だった。……ムヘンコーヤのタワー襲撃に備えるためである。スクル以外にも、クロウによって雇われたベクターが他のゲートにも備えていたが、スクルはこの東ゲートが最も襲撃の可能性が高いと考えていた。当初はタワーの内側、セキュリティの一員として防衛に当たるはずだったのだが、テンカイを除く『エンジニア』首脳部はバイオ兵器の防衛について、余所者を全く信用していなかった。

「自分で取り戻す」

 カミラはカードの破片を投げ捨てた。スクルの脳裏に、出会った当初、颯爽とタワーのゲートを抜けていったカミラの姿が蘇った。

 タワーの前の道路には『灯浪会』を始めとした人々のデモ隊がみっしりと詰まり、『エンジニア』の社員は出入りすることすらできまい。これほどの人が集まったのは、以前から各新聞社や街頭インフルエンサーがテンカイの専横について批判していた効果が、『灯浪会』の思惑と重なった形だろう。

「ムヘンコーヤが攻めてくるのはここであってるの?」カミラが訊ねる。

「どうだろうな」スクルは顎を撫でた。「見ろ」

 スクルが指差した先にはデモ隊の中でも特に意気軒高な集団――『灯浪会』の面々がいた。さらに、彼らの内の一部はアラミド繊維製のシールドを威圧的に構え、臨戦態勢を整えている。

「……あのシールドでタワーのセキュリティを突破できる?」

「ゲートはタレットや屈強な警備員に守られていて盾だけではどうにもならない。だが、盾持ちが他のゲートと比べてかなり多い。これは使えるぜ。例えば煽り立てられた群衆が盾持ちを先頭にしてゲートまで突っ込んだら……それに紛れて侵入するのは容易だろうな」

「そう……」

 カミラはデモ隊に狩人のような眼光を注いでいる。スクルがホテルで出会ったムヘンコーヤの話では、カゲユキも彼の配下に加わっているようだった。

 スクルはユーリのほうを窺った。ユーリは普段と同じように、ほとんど表情を変えずに群衆を見下ろしている。――その眼差しはデモ隊の先頭に垣間見えるヨースケの後ろ姿を追っていた。

 ――ヨースケはデモ隊の先頭でタワーのセキュリティ達と睨み合っていた。

 実際の所、ヨースケはデモ隊がこれほどの規模になるとは考えていなかった。無論、人が多ければ多いほどセンセーショナルで、各区画や独立共同体の代表者を、ひいては自治会を動かすことが容易くなるだろう。だが、制御できないほど人数が増えるのは本意ではない。怪我人が出れば、『灯浪会』が責任を取ると公言している。

 これほど人が増えたのは、旧派閥の人間たちが突然このデモに参加すると言い出したためだ。いま、『灯浪会』はなし崩し的に一枚岩となって行動している。

「テンカイの専横を許すなー!」

「私たちの夢野を独占するなー!」

 一致団結した声の衝撃を真っ向から受けて、タワーのセキュリティはエーアイ工場さながらに動じない。レジン製のプロテクターで全身を覆った様は、まるで現代の鎧騎士だ。彼らが携えるアサルトライフルや、ゲート各所からせり出したタレットの銃口が鈍く光っている。駅の改札じみたゲートの奥、エントランスにも多くのセキュリティが後詰で構えている。

 ……その時、城塞じみたシールドの列を断ち割って、一人の男が出て来た――ガンギだ。ヨースケが何か言う前に、ガンギは一瞬だけそちらを見てから、拡声器を口許に上げた。

「聞いてほしい!私は『灯浪会』のガンギだ!」その叫びに、デモ隊が静まる。

「何を……」前に出ようとしたヨースケの肩を誰かが抑えつけた――フードを目深に被ったそいつの手は、真っ黒な義手だった。

「テンカイが左右田のベクターと協力して、夢野に密輸した物品の正体がわかった!テンカイの秘書……バイスを捕らえたのだ!」

 ガンギが出て来た壁の狭間から、手錠を掛けられた男が追い立てられて出てくる。その顔は、元型も判らないほどに腫れあがっている。その眼差しが、一瞬だけ悲し気にヨースケの上を滑った。

 ガンギはボロボロになったバイスの口許に拡声器を宛がう。

「……テンカイはぁ!笹美の研究所で開発されていた、バイオ兵器を夢野に持ち込んでいまぁす!き、きけ、危険なバクテリアで、開封されてしまえばすぐにでも夢野中に感染して、多大な犠牲者を出すのです!」

 デモという、ただでさえ殺気立ち硬質化した事態に、その滑稽ながらも悲痛な叫びは恐ろしい波紋を生み出した。

「彼の発言は事実です!テンカイの外患誘致思想は皆さんご存じのことでしょう!その危険なバクテリアを何としても使わせてはならない!」

 ガンギの発言の嘘や誇張に気付けた者がどれほどいただろうか。……いや、たとえ気付けたとしても、その怒号と一体化しないことなどできただろうか?

 人波が、一歩タワーに近づいた。それだけで、先頭にいる者たちは恐ろしいまでの正当化を得た気分だった。いや、そう感じざるを得なかった。「盾兵。構えろ」ガンギはそそくさと盾の内に戻る。

 ゲート前で、群衆の先頭が黒々としたやじりに変ずる。盾を前面と上面に構え、密集陣形じみて蝟集する。

 ガンギの演説に、タワーのセキュリティ達は動じない。自らの職務を全うすることを第一とするプロフェッショナルたちだ。

 ……ヨースケの肩に、すでに漆黒の手は無い。だが、もはや止めろと叫ぶこともできなかった。

「バクテリアは一抱えほどの透明なシリンダーに収まっている!タワーに侵入し、皆で確保するのだ!」

 拡声器を介したガンギのサイレンじみた雄叫びに、群衆の怒号が重なった。アメーバの触手じみて黒い集団がゲートに迫った。その脚が階段に掛かった。直後――

 パパパパパパパパパパパパッ!

 アサルトライフルとタレットの銃火が盾を叩いた!跳弾が後方の群衆に血の朱を散らす!負けじと突っ込もうとした盾持ちたちの足元に、ころんと缶が転がる――プシュッと煙が辺りにまき散らされる!「ゴホッ……オエェォッ!」催涙弾!

 怒号は絶叫に変わる。煙の中から、それでもなお突っ込んでくる者たちをセキュリティは無慈悲に蹴倒す。……その煙幕の内に竜巻のような渦が生じていた。

「……ん?」それに気づき、セキュリティの一人が銃口を向ける。

 バッと煙を巻き上げながら、ドラム缶じみた円柱物体が回転しながら飛び出してきた!パパパパパッ!反射的に撃ったセキュリティの首筋に赤い点が生じる。「え?」円柱が火花を噴いていた――否、それは三つの盾を円形に連ねた何かだ。そして、盾と盾の間に銃火!

 首から血を噴き倒れるセキュリティを尻目に、盾を連結させた何かが銃弾をまき散らしながらゲートに突っ込んでくる!

 セキュリティたちはそれに応じようとした。だが、煙の中からは盾を持った持たない関わりなく、次から次へと暴徒が現れ、そちらの対応に力を割かれる!暴徒の内に『R・I・P』でも使用される精神高揚ドラッグの使用者がいることを彼らは知らない。催涙弾は負けじと量を増し、辺りを白煙に包むが、それは無謀な突進を繰り返す者たちの血煙をいささかも薄らがせはしない!

 セキュリティを撃ち抜き、タレットの銃口を潰し、回転連結盾は改札じみたゲートを跳び越える。そこは虎口!待ち構えていたセキュリティたちによって油断なく斉射された銃弾が、白煙の尾を曳いて跳び上がった円柱に火花を立てる!

 回転円柱は、その勢いにしては意外なほど滑らかにエントランスに着地し――破裂した!回転運動をそのまま外へ発散させたように三枚の盾が飛び、それぞれにセキュリティにぶち当たる。そして、その運動エネルギーに随伴するような三つの人影が現れる!

 その一つ。右手と口許に銃口を備えた半裸の男がセキュリティに突き立った盾を蹴り上げ、宙に舞った。X軸、Y軸にスピンを掛ける奇怪なガン・スピンが中空にきりもみしながらセキュリティを撃ち倒していく。

 その一つ。倒れ込んだセキュリティを肉の盾として、重々しいガン・スピンを繰り出す人影。その眼にもはや迷いは無い。セキュリティの銃弾は味方のプロテクターに突き刺さり、男に届かない。周辺最後の敵目掛け、砲丸投げじみて抱えていたセキュリティを投げつける。

 その一つ。ぶち当たった盾にも動じずライフルを構えたセキュリティの眼前に、燕尾服の人影が降り立った。胸元に二丁のガントレットを交差させた影は、翼を開くように腕を広げた。瞬間的に交錯した無数の火と、吹き荒れた黒い颶風の後、立っていたのはその人影だけだった。

 ゲート外のセキュリティたちは背後の異常を把握していながらも、襲い来る暴徒の対応に追われて振り返ることが出来なかった。三つの人影は、死体の転がるエントランスを悠々と後にする。

 ――白煙と絶叫に包まれたゲートを見たユーリは即座に走り出した。双眼鏡で群衆を監視していたカミラも白煙に浮き上がった何かを認めて、すぐにユーリを追う。その動きを見て取って殿を務めようとしたスクルは――何者かの気配に立ち止まった。

 スクルの立つ商業ビルの隣、一階分だけ高いビルの屋上に男が尊大に見下ろしていた。

「――Bランカー。“霹靂”のヒビヤ。あんたの邪魔をしに来た」

「……ノーランク。スクルだ。あの二人は行っちまったぜ」

 ヒビヤと名乗った男の左腕を覆うガントレットには稲妻の紋様が描かれ、男の髪型もまさしく雷じみている。

「あんたを止める、もしくは殺すのが依頼。依頼主は言えないぜ?」

「誰でもいいさ。ぱっぱとおっぱじめようぜ」

 そう言うが早いか、双方はビルの屋上でガン・スピンを繰り出した。二人はお互いにスピンの速度と垣間見える銃口から弾道を予想し、わずかな重心の変化で避け続ける。

 ――速い!先に根を上げたのはスクルだった。頬を銃弾が掠め、血が円を描く。ガン・スピンの勢いで一歩踏み出し、立方体の屋上看板に身を隠す。その瞬間にはヒビヤはすでにスクル側のビルに渡っている。

 スクルは看板を撃ち抜いて敵を狙うが、ヒビヤはそれを巧みに避けるばかりでなく、正確に撃ち返してくる。スクルはたまらず屋上から、隣接するボロアパートへと逃げようとする――二軒の隙間はわずかだが、アパートは二階分低い。――スクルは屋根ではなく、その開放廊下目掛けて落下した。

 屋上からはほとんど線にしか見えなかった手すりのエッジを両足の踵で捉え、顎を上階に掠めながら滑り込むように廊下に着地した。すぐさま走り出す!

 だが、後方で着地音!「アッハ!おじさん早いねぇ!」ヒビヤは難なく追走する!

「チッ」スクルが走るのは真っ直ぐな廊下だ。いかにベクターでも回避は用意ではない。廊下の一方にはドアが並び、もう一方は三階分の高さの空。左右を確認したスクルは脚を駆動させながら、ドアノブの一つに手を伸ばし、祈るように捻った。――ドアが開く! 

「え」タブレットにイヤホンを繋いで音楽を聴いていた住人が驚いて身を起こす。「失礼!」スクルはドアを開けた勢いで部屋に入り、窓を蹴り破る。独り暮らしの薄暗いワンルームの淀んだ空気にベランダから吹いた風が対流する。

 ――追走していたヒビヤは勢いよく開いたドアを掴んで軸にして、手すりに身を乗り出しながら旋回して部屋に侵入する。スクルの軌跡を追い、目を丸くする住人を跳び越え、部屋を風となって駆け抜ける。

 左右を確認するためスピンしながらベランダに出たヒビヤは――背後、部屋の中で回転する標的の姿を見出した。スクル!風と一体化したかのような、精細極まる無音のスピン――ヒビヤは瞠目しつつ、そのままガン・スピンで応じる。銃撃の応酬!

「ひいぃぃぃぃい」住人が悲鳴を上げて躰を丸める。

 ヒビヤはスクルの奇策に良く応じた。だが、部屋とベランダの面積の差が、回避可能範囲の差となって現れた。幾度目かの、だが数瞬の交錯の後、スクルの銃撃がヒビヤの脇腹に突き刺さった。

「ぐッ……」その瞬間、ヒビヤの判断速度はまさに雷のようだった。銃撃が当たると察し、前に出ていた――近接戦に臨みを掛けたのだ。だが……

 ヒビヤの長い蹴りの出だしをスクルの足が踏みにじった。そして、杭を打たれたようにつんのめったヒビヤの顔面に、スクルの強烈な回転左ストレートが突き刺さった!

「うぶッ!」

 ヒビヤは倒れ込み、ベランダの手すりに強かに後頭部をぶつけた。さらに一回転したスクルはヒビヤの顔面に銃口を向け……引き戻した。

「ハハッ……ハァ。若者が強くてうれしいよ。もっと精進しな」

 愕然として顔を上げた住人を尻目に、スクルは部屋から出て行こうとした。

「あ。補償やらそいつの回収やらを頼むなら『ガンマ』まで連絡しといてくれ。あと、これをそいつに渡しておいてくれ」

 顔だけ出したスクルは名刺を投げ放った。恩を売っておいて損の無い相手だ。スクルはそれだけするとそそくさと部屋を出ていった。

25.正しい道

 白煙の前にはアラミド繊維で編まれた強靭な盾の道が通じている――ユーリは重さなどないかのように人の支える橋を駆けた。

 ユーリは刃のように催涙ガスの雲を抜け、エントランスに辿り着く。ゲートで応戦を続けるセキュリティは、そのあまりの軽やかさに気付くことすらできなかった。

 エントランスには幾つもの死体が転がっている。

「ユーリ!」

 背後からカミラの呼びかけ。黒いツナギには銃弾が掠めた跡があるが、怪我は負っていないようだった。

「他の区画からセキュリティの増援が来るはず。早く進もう」

「うん。――シリンダーは、地下区画のはず」

 二人は脳裏にタワーの地図を演算しながらエントランスから走り出た。建造物内からも銃声が聞こえる。地下は入口と同等のセキュリティが配置されているはずだ。 

 通路には点々と死体が転がっていた。武装したセキュリティのみならず、『エンジニア』専属のベクターたちのものもある。その数は地下区画に近づくにつれ増えていく。ビニル床の通路は狭くはないが、ベクターが活動するには十分とは言えない。ここでムヘンコーヤたちが死んだとしても以外ではなかった。……だが、銃声は激しさを増す一方で止む気配がない。

 無数の弾痕の刻まれた階段を降りると、火花を散らすタレットが横倒れになっていた。パパパパパパッと銃声が大気を揺らす。地下区画は柱が点在する広大なスペースを分厚いパーティションによって迷路じみて切り分けられている。天井付近に壁は無く、排気ダクトや電線、LED灯などが連なっている……今そこに、漆黒の影が躍った。

 二人の間に緊張が走る。

「ここは狭い。二人一緒だとガン・スピンの邪魔になるかも」ユーリは言った。

「了解。お互いの銃声で位置は判るよね」

「うん」

 短いやり取りを交わし、二人は弾かれるように別方向に進んだ。

 ユーリはスライドドアを慎重に引き開ける。パーティションは間違っても倒れることの内容厳重に固定されているようだった。その上、弾丸を貫通させないほど頑丈だ。広々とした部屋の中には盾にされたのであろう倒れた研究机と、転がる死体――部屋は地図にあったパーティションの配置と違う。侵入者用に配置換えしたものだろうか。

 視界の隅で何かが動いた。病的に白い半裸の男がゆらりと立ち上がる。

 右腕のガントレット。正中線を巡る背骨じみたプロテクター。口許から飛び出る銃口。そして、頬のD・O・G・G・Yのタトゥー。

 ――部屋の対角線上で、二人は静かにガン・スピンを始動させる。

 ドギーの頭部と右腕の二丁の銃による奇怪なガン・スピンと、ユーリの小さく素早いガン・スピンは、一回転する度に加速度的に距離を詰めていく。

「おっふ、ほほほ、おほほほほほ!」ドギーの空虚な笑いが木霊する。

 そのまま、目に見えぬ弾道を絆にして二人のガン・スピンはぶつかり合うほどに接近していき……はじけた!

 ドギーは頭部で銃撃した後、のけぞりながらサマーソルトキックを繰り出す!ユーリは横に倒れながら避け、転がる。ドギーはX軸回転動作の最中、マンボウじみた眼でユーリの動きを追い、右腕のガントレットで銃撃!Y軸回転も混じるきりもみ動作で着地!銃弾は一瞬前までユーリがいた位置に穴を穿つ――ユーリは転がりながら両腕で躰を跳ね上げていた。その動きの最中にユーリが挟んでいた銃撃は、きりもみ回転中のドギーの頬を掠めていた。ドギーは残留する熱に眼を歪める。

 音速の銃弾と、その先読みによるガン・スピンの体捌きは、一種倒錯した戦闘を生む。攻撃と回避は重なり合い、時に裏返る――だが、その根底にあるのは、ただ敵を凌駕しようとする意志に他ならない!

 一旦距離を離した二人は、今度は大きく円を描くように部屋を駆け出す。拮抗し、平衡していく戦いの円舞曲は、それぞれが倒れた研究机に乗り上げる際、そのわずかな抵抗を勝機として、牙を剥くように必殺を狙い合った。

 パンッ。バンッ。パンッ。バンッ。

 ピュアな銃撃の応酬が続く。部屋の外の銃声は二人の耳に途絶えた。二つの回転は臨機応変に形態を変えつつも、根底に静謐さを宿す。永遠に続くかに思われた美しい演舞は――しかし再び極点に向けて収斂していく。

「あふふふふ」

 ドギーは虚無そのもののような笑みを浮かべる。ユーリの澄んだ眼には弾痕だらけになった部屋が写る。

 先に状況を動かしたのはユーリだった。

 銃撃の後、大きく踏み出して一気に距離を詰める!銃撃を避けながら、ドギーもまたガン・スピンで応じる!二人は身を寄せ合うほどに接近する――ドギーはすぐ近くのユーリの顔を見下ろしながら……口から銃撃!

「おふっ!」

 銃撃はビニル床を穿つ!接近したユーリはそのままタックルを繰り出して、ドギーの銃撃を逸らしたのだ。だが、少年の軽い体重では、如何に速度が乗っていたとしても致命打には成りえない。ドギーは頭部の銃撃の勢いで背面跳びじみて後退し、ただ次なる一撃を準備すれば良いだけだった。……そこで、ドギーはなお身を寄せるように躰に触れているユーリを認めた。

 ドギーの目が勝機に光る。ユーリの体勢は、すでにスピンとは言えないものになっていた。ユーリはガントレットの肘でドギーを押し出すようにしていた。くるりと着地したドギーはただ振り払うように右腕を一閃させ、機を逸したベクターを処理しようとした。

 ドギーのガン・スピン――その一射の直前、ドギーの前にモーターが出現していた。そう錯覚させるほどの、ただ銃撃による加速に特化したガン・スピンだった。

 実のところ、ユーリは体勢を崩してなどいなかった――みじめなタックルの中でも、脚の駆動、呼吸のサイクル、ドギーのスピンすら利用して、丹田に力を渦巻かせていたのだ。――それが今、全身の動きとなって解放された!

 ドギーが驚愕したのはただの一瞬、二射目にはその狂的な振る舞いからは想像もできないほど正常なガン・スピンを繰り出していた。そして、ユーリはそれになお増す美しいガン・スピンで応じる!

 ……ドギーは頭部の銃を使わなかった。否、使えなかった。二軸の回転という異端のスピンは、一種崩れた体勢を必要とする。あまりに精緻なガン・スピンの応酬に、もう一軸を加える余裕は無かった。

 二人のスピンはがっちりと組み合った二つの歯車のようであった。……だが、次第に片一方がブレ始める。ユーリの速度に、ドギーは付いていけなくなっていた。

 ドギーは笑う。それこそが望んだ崩壊だった。ドギーはつんのめる。腹を銃弾が貫いていく。ドギーは笑う。頭部で銃撃を放つ――

 ……どたっ、とドギーは床に倒れていた。眼が驚愕に見開かれる。跳ねるように起き上がろうとしたが、胸に銃弾を撃ち込まれて地面に釘づけにされる。

 腹への一射は背骨を砕いていた。ユーリには、敵の次のスピンを許すつもりは無かった。――ユーリはドギーの顔に銃口を突きつける。

 ドギーは喉に血を詰まらせているのか、ゴボゴボと異様な音を発する。ユーリはドギーの頭部を覆う銃身兼プロテクターを蹴り付け、外した。

 プロテクターが外れ、肉が崩れた顔が露になる。口からは泡立った血が濁流のように床に拡がる。

 ドギーは陸揚げされた魚じみて口をパクパクとさせながら、ユーリを見据えた。その口は、長年奇怪なガントレットを咥えてきたためか、異様な形に変形している。

 口がパクパクと動く。音を漏らす。

「う、へん……あが……お、ぐあ……うう、え……」

 ドギーの瞳は暗黒そのものだった。ユーリはドギーの脳幹に銃弾を撃ち込んだ。頭がびくりと震え、それきり動かなくなった。

 ユーリの世界に銃声が――カミラの銃声が混じる多重奏が帰ってきていた。ユーリはシリンダーを目指して、再び駆け出した。

 ……ユーリの脳裏にドギーの最後が再生される。それは、こう言っているように思えた。

 無辺の荒野がぼくらを救ってくれる。

26.裏切り

 ユーリの銃声が聞こえて来た時、カミラもまた敵と相対していた。広々とした部屋には、研究机と死体が転がる――そして、カミラを真っ向から見据えるカゲユキの姿。

「無様だねカゲユキ。アタシたちを裏切った挙句、破滅主義者の自爆のお供とはね」

「オレはよくよく“理想主義者”と縁があるみたいだ。本当、おまえ達みたいのは厄介だよ」

 カゲユキは無精ひげの生えた顎を撫でる。かつては綺麗に撫でつけられていたオールバックも、今やヤマアラシのようだ。

「現実主義者のつもり?現実を見れていなかったからこうなったんじゃない?」

「臨機応変に対応して見せるさ……こんな風にな!」

 その言葉と共に、カゲユキは銃撃した!カミラは避けつつ、撃ち返す!二人のガン・スピンが始動する!

 ――カミラのスタンダードなガントレットに対し、カゲユキのガントレットは大きく、重たい。ドンッという銃撃と共に繰り出される動作も同様に大きく、重たいが……それがまったく隙には成りえない精妙さと、圧倒的な速度があった。

 カゲユキは浴びせるような蹴りを繰り出し、カミラはその下を転がるように避ける。そうしながらバンッと放たれた銃弾は、宙でネコじみて身を捻らせるカゲユキに当たらない。

 お互いに体勢を立て直しながら、ガン・スピンを繰り出して姿勢を制御する。そうしながら、すでに一歩踏み出していたのはカゲユキだ。彼のガントレットの重たい衝撃は、常に次の動作を想定していなければ、有り余るエネルギーが無駄になり、また体勢を崩す要因になりうる危ういものだ。だが、左右田最強のベクターはそれを難なく扱って見せる。

 一挙でカミラに接近したカゲユキは、回転の勢いから上段蹴りを放つ!カミラはネジを穿孔させるように地に沈みながら、足払い!カゲユキは下方への銃撃で躰を浮かせ、回避しつつの二段蹴りで応じる!カミラの顔面に踵がぶち当たる!

「うッ」

 吹っ飛んだカミラは転がって衝撃を殺すと、その終点で銃撃しつつ片腕でバネじみて躰を起こす。その時には、すでにカゲユキが目前まで迫っている。

「その程度かァ!?」

 不安定な姿勢のカミラの足元に、カゲユキが足を差し出す。まるで社交ダンスのように一瞬絡み合った後、吹き飛ばされたのはカミラだ。十分に体勢を整えられないまま、カゲユキの銃口で顔面を横殴りにされていた。

「ぶッ」血と唾が飛ぶ。カミラはつんのめるようにカゲユキから逃げながら、研究机を乗り越えた。詰め寄るカゲユキは、そのままカミラにイニシアチブを握らせることなく圧殺せんとする!

「隠れたつもりか!」

 研究机が蹴り倒される!……否、わずかに傾いだ地点で、机は停止した――そして、一瞬の力の拮抗の後、逆にカゲユキ側に傾いだ!研究机の反対で、カミラは逃げるのではなく、タックルするように全身で机を押し出していた。

「――ぎッ」

 ピキッとカゲユキの膝が音を立てた。スピンの勢いを保ったまま蹴り倒せるはずの研究机が、逆に迫って来たのだ。そのエネルギーは彼の膝に集中した。たまらず退いたカゲユキの前に、全身で咆哮するかのようにカミラが立ち上がった。

「誰が隠れたって?」

 ――お互いにスピンのエネルギーは躰に散り、ガン・スピンとして収斂するまでに、わずかな猶予があった。カミラは、即座に力強くガン・スピンを再開した。カゲユキは…「くそッ」弾かれるように後方に走り出した!逃走!

「なッ……」

 カゲユキは腐っても左右田最強のベクターだった男だ。カミラは虚を突かれ、一瞬判断が遅れる。

 カゲユキはわき目もふらずにドアに直進し、回転しながらスライドドアを開けた。勢いよく開いたドアが反動ですぐに閉まろうとするが、その隙間にカミラは手を差し込み、再びドアを開ける。スピンしながらパーティションに挟まれた廊下に油断なく身を躍らせる。

 カゲユキはすでに廊下の端に差し掛かっていた。まさに脱兎の勢い!カミラは追撃する!

 廊下には火花を噴くタレットやセキュリティの死体だけでなく、遮蔽物として利用したのであろうキャビネットや研究机も転がる。カミラはそれを踏み越え、エッジを捉え、時に蹴り付けながら、ぐんぐんとカゲユキとの距離を詰める。

 ――カゲユキは片足をかばいながら、ベクターとは思えない姿勢で走る。背後を振り向く。脂汗を流し、瞠目する。距離が詰まっていく。カゲユキは眼を閉じる。そして、パンッと音を立てて一歩踏み出す。

 ドンッ!カゲユキの瞳に灯った戦意が、回転の内に軌跡を残す。直前までの無様な姿勢などどこかへ置いてきた、目の覚めるようなガン・スピンだった。

 ……銃弾は廊下の彼方に消えた。その弾道の上を、高く高く跳び上がったカミラが往く。カゲユキは唖然としてそれを見上げた。直後、強烈な跳び蹴りがカゲユキの顔面に突き刺さった!

「ぶげッ!」自らのスピンの勢いもあいまって、カゲユキは凄まじい勢いでビニル床を跳ねながら吹っ飛ばされていく。そして、地下区画本来の壁にしたたかに背をぶつけて停止した。 

 カミラはパール色の髪を燃えるようにたなびかせながらカゲユキと距離を詰めた。項垂れたカゲユキをカミラが見下ろす。

「あんた本当に情けないやつになっちゃったんだね。こんなんじゃなかったろうが」

 哀れむような口調だったが、カミラの目に情は無い。ただ何らかの感傷があるとすれば、失望だろうか。

 カゲユキは口許を歪ませながら……両腕を上げた。

「降参だ」

「なに?」

「降参だよ」

 カゲユキはふてぶてしい笑みを浮かべる。

「そんなことを今さら認めると思う?」

 カミラは口許に垂れた血を親指で拭った。

「認めたくなるさ」カゲユキの笑みは嘲るようですらあった。「オレと協力してムヘンコーヤを倒そう。元々、そういう計画だったんだ。奴がシリンダーを手に入れて安心したところを……二人で挟撃する。オレは英雄として凱旋し、今後も夢野で活動する。おまえもそうだ。新人類の赤子なんて必要ない。夢野を、世界を救えば英雄になれるじゃないか」

 カミラはしばらくポカンと口を開けていたが、ため息を吐くと、ガントレットを構えた。カゲユキの笑みが歪む。

「なんだ、おい。やめろ!ムヘンコーヤはおまえ一人で倒せるほど容易い相手じゃないぞ!オレだって……」

「もうあんたの計画は信じない」カミラは言った。「それに、英雄だって?アタシはそんなもの求めていない。左右田のベクターの誰だって、そんなものになろうとは思っていなかった」

 冷えていくカミラの言葉に、カゲユキは慌ててガントレットを構えようとした。

 バンッ。

 カミラのガントレットが硝煙を噴く。

「……それにムヘンコーヤを殺るなら、あんたとじゃない」

 カミラはもう一度口許の血を拭いながら、廊下を跡にした。その背後で、眉間を撃ち抜かれたカゲユキの死体が首をがくんと下げた。

27.導き

「次こそは一気呵成に攻め込む!密集隊形だ。お互いがお互いの盾となるのだ!」

 壊乱するデモ隊の中、盾を構えた者たちの前で声を張り上げるのは、ガンギだ。その声音からは飄々とした繕いが剥げ落ち、剥き出しの憤怒と戦意が露だった。一方で、その表情は、ガスマスクに覆われて窺えない。盾を構える者たちも一様にガスマスクを装着している。

「ガンギ!」

 その呼びかけに、ガンギは振り返った。「ヨースケ……さん」

「貴様、この事態を狙ったな?どれだけ犠牲者が出たと思っている」

「もっと出ますよ」ガスマスクの奥でガンギの目が弓なりに反る。「ええ、ええ。このマスクもこの後の事態に備えたものだったんですよ」

「バイオ兵器をばらまかせるつもりか!?やめろ!」

「やめませんよ」ガンギはからからと笑ったが、「何をしている!早く突っ込んで来い!」突然怒鳴ると、盾兵たちを追い立てた。古代の兵隊さながら、盾の集団が白煙に突き進んでいく。

「……はは、何の話でしたっけね」

 ヨースケは答えず、黙って拳銃を構えた。その時には、すでにガンギの手の中にも拳銃が生じていた。早い。

 ――白煙と人影がまだらに行き交う中で、ヨースケとガンギは二つの彫像のように相対していた。

「私はこれでも先代の時は武闘派で通してましてね。まぁ、あなたの代になってからは、優しいおじさんという風を装ってきましたが……」

「大丈夫だ。あんたが危険な人間だってことは嫌というほど解っている」

 ヨースケが悪逆そのものであった先代の『灯浪会』ボスを弑し、その組織を乗っ取るまで、先代の手勢として最もヨースケたちを追い詰めたのがこのガンギという男だった。

「あはは、本当に解っていますかね」ゴーグルの奥でガンギの目が残忍に輝いた。「ミナモはい~い女だったよな」

「なに?」

 その陰湿な響きにヨースケは総毛だった。パンッ、とガンギの拳銃が火を噴き、ヨースケの拳銃を弾き飛ばした。

「あ、ぐッ」

「油断油断。昔の女の話で動揺なんてしちゃいけないよ」

 ガンギは拳銃を構え続ける。

「助けは来ないよなぁ。いつもつるんでいるお仲間も他のゲートに行ってるもんねぇ……」

 ガンギはそこで一端言葉を切り、目許を残忍に歪めた。

「おまえにゃ是非ともこの後の世界を味わわせてやりたかったが、下手に生かしておいたら碌な事にならねぇだろうな。へっ、オレもユーリちゃんのやり方を真似するとしますかね」

「……さっきのミナモさんの話はなんだ」

 ヨースケは折れた指を抑えながら、訊ねた。

「最後に訊くのがそれか?よっぽど尾を曳いてるんだねぇ」ガンギはげらげらと笑う。「ひとつだけ言えるのは……オレがユーリちゃんの父親だってことだ!」

 響き渡る哄笑に、ヨースケの顔は暗く沈んでいく。ガンギは躊躇なくトリガーを引いた。

 パンッ……

 白煙の中に一筋の硝煙が上がる。

 ――瞬間、ガンギの顔面に強烈な跳び蹴りが突き刺さっていた。いや、それはただそこを踏み石にしたとでも言うような、無関心な“着地”だった。

「ふびゅッ!」大きく仰け反ったガンギの手許で、銃口はあらぬ方向を向いていた。

「失礼!」

 着地の主は振り返って一つ叫ぶと、すぐにタワーのゲートへと駆けていった。ガンギの顔面でガスマスクが砕け、白目をむいた顔が露になる。

 ヨースケは謎の闖入者の後ろ姿を呆然と見送った。

 ――盾集団の密集陣形がゲートに突き刺さり、エントランスでセキュリティと泥沼の近接戦闘を繰り広げる中、スクルは悠々とタワーに侵入した。

 スクルは躰に縋りつく白煙を払いながら地下区画へと駆ける。道中には死体、残骸、弾痕、そして散発的な銃声。

 先行したユーリとカミラだけでは、ムヘンコーヤとその手勢すべての相手はできまい。スクルは笹美の研究所に侵入した時のことを思い起こしながら、全力で地下を目指す。

 地下への階段を降りたスクルは――「あン?」丁度、パーティションの上を踏み渡って突っ込んでくるムヘンコーヤと出くわした。その脇にはシリンダーを抱えている!

「てめッ」「貴様ッ」

 ムヘンコーヤはパーティションから溶けるように降りつつ、ガン・スピンを繰り出す。スクルは階段からジャンプしつつ、宙に螺旋を描く。二つのスピンは一瞬もつれるように交錯し――三つに分かれた。跳びずさったスクルとムヘンコーヤ、そしてビニル床を滑るシリンダー!

 スクルとムヘンコーヤの眼差しが滑ったシリンダーを追う。直後、二枚のスライドアが開き、それぞれにユーリとカミラが身を躍らせた。……シリンダーはカミラの足下だ。

「抱えて逃げろ!」

 スクルの声を聞くまでもなく、カミラはシリンダーを抱えていた。ガラスの内側で赤子が――なんの意味も無い肉の塊が揺れる。その顔に何らかの感傷がよぎるが、それも一瞬。カミラはすぐに走り出した!

「追わせねぇぞ」

「まさか勝てるなどとは思っていまい?」

 ムヘンコーヤは両腕のガントレットを胸の前に交差させる。スクルはその右手に立ち、ユーリが左手に歩み出る。三人は睨み合った。

 ある時、遠くで銃声が聞こえた。瞬間、三つのガン・スピンが交錯した。

 ――ムヘンコーヤの圧倒的な力の根幹にあるのは、やはりその幾つもの関節を備える義肢だ。ガン・スピンによるエネルギーの運用において、関節は大きなスイッチポイントだ。関節をクッションとして扱えば銃撃エネルギーの損失点になり、歯車として扱えばむしろ関節間の筋力を付加できる力点となる。その二つは不可分であり、ベクターは常にエネルギーの損失と付加の理想形を目指して運動し続けなければならない。

 ムヘンコーヤの場合、その幾つもの関節点はどこまでも滑らかなクッションとなって、銃撃エネルギーを損失なく躰に巡らせることが出来る。一方で、各関節の短さは発生できる力の少なさに繋がり、エネルギーの付加という点で大きなディスアドバンテージになるのだ……通常であれば。

 テンカイから知らされた情報によれば、ムヘンコーヤの義肢は強化カーボン製であり、そのフレーム構造そのものが通常の筋肉よりもはるかに大きな力を発揮することが出来るのだという。代わりに、定期的なパーツの入れ替えが必要となることが弱点だが、ムヘンコーヤは笹美の植物園に向かう前にメンテナンスを受けており、次は半年後まで大丈夫なのだという……。

 スクルの蹴りをムヘンコーヤは地面に落ちるように回避し、タコが水を掻くようにユーリの背後で身を起こした。ユーリはガン・スピンで即応するが、影はわずかによろめいただけで避けると、どろりと銃口を上げた。パンッと放たれた銃弾は天井を穿つ。スクルがユーリの手を引っ張って退かせたのだ。

 それはただ必死の行為だったが……スクルはあることを閃いた。

 ムヘンコーヤは両腕を躰に巻きつけ、極小の弧を描いて銃撃を連射する!スクルはユーリの手を握ったまま、ガン・スピンを繰り出して避ける。ユーリもそれに応じ、左手と左手を組み合わせたままガン・スピンに入る!二人は手をつなぎ続ける!

 それは『オキバ』からの脱出行の中で培われた二人の連携力のたまものだった。呼吸を合わせ、エネルギーを二心一体の如く巡らせる。まるでペアスケーティングのようだった。

 ムヘンコーヤの義手に銃弾が当たった。構造の一部が破損する。奇怪なガン・スピンに、この歴戦のベクターが応じ損ねたのだ。無論、それだけで倒れるようなことは無かったが……ムヘンコーヤの動きが変わった。

 二人の絆を断ち切るように、大きなガン・スピンの内に割って入ったのだ。スクルとユーリは一端離れるが、くるりと回転し、再び一つの円になる。その動作を幾度か繰り返した後、スクルははたと気付いた。

 ムヘンコーヤは明確にユーリを狙っていた。二人が一心同体のようだとは言え、体重差、筋力差は圧倒的だ。少しでもスクルが間違った動きをすれば、ユーリはついて来られなくなる。ムヘンコーヤに攻められている最中となればなおさらだろう。

 三つの回転がぶつかり合い、そこからムヘンコーヤが吐き出された。その時、ユーリがわずかに体勢を崩した。スクルはユーリの手を掴み取って体勢を立て直そうとする……だが直後、ユーリは逆に凄まじい力でスクルを引っ張った。その意図をスクルは汲む。ユーリは迫ったスクルの胴を蹴り付け、ムヘンコーヤに向けて跳んだ!スクルはその蹴りの勢いを利用してスピンする!

 ユーリのそれは不安定な体勢をあえて偏らせて繰り出す類のガン・スピンだった。スクルは若年のベクターがそのような技術を思いついたことに舌を巻いた。――だが、回転の中、ユーリとムヘンコーヤが視界から消えた瞬間、不安に駆られた。

 ――果たして、ムヘンコーヤはユーリのガン・スピンに応じてのけた。回転の安定性を失ったベクターの多くが、最後にその不安定さを利用して大技を狙おうとする――Aランカーともなれば対策して然るべきことだった。

 ユーリの胴に血の華が咲いた。スクルはムヘンコーヤに蹴りかかる。だが、その動きは精細を欠いていた。その二心一体の意志に罅が入っていた……。

「あがッ」スクルは左腕を撃ち抜かれ転がったが、すぐに立ち上がってガン・スピンを繰り出そうとした。だが、ムヘンコーヤはスクルを一瞥することすらなく階段を疾風のように昇っていく。

 スクルは追おうとして、転がったユーリに目を吸引された。飛び散った血が面積を拡げていく。ユーリはぴくぴくと躰を動かしている。……。

「――行って!」

 ユーリが顔を上げずに叫んだ。スクルは一瞬だけ肩を強張らせると、背を押されたように駆け出した!

28.死への道行き

 パパパパパパパパパッ!

 地下区画から飛び出したカミラの耳朶を銃声が叩く。

「地下から誰か出て来たぞ!」

「くそっ」

 カミラは階段を登った直後、セキュリティに銃撃された。シリンダーを胸に抱え直す。シリンダーがわずかでも割れれば、バイオハザードの危険がある。

「撃つな!ヤツはシリンダーを持ってる!無線で他の連中にも伝えろ!」

 後方を一瞬だけ確認すれば、追ってくるセキュリティとエントランスに転がる『灯浪会』の盾兵たち。

 ……このまま逃げ続ける必要はない。どこかで平和的にタワーの人間にシリンダーを譲渡して、万全の警備で守ってもらえばよいのだ……。その考えをカミラはねじ伏せた。地下区画には凄まじい量の防備が施されていたにも関わらず、たった三人に突破されたのだ。ここからどれほどセキュリティが集まっても、あそこ以上の弾幕は形成できまい。平和的に話すのは良い。だがそれに時間を掛けてはいられない。ムヘンコーヤと距離を離せるような手段を見つけてからになるだろう。

 ……スクルとユーリならば、あの恐るべきベクターにも勝利できるはず……。その期待もまた、ねじ伏せた。あの二人は犠牲になったという前提で動くべきだった。

 スクルは不思議な男だった。いつだって飄々としていてドライだったが、カミラの頼みには過剰なほどの情熱で挑んでくれた。

 ユーリは、初めこそ不気味な子供という印象だったが、今なら聡明な子だということがわかる。彼女には生き延びて欲しかった。

 カミラは階段を駆け上がった。シリンダー内部の溶液の揺れ動きさえ、疾駆するエネルギーに変える。目指すはタワーの最上層にあるという、避難用のパラグライダーだ。

 ―十階、二十階、三十階……。カミラは淡々と階段を登っていく。

 四十階。ポン、と機械音がした。「いたぞ!」エレベーターからぞろぞろとセキュリティ達が這い出てくる!本来であれば幹部クラスの使用しか許可されていないエレベーターだった。

 警棒を構えた、鎧騎士じみたレジン・プロテクターの集団が襲い掛かって来る。カミラは階段を登り続けながら、「アタシはこれをばらまくつもりは無い!ただ、ムヘンコーヤからこれを遠ざけたいだけ!」と叫んだ。

 だが、当然のようにセキュリティ達は答えず、猛然と階段を駆け上がって来る。だが、ベクターたるカミラには易々とは追いつけない――登り続け四十五階。

 ポン。「いたぞ!」再びセキュリティ!「くそぅ」

 カミラは走り続ける。仮に撃ち殺されたとしても、せめて地下からは遠くへ!

 五十階。ポン――誰も出てこない。だが、エレベーターが開いた瞬間、銃声の応酬が響き渡る。と、少しして二つの旋風がまろび出てくる!

「うそ」

 エレベーターから飛び出してきたのはムヘンコーヤと……スクル!二人の眼差しは一瞬だけカミラを追ったが、すぐに対峙する敵へと吸い寄せられていった。

 カミラもまたすぐに走り出す!

 ――スクルは地下から飛び出した後、一階エレベーター前で待機するセキュリティの集団……の残骸に出くわした。その中心に立っていたムヘンコーヤは、目の前で開いたエレベーターに悠々と乗り込んでいった。そして、ドアが閉まる直前、スクルは無理やりに躰をねじ込んだ。

 その後、五十階に至るまでの数秒、エレベーターの籠の中は銃弾が支配する地獄と化した。エレベーターから吐き出された二人は、血煙の尾を引いて廊下で対峙した。

 さしものAランカーも閉所に跳弾する弾丸の全てを避けることはままならず、義肢や生身部分に何発も受けていた。そして、当然のようにスクルも血まみれだ。睨み合った二人が、廊下でガン・スピンを交わそうとしたその時、階段からカミラを追っていたセキュリティが現れる。

「き、貴様ら止まれ!」

 プロフェッショナルにあるまじき言葉だったが、錯綜する状況はもはや彼らや、指揮官にも解らなくなっているのかもしれない。

「燕尾服のベクターがシリンダーを奪ったって聞いてないのか!」

 スクルがそう叫んだ時には、先頭で喋っていたセキュリティの喉笛に銃弾が突き刺さっていた。ムヘンコーヤがセキュリティたちに躍りかかる。スクルはガン・スピンでムヘンコーヤを狙おうとするが、状況の判らない階段の者たちが狂乱したように自動小銃を乱射したために妨害される。

 スクルはたまらず廊下へと逃げ出す。スコールのような自動小銃の嵐は徐々に勢いを減じ、ある時無音になった。顔を出したスクルは、血の池と化した階段踊り場に立つムヘンコーヤの姿を目にした。傷が増えた様子は無い。

「まさに虐殺紳士だな」スクルは呟いた。

「私はこの名に沿うように生きてきた。そして、今その本懐を遂げようとしている」

「それは名付けた奴の願いじゃないのか?」

「今は私の願いだ」

 スクルは鼻を鳴らした。直後、二人はガン・スピンを始動させる。その旋風には血が混じれど、勢いはいささかも減じていない。

 ――廊下を巡り、3Dプリンタの並ぶ造形室を駆け抜け、事務室のPCを蹴り落しながら二人はガン・スピンを交わし続ける。ムヘンコーヤの恐るべきガン・スピンに対し、スクルは常に机や造形機を挟んで、距離を置き続けた。

 二人は階段を登り階層を変えても戦いを続ける。五十五階――この第三ビルにおける無人区画に辿り着いた。その剥き出しのコンクリートと柱が拡がる空間の一画には空に抜ける穴があった。

 ――第三ビルは五十五階の建設途中にアポカリプスを迎え、そこに聳え立っていたクレーンを支えきれずに、横倒しにしてしまった経歴がある。ビルそのものは夢野再誕後に増築されて階層を増したが、クレーンは隣接する現在の第四ビルに突き刺さって、撤去することが出来ないまま今日を迎えている。それこそが、五十五階に存在する穴と、鉄橋の正体だ。

 タワーを縫う鉄橋や重機はそれぞれの理由で橋の如くビル間を繋げていたが、このクレーンに関しては歩廊などではなく、純粋な異物として第三、第四ビルを繋いでいた。

 暗いコンクリートの空間に銃声が反響する。スクルは巧みに柱を利用してムヘンコーヤと距離を離しながら戦う。……応じるムヘンコーヤの動きはどこか精細を欠いていた。というよりも、守りに主眼を置いた戦いだった。だが、今のスクルにそれを気付く余裕は無い。スクルは自らの策の完遂に必死だった。

 ――二つのガン・スピンは少しずつ、吸い込まれるように壁に開いた穴に向けて移動していく。スクルの苛烈なガン・スピンがムヘンコーヤを否応なしに引き寄せていくかのようだった。そしてある時、二人は跳んだ!

 暴風が吹き荒れる!

 赤と白の建設用クレーンの上に二人は跳び上がり、夢野の遠景を遥か眼下に、なおもガン・スピンを交わす!それは、ただ歩くのすら困難極まる頼りない足場の上において、むしろ命綱となっていた。回転と銃撃によって姿勢を安定させ、なおかつ暴風に抗って第四ビルへ向けて歩を進めるにはガン・スピンでなければならなかった。

 だが、その状況にあっても、姿勢制御で満足せず二人は敵に銃口を向け合う。一発応じ損ねれば即死である。スクルの狙いの一つはそこにあった。そして、もう一つの狙いは、ムヘンコーヤをカミラから遠ざけることである。

 カミラは今頃第三ビルを登っていることだろう……。スクルは脳の一画からシリンダーへの懸念を取り去った。

 だが……なぜムヘンコーヤはこのようなリスクばかりのガン・スピンに応じたのか?

 スクルの誘導が上手くいった。彼自身はそう考えていることだろう。だが、それはこの期に及んで虐殺紳士の実力をいささか低く見積もり過ぎた考えだった。

 空に抜けていく銃声と風の音の中に、ムヘンコーヤはセキュリティたちの無線音声を聴いていた。その音声では、カミラが第四ビルに移動したことが連絡されていた!スクルの案に相違して、カミラは敵を撒こうとこの危険極まる道を通ったのだ!

 ムヘンコーヤはエレベーターに乗り込む直前、殺害したセキュリティから無線端末を強奪していたのだ。その手間のせいで、追いついたスクルとエレベーター内で戦闘する羽目になったわけだが、この複雑なタワーの連結の中で標的を追う上で絶対に必要なことであった。

 ――そんなことはいざ知らず、スクルは戦意に研ぎ澄まされた瞳で、あやとりじみたクレーンの対岸を渡るムヘンコーヤを銃撃する。曇天に暗く輝くビルの間を渡る二つの旋風は、遠くから見ればあまりに小さかったが、ただそこに在るだけで絶技の応酬であることが解る。歩を進めれば足が浮き、暴風に躰は傾き、クレーンのわずかな傾斜が感覚を狂わせる。その上で、なお敵の銃口と眼光の行き先を追い続けなければならない……!

 銃弾がスクルの眼前を掠めた、それに引っ張られるように、躰が傾いだ。これ以上ない好機にムヘンコーヤは、なお必殺を待った。……果たして、150m以上の高所から落下しかけたスクルは、振り子のように体勢を立て直すばかりでなく、逆にムヘンコーヤに躍りかかったのだ!

「――ッ」

 ムヘンコーヤの一流の観察眼の中、時間は鈍化し、スクルはゆっくりと飛び掛かって来る。その瞳には爛々とした輝きが宿っている。不安定さを攻撃に転じる――それにしたところで、この高所で飛び掛かって来るなど、Aランカーの予想すら上回る狂気であった。

 ――世界に速度が帰って来る。ムヘンコーヤはスクルの跳び蹴りを防御せず胸板で受けた!ぐにゃり、とその躰が傾ぐ。――然り、ムヘンコーヤの義肢は衝撃を分散し、リンボーダンスじみた体勢で胴体をぐるりと巡らせ、バランスを取り戻した!

 だが、立て直したムヘンコーヤが目撃したのは、こちらもなんとか着地したスクルがガン・スピンしながら再度の突貫を試みる姿だった。肉食獣じみた表情は、笑っているようですらあった。

 再びムヘンコーヤはぐにゃりと沈んで受ける!スクルもまた再度跳び蹴りを仕掛ける!その応酬が繰り返される中、徐々に順応していく二人は再度銃撃すら交えた、凄まじいガン・スピンをぶつけ合う!

 ――二人はその速度を維持したまま、ついに第四ビルの無人区画に突入した。第三ビルと同じくコンクリートと柱の列が拡がる空間。

 直後、スクルの強烈な回し蹴りがムヘンコーヤの頭部に炸裂した!跳び蹴りのサイクルをわずかに丹田に向けて収縮させたのだ。虐殺紳士の頭部からガスマスクがはじけ飛ぶ。

「やってくれたな!」

 その顔は遥か昔に受けたと思われる恐ろしい破壊の痕跡によって髑髏じみていた。だが、そこにはいま、そんな顔面形態など凌駕して塗り潰す狂笑が虚を空けている!

「あれだけ破滅的な戦いをする男が、虚無を望んでいないというのか!?」

 繰り返し胸部に蹴りを受けたムヘンコーヤの声はかすれ切っている。

「関係ねぇんだよッ!」

 スクルの絶叫もまた血が迸るようだった。

 二人のガン・スピンは力を溜めるように収縮していき、移動を止める。しばらく静かな銃撃の応酬が続き――ある時、炸裂した。

 スクルの袈裟斬りじみたかかと落としがムヘンコーヤに降りかかる――ムヘンコーヤの沈みこむような回避を潰す一手。

 ムヘンコーヤは、それを片腕で受けた!義肢がミシミシと音を立てる。その衝撃を回転に付加し、銃撃を仕掛ける。

 ガン・スピンの速度を奪われたスクルは銃弾を顔面で受ける。左頬と歯が吹き飛ぶ!強烈な衝撃にスクルはよろめいた。

 勝機に目を光らせたムヘンコーヤは突貫せんと一歩踏み出した!……そこへ、スクルが風のように倒れかかってきた。顔面に銃弾を喰らってなお、突き進んできたのだ。如何なる衝撃も織り込み済みだと言わんばかりであった。そのまま、爆ぜ割れた口許から血の吐息を漏らしながら、スクルはムヘンコーヤに組み付いた。

 そのグラップリングは一瞬。回転を極限まで収斂させ、ムヘンコーヤの左義肢を捩じ切った。

 ムヘンコーヤは即座に応じて、背後に抜けたスクルを撃った。スクルのミニマムな回転では銃撃を避けきれない。左膝が割れる。ゴロゴロと転がりながら、スクルもまた銃撃。ムヘンコーヤはクレーン上での動きを想起させる大仰な回避をし、躰を揺り戻すと、スクルに飛び掛かった。

 スクルもまた、両腕で躰を跳ね上げ、応じる。

 宙で、二つのガン・スピンが、ただ一回転だけ交わった。

 重なった銃声がコンクリートの空間に木霊し……染み入るように消えていく。

 転がった二人は動かない。

 ……ゲノカラスの鳴き声が外から聞こえた。風が鳴っていた。

「……オレは危険な道は進んできたが、それは楽しかったからだ。破滅そのものなんて望んじゃいない」

 呟いた声は、スクルのものだ。仰向けになり、荒く呼吸していた。

 ムヘンコーヤは応じない――だが、生きてはいた。

 ヒュー、ヒュー、と穴の開いた喉から血と空気を漏らしながら、その顔は見る間に青白く変じていく。暖かな血がその後頭部を浸す。

 黒々とした瞳はコンクリートの天井を映している。そこには等間隔のスリットが、無数の傷跡が、ざらざらとした表面構造が、見える。

 ムヘンコーヤは何を想ったのだろう。

 微笑むように、口許を緩めた。

 それきり動かなくなった。

29.終幕

 カミラは第四ビルの屋上から、夢野を見下ろしていた。ゲートを境に人界と廃墟が隔たれているのがはっきりとわかる。

 風が強い。パール色の髪がさんざめいた。

 その手には収納状態のパラグライダーと、シリンダーがある。

 カミラはマニュアルをぐしゃりと握りつぶし、放り投げた。パラグライダーを丁寧に展開していく。

「止まれ!」

 カミラは背後を振り返った。セキュリティたちが次々と屋上に出てくる。……撒いたはずだった。何かシリンダーを追跡できる手段を用意していると考えるべきだった。

「そのシリンダーを大人しく渡せ!どういうものか判っているのか!?」

「判ってる!だから遠くに逃がそうとしているんじゃない!これを狙っていたのがムヘンコーヤってことを知らないの!?」カミラは叫んだ。

「我々に預ければ良い!」

「地下の連中は皆殺しにされたんだよ!無理だ。勝てない」

 そう話す間にも、パラグライダーを背に装着し、シリンダーをギュッと抱き寄せる。セキュリティたちはじりじりと距離を詰めてくる。いずれも銃は向けてきていない。

 ある距離で、セキュリティたちがピタリと止まった。……いや、何か動揺するようなことが起こったように動きを止めていた。
「……カミラ?」セキュリティが訊ねた。

「……そうだ」

「ムヘンコーヤが死んでいるのが見つかった。もう一人、スクルという男は救助したとのことだ」

 それを訊いた途端、カミラはその場にへたり込んでしまった。その言葉を疑うという発想は頭から飛んでいた。

「……ありがとう」カミラはシリンダーを抱きしめ、誰にともなく呟いた。

 セキュリティの一人が周囲を制し、ゆっくりとカミラに近づいていく。

 遥かな都市の眺望を臨む高みで、一つの事件が終幕した。

30.次の依頼

「もう怪我は大丈夫なの?」

  カミラの問いにスクルはキザに笑いながら答えた。

「へっ、この程度なんてことないぜ」

 左頬のガーゼがキュッと上に持ち上がった。スクルは松葉杖を翼のように拡げて、くるりと回って見せる。

「見れば判る。アタシはユーリに訊いたの」

「ぼく?大丈夫」

 そう言うと、ユーリは腹部をさすった。

 三人がいるのはタワー内部の食堂だった。潤沢な電力に支えられたⅬED電灯が横長の食卓の列を照らすが、スクルたちがいるのはガラス張りの窓際に並ぶ円卓席の側だった。窓の外には電灯に照らされている側が影に沈むほどの青空が拡がっている。

「待たせたな」

 そこへ、エンジニア・ブラックのクロウがやって来た。室内の影よりなお深い黒色だ。

「お疲れ様です。どうぞ掛けてください」

「この席を用意したのは私だ」クロウはにこりともせずに言った。

「まず、例の赤子についての報告だ。現在、本格的にあのバクテリアを処理するための設備を検討しているところだ。ゲノバクテリアのための施設は、いずれにせよいつかは用意しなければならないものだったからな。それに付随して、笹美の研究所から更なるデータの回収を依頼することになる可能性がある」

「もちろん受けさせていただきますよ」

 スクルは笑って言った。時に、この不愛想な男は素直すぎるのではないかと考えることがある。だが、そこからもたらされた情報によって生き延びることが出来た経験は一度や二度ではない。

「次に……これは本来私から言うべきことではないが、ユーリ、カミラ。君たちの『ガンマ』への登録が完了したそうだ」

「やった」

 カミラが言った。ユーリは目を丸くする。

「へぇ、ユーリはともかく、カミラのほうは随分と早かったですね」

 今回の騒動の中心になった左右田のベクターである。

「すでに正式な市民として登録され、ベクター試験もパスしたのだから『ガンマ』として拒否する理由はあるまい」

「ドライなことで」カミラが苦笑しながら言った。その表情は、夢野のやり方にも慣れてきたといったところだろうか。

「あとは、外の難民たちの件についてだが、こちらは時間がかかるだろうな。すぐに受け入れはできない。だが、南ゲートの連中はすでに彼らと交易を始めているようだ。なし崩し的にこちらに入ってきてしまうかもしれんな」

 スクルは微笑んだ。逞しい連中だった。

「最後に……今回の騒動でタワーのセキュリティには三十五名の犠牲者が出た。未だに病床で生死の境をさまよっている者もいる。デモ隊や『灯浪会』にも多くの死者が出たと聞く」

 クロウは厳粛に言った。カミラが祈るように瞼を閉ざした。ユーリも何か思うところがあるようだった。

「……ついては、その原因たる『エンジニア』上層部の専横や、指揮系統の混乱について、原因究明と再発防止に努めていく所存だ。また『ガンマ』や『灯浪会』、ひいては自治会との連携についても、より洗練されたシステムにシフトしていく計画がある。我々は工程上流の組織として、ベクター諸氏に信頼される顧客でありたいと思っている。今後とも、よろしく頼む。――以上だ」

 クロウは淡々と話し終えた。

 ――円卓席に沈黙が拡がった。

「く」しばらくして、スクルが震えた。「くく、ははははははははは!」

 スクルの大笑に、カミラも苦笑を重ねる。ユーリはきょろきょろとスクルとカミラを交互に見たあと、クロウに視軸を合わせた。クロウは眉間に皺をよせ、光線のような眼差しで笑う二人を見ていたが、ふっと力を抜くと、ユーリを見た。

「何かな?」

「あ、いや……あぁ、そうだ。ぼくから二人に依頼があるんだった」ユーリが眼をぱちくりとさせながら言った。

「はは……すまん。どんな依頼だ?どんとこい」

「アタシも受けるよ」

「えっと……怪我が治ったらで良いんだけど」ユーリは窓の外を見た。「一緒に、どこか遠く、街の外へお母さんの遺灰を埋めに行きたいな」

31.ライフ・ベクター

 サイダはバイオ・プリンティング装置によって造形された肉の塊を処理水に漬けた。氷柱のようなサポート構造を除去すると、波紋を立てる濁った液体の底に、その輪郭が垣間見えた。

 ――それを抱え上げる。液体の中から現れたのは、まるで産湯から取り出されたばかりの赤ん坊のようだった。サイダの頬を滂沱の涙が流れた。

「ああ……生まれてきて良かったな」

 サイダは母親のようにその肉塊を揺すった。当然、泣きもしなければ、動きもしない。

「ぼくたちは……生まれてきて良かったんだよな」サイダは肉塊に語り掛けた。

 その言葉は愛情と言うには欠落していて、自己憐憫と言うには乾いていた。

 だが、それでも涙の奥に存在する瞳は、何かを志向する光を湛えていた。

 サイダは赤ん坊を抱えて、第一研究室から出た。

 照明が落ち、暗闇に機器の駆動音とランプ光だけが残された。

 ……それからずっと後になって、真っ暗な部屋に誰かが訪れた。

 電子音声が何か言うと、灯りが付いた。

 照明が左頬に大きな傷のついた男を照らした。

 男はしばらく部屋を眺めた後、呟いた。

「さて、始めるか」

(ライフ・ベクター 完)

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