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サイクロプスの虹彩(⑥-完)

⑤までのあらすじ:頭部に巨大なカメラ・アイを備える異貌の大男、サイクロプス。傭兵集団MAGEの武器庫を襲撃したサイクロプスとギャング集団パンギルは、おぞましい銃の怪物たちと相まみえる。多くの犠牲を出しながらも、MAGE幹部サロメとウォルターを撃破し、その背後に隠れるドクター・ロンすら始末した。一方、MAGE幹部最後の一人アルゲースは、パンギル幹部ホセに、サイクロプスの裏切りを密告する。

 凄まじいスコールの中に在って、都市の貪婪な光はその癒着を断たれまいとするかのように、いっそう煌々と輝いていた。ビルとビルの隙間から、その光の柱を見上げる人影は一息つくと、よろよろと崩落したような都市の影に分け入っていく。弾丸のような雨粒がその背を苛む。

 ―――パッと灯りが射し、豪雨を裂いて人影を照らした。反射的に太い腕で顔を隠した大男は一糸纏わぬ姿で、そこにはあらゆる尊厳を否定するかのような無数の疵が刻まれていた。「……サイクロプス」灯りの主が呟きを漏らした。「……ライトを下げてくれ。サブカメラじゃ調整がうまく利かないんだ」大男―――シドが少し腕を下ろすと……その顔面にはまっていたはずのカメラ・アイの大部分が無かった。前頭部の欠けた頭部には、垂れ下がった配線と、ひしゃげたアタッチメントが剥き出した。

 ライトが下ろされるのと同時に、シドは汚水に倒れ込んだ。大男の大質量を支えた人影は、そこでようやくその左腕が二の腕の辺りから断ち切られていることに気付いた。「随分な目にあったな」「アンタは大丈夫だったのか?タカハシ-サン」人影は―――タカハシはシドに肩を貸して、路地裏を進む。「アーマンド氏の好意によって生かされているよ……実際の所は、私の立場は宙ぶらりなんだ」

 ……動物園の襲撃後、状況は一変した。MAGEの幹部たちを倒し、3Dプリンタ銃を押収し、ニューロルータ技術の研究者たるロンを殺害し、事態は収拾したかに思えた。だが、MAGE幹部最後の一人であるアルギースがホセとコンタクトを取ったことが転機となった。

 MAGEの技術をパンギルに提供することを約束し、さらにはカンパニュラとの新たなパイプ役になることを申し出たのだ。―――茶番だ。もとよりパンギルはカンパニュラの先兵だったのだから。だが、パンギルの構成員たちにとって、それは敵の降伏としか映らなかったし、一方のカンパニュラ側にとって、”保守派”と”改革派”の争いは前者の勝利となったわけだが、これがどういうわけか両派閥の和平のきっかけになったらしい。

 ―――問題はシドの処遇だった。ロンの独断での殺害は少なからず幹部たちの心象を悪くしたが、そもそも皆殺しが目的だったのだから、それ自体はさして咎められはしなかった。……だが、アルギースの密告がすべてを変えた。

 もともとホセはフレッド殺害の犯人としてシドを疑っていたのだ。そこへ、アルギースが与えた映像記録が決定打となった。仲間殺しは大罪である―――それだけではない。ひとつ、フレッドは幼少からのパンギルメンバーで幹部たちに気に入られていた。ひとつ、シドに搭載されたニューロルータのデータをカンパニュラが欲している。ひとつ、MAGEを滅ぼされたアルギースの意趣返し。……ほかにも思い当たることはある。

 ジェニィと寝ていたシドは動物園で死闘を共にした戦闘部隊と、冷徹そのもののホセに襲撃された。……シドを畜生に堕とさんとする蛮行が為された。

 ―――ふたりは濁流の中を一歩一歩進む。「とりあえず今は喋るな。隠れ家に行ったらじっくり聞いてやる」タカハシがシドの耳元で強く言った。「喋っていた方が気が紛れる。―――アンタが保護した子供たちはどうした?」「そんなことを心配してる場合か?」タカハシが苦笑したが、そこには賛嘆が含まれているようだった。

「……正直、マズい状況だ。両派閥が手を組んでしまって、ニューロルータを埋め込まれた子供たちは純粋な資産になってしまった」タカハシは苦しげに言った。「いまは他の隠れ家に保護してるが……本音を言うと、自分の首と子供たちの運命を天秤にかけてる。下手をすると、私は死ぬ」「……オレのチームを使え」「チーム?味方がいるのか?」「オレの躰を検診するためにカンパニュラからゲート外に出向しているチームがいる。どうにか利用できないか?」「……ふむ」タカハシは思案する。

 しばらくの間、スコールのノイズだけが響く。「……アンタのチームを犠牲にすることになる」タカハシが吐き出すように言った。「そういう方法しか思いつかなかった。……すまない。アンタが判断してくれ」「問題ない」シドは即答した。「オレがゲートの外に来てからずっと一緒の連中だ。それに、オレの友人の直属でもある。善良な連中だよ」

「すまない……」タカハシは、シドよりよほど重傷を負っているかのように沈痛な呟きを漏らした。―――過ぎ去る気配のない雨は、拷問官のような勤勉さで敗者たちを敵から覆い隠し、同時に終わることのない呵責を与え続けた。シドにとって、それは間違いなく恵みの雨だった。

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『そうか……。伝えてくれてありがとう』アダムは十字を切った。「ああ。……だが、最後に色々とぶちまけて死んでいったよ」シドは喉に物が引っかかったような言い方をした。

 動物園の襲撃から2日後。シドの邸宅。ふたりはテレビ通話で顔を合わせ、恩師の辿った末路について話していた。そこまでの会話には、葬儀というよりは、墓標を訪ねるようなドライさがあった。『ぶちまけたとは?』「先生が自害する前にオレたちの出生について……その、色々とな」シドは自分でも咀嚼できていないという風だ。

『教えてくれ』アダムが両手を組み、老成した眼差しを投げかけた。『正直にいえば、ずっと疑問には思っていたんだ』シドは大きくため息をつくと、語り始めた。

「オレたちは遺伝子疾患の影響で脳が健常に発達しないと診断されていた。だから、ニューロルータを這わせて脳機能を代替させようと試みられた」『続けてくれ』「……まず、それが嘘だった」『……』「オレたちは、そもそも遺伝子疾患などでは無かったんだ。健常な脳にニューロルータを伸張させ、躰のほうは後から損壊させたんだ」

 モニタの向こうで、アダムは停止している。「オレたちの肉体がほぼ人工細胞やサイバネなのは、それを覆い隠すためでもある」『な―――なんのために、そんなことをしたんだ』「実のところ、本来の研究の目的がそこだったのさ。今思えばニューロルータの人体への適応の第一弾として、遺伝子疾患の”治療”を目指すなんて、ちょっと出来すぎだったな。だが、表向きはそう報告することで、人体実験の誹りを免れたんだろう」シドの口は滑らかだ。

「……もちろん、本当に病気の赤子を治療しようともしたらしい。そういうのはこの街じゃいくらでも手に入る。当時から、カンパニュラに自分のガキを投げ込む親は多かったしな。……こっちはそもそも表沙汰にはならなかった」シドは吐き捨てるように言った。

『健常な脳にニューロルータを這わせて何の意味があるんだ?』「オイオイ、カンパニュラの”魔術師”殿、アンタのほうが詳しんじゃないか?」シドの言葉に、アダムは思わず苦笑した。『専門じゃない、まぁ、予想は付くさ。脳波データなどの取得、ニューロルータ側からの刺激の付与―――それに、精神活動の上書き』

「ご明察。ロン先生が言っていたのはそんなところだ。最後のは……言ってなかったが」『そうなら、助かるな……』アダムはそう言うと、モニタの外を見上げて溜息を吐いた。『……少し、安心した。ずっと自分が人間じゃないかもしれないと思って生きてきた。脳髄だって所詮は信号と構造によるものだが、それでも、消えない孤独感があった』告解するような言葉だった。―――シドは口を固く結んでいる。

『ああ、くそ。そうだ、何で思いつかなかった?』突然、アダムは清々したような悲しげな笑みで言った。『頭蓋を直接スキャンしてみればよかったじゃないか……。何で思いつかなかった?シドも考えたことなかったか?』「思いついたさ」『なら』「きっと、おまえも思いついてたさ」『あ?』「思いついて、実行して、その記憶を消されたんだ」シドは苦しげに言った。

「脳波データなどの取得、ニューロルータ側からの刺激の付与……誰かがまだデータを取得し続けているんだ。誰かがまだ刺激を与え続けているんだ。おまえの脳みそをいじくりまわしてる連中がいるんだよ」『……』アダムの表情は無だ。「オレの検診チームもデータを欺瞞するようなソフトウェアを使用させられていたみたいだ、オマエのところは元ロン先生の部署の連中だろう。奴らが、今でも、オマエを支配している」―――元はふつうの人間であったろう銃ゾンビたちの姿がシドの脳裏に浮かんだ。

 アダムの眼から涙がこぼれた。『私は……』「安心しろ。昔から人格が大きく変わったようなことは無い」シドは力強く笑いかけた。「それに、オマエはよくやってきた。操られてようがなんだろうが、価値があったからカンパニュラで地位を獲得できたんだ。検診のノウハウはオレのとこに送ってくれたチームが持ってる。ひょっとすると、昔の部署の連中を排除できるんじゃないか?」アダムは沈黙している。……しばらくして、呼吸を整えるとモニタを向いた。

『ああ、そうだな。……さっそく、策略を練っていた』「さすが」シドは笑った。『ヤツらめ、優しげな顔をしてよくもやってくれたな』「その意気だ。必要ならオレも手を貸す」『大丈夫だ。やってやるさ』「頼もしいね。……で、だ。頼もしいついでに、あの事件の処理のことを聞かせてもらいたい」シドの言葉がスッと冷えた。

 あの事件―――ゲート外で起きた妊婦連続殺害事件だ。シドの報告では”犯人は処理”され、あとは無責任に種だけ撒いてゲート外に逃げ込んだ者たちの対処がアダムに依頼されていた。

『排除した』アダムの眼差しには鋳造物のような強さがあった。『カンパニュラ内での対差別プロジェクトを動かして、警察に逮捕させた』「上出来だ。できれば殺したかったがな」シドは平然と言う。『私の地位のためにも我慢してくれ』アダムは笑った。『それよりも、オマエのほうはどうなんだ。処理したっていう犯人はパンギルの連中だったみたいじゃないか』「今のところバレていない」シドはとぼけた答えを返す。

『そうか……。用心しろよ』「わかっている」そう言うと、シドは通話を切った。

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 ジェニィは炎のように燃え上がり、事が終わると、鎮火したかのように沈んだ。「どうしたんだ」ベッドに寝そべったシドは、同じ体勢で隣に寝るジェニィに猫撫で声で言った。

「どうもしない」ジェニィはすげない。シドは起き上がった。「……この前、様子がおかしかったな。何かあったか」静かに乾いた呟きを漏らす。ジェニィは翳った目じりをよせ、電灯を見据えていた―――そっと、おなかをさする。「赤ちゃんができたの」

「堕ろせ」ジェニィは跳ね起きて、シドの横面を殴りつけた。「……ッ」カメラ・アイの縁で手を切る。シドはその腕を掴んだ。「誰のガキだ。そいつ、責任持てるのか」「アンタよりはね!」ジェニィは叫んだ。

 歯を剥き出すジェニィは腕を振りほどこうと身もだえするが、大男の巨体はびくともしない。鋼鉄のカメラ・アイが微動だにせずジェニィを見つめる。「ミスター・アーマンド。怪物の女の味を確かめに来たって……」ジェニィの眼から絞られるように涙が零れる。

 シドはパッとジェニィの腕を離すと、立ち上がった。「そんなに気に入らない!?私はボスの情婦になるの!今よりずっと幸せ!」砕け散ったような顔面から叫びが迸る。シドはコートから何か取り出すと、黙ってジェニィに押し付けた。「どこか外国に行って、そのガキと十数年は食っていける金が入っている。暗証番号も送っておく」

 ジェニィは口に何か詰まらせたように呻いた。「とにかく、この街にいちゃいけない。パンギルともかかわるな。もちろん、カンパニュラにもな」「なに。なんで」ジェニィは焦土のように疲労した表情だ。「アーマンドは情婦のガキなんて認知しない。そのうえジェニィは移民の子孫だろ」

「そんなの……」「わかる。調べろ。前例はいくらでもあるぞ」ジェニィは俯いた。「それに……この街には妊婦を狙った殺人鬼がいる」シドは、そこで一瞬冷気に襲われたように息を震わせた。「この街にいちゃいけないんだ」「それは、それは何か月も前が最後で、もうどこかで死んだんだって噂で……」「ヤツは死んでいない」

 その剣幕にジェニィは押されて縮こまる……が、すぐに押し返すように首を突き出して言った。「じゃあ、シドも一緒に来てよ。こんな街から出ようよ」「オレはカンパニュラから離れられん」「友達のアダムって人に頼めないの?お願い」シドの鎖骨をひっかくように掴む。「お願い……」

 カメラ・アイが揺れた。完全な無表情のカメラ・アイの周囲で、わななく口が、震える肩が、緊張した僧帽筋が、何かの感情を伝えようとした。

 その時、廊下で何かがぶつかる物音がした。続く、完全な静寂―――違和感。「いいか、ジェニィ。必ず、この街を出るんだ」「そんな」「必ずだ。生きていたら連絡する」シドは防護コートを羽織り、銃を取り出すと、ジェニィを部屋の奥においやった。

 ダンッ、とドアが蹴破られた。「すまないな、シド」廊下の灯りを背にして、恐ろしく姿勢の良い人影が現れた。「ホセ」室内に踏み入ってきたパンギル随一の武闘派の顔は普段といささかも何も変わらない。

 シドはすでに銃をまっすぐにホセに向けている。対するホセはまったく泰然としていた。ジェニィは震えている。「フレッド殺害の犯人が判った」「どのフレッドだ?」シドの言葉にホセが苦笑した。シドが初めて見るその表情は、恐ろしく陰気なものだった。

「これからその怪物狩りだ」ホセがそう言った直後、シドが銃を構える手に、壁を割って横合いからまっすぐに閃光が突き立った。シドは銃を取り落しながらも、ホセに躍りかかった。―――ホセは繰り出されたシドの巨腕を取り、巧みに躰を滑らせると……その大質量を投げ飛ばした!

廊下に転がり出たシドは猫のように即座に立て直して膝立ちになり、左右を見た。左―――壁からナイフのような義足を引き出すセバン。右―――二丁拳銃を祈るように構えるドノヴァン。そして、正面には悠然としてシドを見下ろすホセ・サントス。

「……そこの女は逃がしてくれないか」「構わん。アレが例の、おまえの女だろう?オレにも慈悲はある」ホセが目配せすると、廊下の奥に詰まっていたパンギル構成員が室内へと向かい、ジェニィを引っ立ててきた。「シド……」「行け」シドは吐き捨てるようにいった―――ジェニィはその眼をまっすぐに見返す。

 ジェニィが下階に消えていく間もホセはシドに目を光らせていた。「さて……」ホセが朗らかに笑った。「何か釈明はあるか?」「カンパニュラのお偉いさんから怪物を仕留めてこちとでも言われたか?下っ端体質が抜けんな、ホセ」「まったくだ。いつまでもオレが最前線に立たにゃならん。戦闘部隊も大半が死んでしまったしな」「幹部連中が無策だったせいだろう」「ふむ……。この状況でも口が減らないな。さすがだ」

 そう言うと、ホセはシドの股間を撃ち抜いた。「ごッ……オォ!」「そんな矮小なブツでも神経は通ってるわけか」ホセは微笑んだ。「あのタフで無表情の怪物がどんな悲鳴を上げるか楽しみだ。……連れて行け」

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 ……灰色の空と霞んだビル群が窓から覗き、薄明りに部屋に舞う埃がチラチラと輝く。真っ暗な部屋は、罅の入ったコンクリートの壁が覆っている。―――その中で、むくりと何かが起き上がって光の粒をかき消した。そして、監視カメラのような動きで、首をドアに振り向けた。

 満月のような一つの眼が昏く輝いていた。

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「突入」口ひげの下から、静かで冷徹な喊声が出された。

 ハイウェイ街から大きく離れたスラムじみた住宅街にて、曇天の下、廃ビルの前に停車していた数台のバンから、武装した人間たちが吐き出された。その動きは戦士というより、処刑人じみて粛々としている。

 探査装置を背負った男がビル正面のガラス扉に近づき、サムズアップした。その後ろをナイフのような義足の女、二丁拳銃の屈強な男、そして通常の武装のほかに頭頂部に銃を備えた何十人かの男女が続く。

「……大丈夫ですかね」廃墟じみたビルの虚に呑み込まれていく戦闘部隊を見送りながら、白髪の男が呟いた。顔面の中央にでかでかとガーゼと張り付けており、その傷がまだ衝撃を与え続けているかのように大きな躰を縮こませている。―――ジェイソンだ。

「ヤツは手負いだ。……いや、もしかするとヤツの”チーム”とやらが治療を施したかもしれんが、それでも逃れられはせん」口ひげの男―――ホセが応えた。「さらに言えば、隠れ家がバレているなどとは思っていないだろうし、我々には頼りがいのある”ビジネスパートナー”もいる」

 ジェイソンが顔をしかめた。「アルギースってヤツですか……。ヤツぁ、敵だった。納得できません」その言葉に、ホセが楽しげに苦笑した。「おまえも、これからパンギルのやり方を学んでいくことになる」そう言うと、ホセは後方のビルを見上げた。

「突入部隊、狙撃手、区画の閉鎖……そして、暗殺者」ホセとジェイソンの前で、ビルの壁面に跳び上がった人影がある。人影―――カタナを背負ったタリムは、かつての同僚の義肢を移植しており、壁を易々と駆け上がっていく。

『6階の一番左の窓で何か動いた感じがした。最上階か。船倉の鼠のようだな』『曖昧な報告だな、スナイパー殿』タリムは淡々と言った。だが、その顔には不信と猜疑が露だ。『端末がいない以上、これが限界だ。がんばってくれ』アルゲースもまた淡々としている。MAGEの恐るべき幹部のひとりも、今やパンギルの一兵員に過ぎない―――その事実に溜飲を下げ、タリムは進む。

 当該の窓に辿り着いたタリムは窓の一部を斬ると、まずカメラが付いたカタナの柄を差し入れて様子をうかがってから、安全を確かめ慎重に室内に潜入した。廃墟のような部屋にはベッドだけがある―――誰かが暴れたような乱れ具合。『6階最南端の部屋で何者かの痕跡』『探索を続けろ。薬物中毒者でも斬って構わん』『了解』

 タリムは漆黒の手足で音もなく部屋を抜け、廊下に出た。廊下側にも薄汚れた窓があり、ゴミの溜まった通路をわずかに照らしていた。タリムは割れた注射器や、空き缶、インスタント麺のカップ、蜘蛛の巣、ゴキブリの死骸……諸々を踏み越え、一部屋一部屋、獲物の存在を確認していく。

 ある時、視界の奥で何かが翻った―――あの男がよく羽織っていたコートだろうか。『6階、階段付近の部屋だ。何かがいた』『オマエが先に見つけちまったか。今度はもう一方の腕まで切っちまうつもりか?』ドノヴァンが通信に軽口を漏らす。『足にしておく』タリムはそう言いながら、豹のように駆けた。そして、ドアに辿り着くと、油断なく開け放った。

『―――あ?』ため息に近い困惑の呟きだった。キィン、とカタナが滑る音がした。『ワッ……ああああああがががガガガガガガアアアアア』凄まじい悲鳴と雑音が通信を聾し……途絶えた。―――ドノヴァンは足を止め、呆然と通信に聞き入っていた。『どうした?タリム。どうした?』セバンが繰り返し言う。3階を探索していた戦闘部隊に動揺が広がる。

 その時、ひとり3階の階段付近で待機していたウムランが何かに気付いた。背負った探査装置の振動センサが反応している。上の階から、何かが、転がって来る。ドチャッ、と音を立てて、それがウムランの前に伸びた。「うッ」―――綿を抜いた人形とでも評しようか……壊れたタリムの躰だった。

 ウムランの支離滅裂な報告と、セバンの必死な呼びかけが通信を飛び交う。『落ち着けッ』通信にホセの檄が飛ぶ。『落ち着いて何があったか報告しろ。その間、ドノヴァンは部隊を一か所に固めろ』『了解』すでに衝撃から立ち直っていたドノヴァンは部隊を集める。―――報告内容は単純で、タリムが全身の骨を砕かれて死んだ、ということだ。

「全員、銃を構えろ!」ドノヴァンが雄たけびを上げた。廊下に声が反響する。「この中にゃ、この前の動物園襲撃を生き残った連中もいる。あの銃弾の雨と、化け物共の中を耐え抜いたんだ。今さら、怪物一匹なんだってんだ」ドノヴァンは豪快に笑った。「実際の所、タリムは不用意に近づいたから死んだ……ヤツはサムライだったからな。だが、サイクロプスの野郎はとんでもない剛力で、近接戦はちときつい。……だが、オレたちにゃこれがある!」ドノヴァンが銃を掲げると、パンギル構成員たちも追従してライフルを掲げ、雄叫びを上げた。「「「ウォォオオオーッ!」」」

 ドンッ。重たい銃声が響き、歓声を塗り潰した。頭の爆ぜたウムランが倒れた。上階から、ずるりと、それが現れた。

 大きい。10フィートはあろうかという躰を大きく前傾している。光沢のない真っ黒な肌もあって、ファインアートのような気位すら感じられた。太く長い首の先端には、鏡のように周囲を映す円形のガラス―――カメラ・アイが輝いていた。

「……ッ!撃てッ!撃てーッ!」絶叫と共に、凄まじい銃火が廊下を埋め尽くした。燎原の火とでも呼ぶべき光景に、音速の弾丸が飛び立った。……怪物は一人をちぎった。一人を投げた。一人を潰した。一人を殴った。瞬く間に銃火の量が減っていく。

「ああッ……ヒーッ!」繰り出した義足を掴まれたセバンが悲鳴を上げる。両の義足を掴んだ怪物は、そのままセバンを引き裂いた。恐慌を来して逃げる余裕すらなく、そういう機構かのようにパンギル構成員たちは引き金を引く。―――ドノヴァンは大きく息を吸うと、一息に部隊の間を駆け抜け、怪物の股下に抜けた。懐からスティック状の爆薬を取り出す。その目はすでに死を覚悟している……!

 ドンッ。ドノヴァンは目を丸くして、飛び散った手を見た。それから、くるくると廊下を滑る爆薬を見た。怪物はこちらに背を向けている―――その股間から生えた尾の先端で、硝煙が上がっていた。「―――はっ」笑いかけたドノヴァンの顔に銃口が向けられ、光った。―――尾ではない、長大なペニスだ……。ドノヴァンの狂い笑いを浮かべた頭部が爆ぜた。

 ……通信の向こうで繰り広げられる狂騒を耳にしながら、ホセは歯噛みする。「アルギース!どうなってる!」『こっちからじゃなにも見えないな。廊下側から見ないと』何を悠長な―――そう怒鳴り付けようとして、アルギースであればタリムが死んだときの様子を視認出来ていたのではないかということに思い当たった。

「アルギース」『ははは……焦っておられる』「ひとつ訊きたい。タリムが死ぬところが見えていたな?」『……ああ。アレは化け物だ。ちょっと、勝てないだろうな』「ふざけたことを言うな!」ホセは思わず怒鳴りつけた……通信は切れていた。今すぐアルギースのいるビルに攻め込みたい気持ちを押さえながら、ホセはまっすぐに廃ビルの入り口を見つめる。すでに通信越しの悲鳴や絶叫、銃声は途絶えている。

 ……カァ、カァ、と遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。灰色の空は落ちてくるかのように重い。

 廃ビルの入り口で何かが動いた。次の瞬間、ブチャッ、と音を立てて赤黒い物体がバンに叩きつけられた。生暖かい血しぶきと臓物が飛び散る。バンの周囲に待機していたパンギル構成員たちが悲鳴を上げる。ジェイソンがそっと退き、バンの運転席に向かう。ホセは、現れたそれを真っ向から見据えた。

 廃ビルの内の影が具象したかのような暗黒そのものの怪物は、勢いよく道路に飛び出すと、バンの底部に手を差し込み、まるでオモチャを扱うように転がした。何人かが潰れる。怪物が別のバンの窓を拳で突き破ると、悲鳴と共に窓の内側に血しぶきが散った。パパパパパッ、と銃声が虚しく響き渡る。

「ちくしょうッ。動けッ!」ジェイソンは震える手でバンを操作しようとするが、上手くいかない。バックミラーに、こちらに向かってくる怪物が見えた。「ちくしょう」そこで、バンのエンジンがかかった。怪物など見なければ存在しないと言わんばかりに、ジェイソンはただ真っ直ぐ前を見てアクセルを踏んだ。―――それでも視界の隅に映っていたバックミラーから、怪物の姿が消える。ジェイソンにその意味を考える余裕はない。

 グシャッ、と衝撃と共に暗い影が車体の上部を塗り潰した―――ジェイソンの頭部も諸共に圧縮される。……鉄槌のような両拳をバンに叩きこんだ怪物は、蛇行する車体から跳び上がると事も無げに道路に着地した。電柱に激突したバンが火を噴く。

 もはやライフルの銃声は無く、ただ散発的にぱんっ、ぱんっ、と拳銃の音がするだけだ―――ホセだけが虚しい抵抗を続けていた。振り返った怪物の丸いガラス・フィルタに弾丸が二度三度突き刺さるが、一瞬弾痕じみて白く濁ったガラスは、すぐに透明に戻る。それでも、ホセは怪物が眼前に迫るまで銃撃を止めなかった。

「シド」ホセが呟いた。「これは、なんだ。教えてくれ」周囲には千切れた死体が散乱し、転がったバンが炎上している。勇壮なパンギルの戦闘部隊は、廃ビルの虚無に消えた。悲鳴だけが、まだホセの耳に響いていた。

 怪物は答えない―――ぐぐぐ、と10フィートの躰を曇天に伸ばし、遥か高みからホセを見下ろす。上を向いたホセは哀願ではなく、ただただ疑問だというように周囲を手で示した。「……これは、パンギルが安寧を得るための、最後の大仕事だった。怪物を殺して……めでたしめでたしって……」弛緩した表情のホセは、絞り出されるように言い訳じみた言葉を零した。

 ―――怪物はホセの首を掴み、持ち上げた。枷のように頑強な手を、ホセは震えながら押し開こうとし、足をじたばたとさせる。苦しげな表情で何か言おうとしたのも束の間、凄まじい圧迫が顔を腫瘍のように膨らませ、ただ苦痛で一杯になった。

『……オマエたちの下らない営みは、もう終わりだ』怪物が、ただカメラ・アイだけの顔から電子音声を放った。ホセは、それを聞き取れただろうか。直後、低く浸透するような破砕音が灰色の空に響き、消えた。―――怪物は首の折れたホセを落下させると、次の獲物を探すかのように周囲を見渡し、跳んだ。

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 廃墟じみたダイナーの窓際の席に、立ち上がって怒鳴り散らす男と、それを悠然と見返す肥満体の男がいた。店内にはカウンター奥の店員以外には、こにふたりしかいない。

「何を悠長に!我々も殺されてしまう!」叫んでいた男―――タカハシは混乱の極みといった様子で頭を抱え、座り込んだ。対して、肥満体の男―――アーマンドは薄ら笑いを浮かべるのみだ。「タカハシ-サン。不思議な話だ。そもそもアンタがオレたちの戦闘部隊を死地に送ったんじゃないか」

「アレはッ……ヤツが、そんな化け物になっているなんて知らなかった」「それに、オレたちの”商品”も、まるまるヤツの”チーム”に奪われたって言う訳だろ?―――アンタが無傷でオレの前にいるのが不思議だな」一瞬、アーマンドの燃えるような眼差しがタカハシに向けられた。「……今やオレも裏切り者だ。アンタたちと一蓮托生だよ」タカハシは弱々しく言った。

 そこで、ダイナーのドアが開く音がした。タカハシはビクリとして背後を確認し、アーマンドは少し首を傾けてそちらを見た。まだ10代に満たないと思われる子供だった―――タカハシはその少女を知っている。「キャス?」「ウチの”商品”か」アーマンドが笑いながら言った。「キャス?どうしてここに?」タカハシが疑念よりも心配の割合が大きい声音で訊ねた。キャサリンは帽子を深くかぶり、俯いているせいで表情が判らない。

 ―――サイクロプスとの計画では、彼のチームを利用して、子供たちの保護とタカハシのカンパニュラ内の地位の復帰を同時に成し遂げるはずだった。だが、彼のチームは子供たちの下には訪れず……その間にタカハシは、キャサリンから凄惨な体験の告白を受け、それがタカハシがサイクロプスを裏切った直接の理由になった。

「キャス。……仕方ない、一緒に帰ろう。クソッ。こうなれば、みんな一緒に国外逃亡だ」「ハッハッハ!そうでなくてはな、タカハシ-サン」アーマンドはニヤニヤとふたりを見つめている。「……その、なんだ?アンタの余裕は何なんだ?」タカハシは何か恐ろしいものを感じて、アーマンドを見遣った。

「我々はこのゲームを観覧しに来たのだよ」アーマンドの眼が黄金に光った―――アルゲースの端末の特徴。タカハシはキャサリンを抱え、バッと窓から離れた。「落ち着きたまえ。同様の機能を利用してはいるが……我々はカンパニュラそのものに属する集団だよ。タカハシ-サン」最後の呼びかけだけがアーマンドの口調の名残りを残していた。

「アルギースはよくやってくれた。端末たちを着実に増やしていき、ついにその近親者からパンギルのボスにまでたどり着いて支配することができたのだ。本来はこれでチェックメイトだった。……だが、いささか気を逸したと言わざるをえん。すでにこの老人が盤面に与える影響はわずかだ。無論、パンギルの仕事の数々は利用させてもらうがね……」

「あ……あんたたちはどの派閥なんだ?」タカハシが狼狽えて言う。「どちらでもない。和平を結んだという話を聞いていなかったかな?保守派にしろ改革派にしろ、カンパニュラの利益を最大にすることが共通の目標だ―――なるべく、”平和的”にね。もともと、その手段に、いささかの相違があっただけなのだよ」その語り方には、植物が根を伸ばすような、水流が岩石を削っていくような、短絡的で強大な力が滲んでいた。

「私をどうするつもりだ。……この娘だけは助けろ」「我々はどうもせんよ。我々はね……」アーマンドが優しげな眼でふたりを見る。「あああ……キャス、逃げよう。なんとか、ヤツに慈悲を乞うてでも」タカハシがキャサリンの肩に触れるが、少女はピクリとも動かない。「行こう。……お願いだ」懇願するようにタカハシが言った。

「まだ役者が足りない」ゾッとする冷たい声音。顔を上げてタカハシを見た少女の眼は、黄色い。「あ、あ……」「これは驚いた。アルギースか」「ええ。子供たちにはカルロがニューロルータを仕込んでいました。年少者ですからね。ちょっと手を加えれば端末にすることは容易い」少女の超然とした物言いに、タカハシは尻もちを着いた。

「……ああ、なるほど。では、今からここが、その舞台になるのだな?」アーマンドが訊ねた。「はい。……残念ですが、その躰は生き残れる可能性がありません」「まぁ、だろうな。……我々は君たちMAGEとあのサイクロプス、ほとんどフィフティ・フィフティで期待している。勝った方が新たな都市の支配者になるだろう」

「な、なにをいってる……」立ち上がったタカハシが震えながら言った。「なにがゲームだ!なにが支配者だ!結局アンタたちの掌の上だろうが!」タカハシは叫んだ。「そうではない」アーマンドは静止するように手を伸ばした。「我々は―――大工場カンパニュラは、常にツールだった。経済特区の諸外国からの注力で成長し、今でも世界の人々の需要を先んじて満たさんと企業努力を続けている。この街はその土台として必要だったから改良したのだし、パンギルによって政府を汚染したのもそのためだ」

 アーマンドは手を組んだ。「だが、今、ゲームの質が変わろうとしている。MAGEもサイクロプスもカンパニュラの顧客に相応しい資格を得ようとしているのだ。パンギルのように、自分たちの保守にしか興味のない者たちではない。他者から奪い、強大化し続けることのできる巨大な車輪たる資格だ」

 アーマンドが―――カンパニュラの何者かが大演説を終えた直後だった。タカハシは膝を着いて泣きそうになっていた。キャサリンは冷徹な眼差しで周囲を観察していた。……それが、訪れた。

 窓の外に、真っ黒な影が降り立った。遠近感や、日常や、常識というものをすべて吹き飛ばして、ただ存在していた。「ほう」笑んだアーマンドの顔が、暗黒の奔流によって窓ごと吹き飛ばされた。ダイナーに突き込まれた長大な腕を見て逃げようとした店員の頭が、ドンッ、と吹き飛んだ。タカハシは転び、失禁する。

「あああ……すまない。すまない。助けてくれ!」タカハシは廊下を這いずって逃げ出す。怪物はその脚を掴むと、壁に投げつけた。タカハシが血を吐く。怪物は肉食獣のように身を屈めてダイナーの中に入る。「サイクロプス」呼びかけた少女に、怪物がぬっと顔を向ける。―――カメラ・アイに映ったその顔は、いつぞやの海岸模倣施設で悲鳴を上げた少女のものだ。

『オマエがタカハシに告げたわけか』ただの事実確認といった怪物の言葉―――少女は頷く。「だが、オレもそれらしい姿を目撃している」アルゲース端末は眼を輝かせる。「別件だろうがな。―――そこから、おまえの存在がずっと気にかかっていた」『そうか』―――刹那、獰猛な筋力が充填した怪物の躰、その側頭部に衝撃がぶち当たり、影となって倒れこんだ。

 ……ハイウェイ周辺のビル街。あぐら姿勢で銃を構えていたアルギースは顔を上げた。「オイオイ……」頭部に銃弾を受けた怪物が……立ち上がっていた。「戦車だってぶち抜ける代物だぞ……」アルギースが構える銃は、かつて使用していたものより遥かに巨大で無骨なものだった―――それは、彼が言うように現代の分厚い装甲を持つ戦車すら撃ち抜く異形の対戦車ライフルだった。起き上がった怪物の頭部には巨大な擦過痕がある。分厚い皮膚、装甲、筋肉、骨格、さらには円筒様の頭部形状―――もはや怪物狩りと称して何ら遜色ない。

「さて、と……」怪物がまっすぐにビル街に眼を向けた。と、思う間も有らばこそ刹那の内に視界から消える。それを見届けたアルゲースは立ち上がり、ジェット・パックを背負うと移動を開始した。「MAGEの力を見せてやろう」

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 さびれたバンガローの上を、ショッピングモールの駐車場を、外国人向けのホテルの屋上庭園を駆け抜けて、怪物はハイウェイ街に辿り着く。何層にも渦巻くハイウェイと、聳え立つビル群、そして、その間を満たすように拡がる人々の営み。曇り空の下、ケガや負傷をサイバネで補い、むしろ肉体を強化する売り子たちが、今日もハイウェイで危険な街頭販売や呼び込みに従事する。

 ずん……と、そこへ、ゴムの怪物みたいな巨大な影が現れた。突如ハイウェイに生じたそれに、売り子や車の運転手たちが眼を丸くする。車両が我関せずといった調子で別車線へ避けていく中、怪物は頭を上げて周囲をきょろきょろと窺っていた。―――その時、ハイウェイの彼方から売り子たちを媒質に巨大な存在感が漣のように伝わってきた。

 怪物はそちらを見遣る。そして、何気ない動きで横に動いた怪物の脇を、轟然と何かが過ぎ去っていった。―――直後、爆発。

 ハイウェイ上のあらゆるものが、一方向への強烈なベクトルを抱えて吹き飛んだ―――ただ怪物だけがその勢いを利用するようにして爆発の主へ向かっていった。―――再び、凄まじい勢いの飛来物が脇を抜け、停車していたスポーツカーに着弾した。ドォン!逞しい売り子たちの間に叫喚が満ち溢れる。

 怪物の接近を察知してか、停止していたそれが後退し始めた。平たく、ごつごつとしたシルエットに、あの暗黒色の怪物に対峙するに相応しい漆黒の躯体―――それは戦車であった。……いや、それに類するなにかであろうが、中央に備わった砲身こそそれらしいものの、前後左右に自在に動くホイール、全体に過剰に搭載された銃身……そして、車体上部にちょこんと装着された軍帽が、戦車ですらない何か恐ろしいテックの怪物なのだと誇示していた。

『―――久しいなァ!サイクロプス!』先ほどの轟音と道路から立ち昇る噴煙を恐れてか、車両の流れは完全に停止し、矮小な人間たちの鳴き声だけが聴こえるハイウェイに、傲然とした電子音声が放たれた。『あの武器庫で貴様と戦えなかったことが心残りでなァ!こうして新たな軀で現れたというわけよ!』MAGEの幹部―――ウォルター。動物園の戦いで重体になっており、タカハシが保守派に引き渡す予定だった―――当然、ご破算になっているはずだ。

『死にぞこないが』怪物もまた大音声の電子音声で応じた。ハイウェイに倒れた者たちに、それはどこまでも乾いていて無関心な重機の咆哮にしか聞こえなかった。

 ドォン!―――時速30kmほどで後退しながらも、戦車もどきは次々と徹甲弾を撃ち放つ。ドォン!怪物はそれを巧みに避けつつ、徐々に距離を詰めていく。『どうした!?弾の一発でも受け止めてみたらどうなんだ!サイクロプスゥ!』哄笑が風に流れていく。『……ム』その時、ウォルターの背後に、乗り捨てられた車両の列が見えた。怪物の眼が光った。

 停車した戦車は昆虫の触覚めいて砲塔を動かし、二度怪物に砲弾を撃ち込んだ。怪物は稲妻のような体捌きで避けると、銃の魔獣に拳を振り上げた。―――刹那、怪物の躰が傾いだ。肩に銃弾が突き刺さっていた―――アルギースの狙撃。

『MAGEの力を思い知るが良い!』ドォン!―――体勢を崩しつつも伸ばしていた右腕が、散った。衝撃で怪物が大きく仰け反る。同時に……ウォルターの影が膨らむ。まるで躰を縮こませていた節足動物が肢を展開したような変化だった―――ウォルターは四本の肢で立ち上がる。

 ウォルターの姿は、今や面前の怪物以上の異形だった。四本の肢に支えられた上半身は装甲と銃身に満ち、胴体のど真ん中には迫撃砲じみた砲身、そして頭部には、軍帽のみならずウォルターのものたる銃身が三つ生えた顔があった。『もはやMAGEに戦えぬ地は無し。世界全てに銃弾の祝福を』

 敵の変形を見て取った怪物は、猫のように対向車線に跳び込んだ。『ハハハハ!』銃弾と砲弾が、天災を超えた破壊を渋滞した車両の列に叩きこむ。爆炎の中、怪物は一層下のハイウェイに逃げ込む。『よくよくこの街の連中は敵前逃亡が好きと見える!』鋼鉄の魔獣はギチギチと肢を動かし、怪物を追ってハイウェイを飛び降りる。

 上層での異変など知らん顔で行き交っていた車両と、知ってなお働くのを止めなかった売り子たちの間に、上層で起こったのと同じ反応が生じた。―――眼を丸くし、次に無視し、爆発が生じ、死と絶叫が巻き起こった。ただ、今度は怪物のほうが逃げ惑うばかりで、一方的に追い立てるのは昆虫じみた形態に変形したMAGEの兵器だ。

 ……『ウォルター。おびき寄せられているぞ』アルゲースが通信を寄越す。『判っている。ヤツに適応された技術であれば、止血などすぐなはずだ』速度ではサイクロプスのほうが圧倒的に勝る以上、痕跡を残さなければアサルトモードのウォルターなど簡単に撒けるはずなのだ。

『フン。だが、奴がどこに誘い込むにせよ、お前の端末共が見ているはずだろう』『まぁ、そうだ』……アルゲースの端末は、もはや都市の大部分に拡がっている。無論、行動を正確に操れるレベルとなるとごく少数だが、ただ視覚をジャックするだけのレベルならば、都市を網羅したと考えて支障ない。

 MAGEのふたりは怪物のスペックをある程度把握している。サイクロプスと並ぶニューロルータ技術の最初の適応者であるアダムが率いる第四兵器開発部が、怪物の新たな躰を組み上げたのだ。―――それは人間が創る最強の獣とでも言うべき、オーバースペックの化け物だった。

 だが!ウォルタ―はハイウェイから降りて都市の下層に逃げ込んでいく怪物を追いながら、快哉を上げる。『銃弾のエネルギーと、鋼鉄の堅牢さには決して勝てまい!』

 怪物が道路を駆け抜けると、人々の悲鳴と倒れた自転車やバイクの音が余波のように拡がっていく。怪物を過ぎ去った道路沿いの電気店で、喧噪を嫌ってか店主が街頭に並ぶテレビの音を上げた。『……続報です。亡くなったのは20代と見られる……』『……腹部を重機のようなもので叩き潰され……』『……市内の風俗店に勤める……』その画面に、雑誌から切り取ったと思われる写真が載る。颶風が舞い、タンク・モードになったウォルターが道路を駆け抜けていった。轢き殺された人々の血の轍が道路に残る。

 ……ゴロゴロと暗雲が音を立てた。ウォルターは路地に消えた怪物を追って、小さな商業ビルの屋上に登った。蜘蛛のような動きでビル上を飛び渡り、浮浪者に混じったアルギース端末の黄色い眼差しに応じて、獲物を追う。もはや血の跡は残っていないが、敵もこちらが追ってきているのを判っているだろう。

『ヤツは地下駐車場に入る……援護ができん』『もとより追いついて来ていないだろう。地下か……フン。浅知恵だな』ウォルターはタンク・モードに転身し、ビルの下に大口を開けた暗闇に突入する。―――闇の向こう、暗黒そのものの躰に猛獣の熱を宿した怪物がいた。

『1対1なら負けないとでも思ったかね!』大音声が木霊する。ドンッ、ドンッ、と怪物は尾に装着した銃を撃つが、ウォルターにとっては豆鉄砲に等しい。そして、ドォン!地下であることなど一向に構わない鮮烈な放火が暗闇に炸裂した。

 ウォルターは再びアサルト・モードになり、車列と柱の間を縫う怪物を銃火と放火で追い立てる。弾丸はまだまだある。必要であれば補給ポイントも使用できる。ウォルターは地下に反響する戦争の唄にうっとりと耳を傾ける。

 ……気付けば怪物の姿はない。ただ夥しい出血と、千切れた尾―――マレンゴを思い出す―――が散らばっていた。『そろそろ限界だろう!』そう謳いながら、血痕を追うと、もう一方の出口に繋がっていた。

 ザアアアアアアア―――いつの間にかノイズのようなスコールがやって来ていた。烈風が世界を揺らし、排水溝は凄まじい音を立てている。『サイクロプスは見えたか?』―――反応がない。一瞬、アルギースのほうが狙われたかと考えたが、距離があまりに離れすぎている。ニューロルータ通信用のジャミングだろうか?なるほど、小手先を弄する怪物の切り札に相応しい。

『……これが狙いだったのかね!スコール程度で我が銃弾の雨が弱まるとでも!?』ビルに挟まれた無人の道路で、暗雲を仰いで鋼鉄の魔獣が咆哮した。豪雨が道路を煙らせる。先よりの轟音で、人々はこの一帯から消えていた。

 ザーッ……ウォルターは道路に踏み出し、慎重に周囲を窺う。MAGEの幹部たちの死に様は、ことごとく不意打ちと奇襲によるものであった。なるほど、銃の魔術師たちに対して凡人が抗おうとすればそうもなるのであろう。だが、もはやこの躯体はそのような次元を超越した。爆薬であろうが、化学兵器であろうが、電撃であろうが負けはしない……!

 ……ウォルターはまったく遅滞なくそれの出現に気づいた。道路の少し離れた地点に怪物が出現していた。滝のような雨に寸断された影の中、カメラ・アイだけが不気味に輝いている。ウォルターはすぐに発砲せず、躰を慎重に怪物のほうへと向けた。

 ―――ドォン!海嘯が岩にぶち当たったかのような水の爆発が生じた。怪物は躰を滑らせ徹甲弾を回避するが、そこへ横薙ぎのスコール―――銃弾の雨が襲い掛かる。ライフルの斉射すらものともしない皮膚をもつ怪物だが、その鋼の逆風の中を突っ切って来られるかは別の話だ。

 怪物は道路を横切るように駆け、銃弾の雨はそれに追随する。壁際まで追い詰められた怪物は……跳んだ。そして、そのまま壁に着地して駆け出す!『ヌゥッ』上向くウォルターの銃撃が窓を割り、砲弾が壁面を叩き壊すが、疾駆する怪物に追いつかない。―――スコールの影響などないと豪語したウォルターだが、実際には風速15m/s付近の台風じみた烈風と、天然の弾丸じみた雨粒は確実にこの銃の魔獣の動きを阻んでいた。

 一方で、怪物はまるで己が領域こそ此処に在りといわんばかりに全霊の動きを発揮している。スッ、とビルを駆けていた怪物が消えた―――滑って落ちたのだ、と考えるほどウォルターは愚かではなかった。反射的に砲口を地面にねじ戻した時、突風の後押しを受けた怪物は、すでに足元にいた。

『おおぉッ!?』怪物はウォルターの肢を掴み、投げ上げた!180℃転倒した四肢の兵器は体勢を立て直そうとするが、その一肢を再び怪物が掴んでいた。ギギイィィ!鋼鉄の機構と人工筋肉が引き千切れる複層的な異音が、雨の中に響く。『貴様!』股下に向けて銃弾を放つが、それは到底決定打にならない。

ギギイィィ!ギギイィィ!ギギイィィ!サイバネ四肢をすべてもぎ取った怪物はその断面に手を触れた。掌から珊瑚の触手じみた何かが伸び、断面に分け入っていく……。『何を……何をしている!』『このままオマエをばらばらに引き裂いても良いが……時間が掛かる』怪物は淡々と言った。

 うつ伏せの状態になっていたウォルターは、体内で徹甲弾が蠢くのを感じた。『……!やめろ!やめろッ!』『おまえたちが、カンパニュラが、散々やって来たことだろう』ガコン、と砲弾が装填される。『ニューロルータ……精神も魂もあっさりと隷属させ、乗っ取ってしまう。馬鹿げた技術だ』『やめろ!』怪物は手を離す。直後。

 ドォン!―――くぐもった衝撃が大地を揺らした。接地した状態で砲撃した鋼鉄の躯体は衝撃でわずかに跳ね上がった。ウォルターはこのような成りでも、元は人間である―――ビルからの落下など比較にならない凄まじい衝撃は、体内に保護された脳髄を完全に破壊していた。

 怪物は空を見上げた。巨大な口腔のような暗雲からは数え切れないほどの雨粒が降り注いでくる。一瞬、怪物は浮遊感を幻覚して、すぐに、完全に人ならざるものに変じた肉体の重みを自覚した。

 怪物は駆け出した。

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 つい数分前まで都市を押し潰そうとしていた暗雲は、すでにこの地に興味を失ったかのように空の彼方に移動していた。傾きかけた陽が青空に黄金を宿す。

「……一つだけ訊きたいことがある」アルギースは未だ雨粒が輝き、突風が吹き荒れるビルの屋上で呟いた。背後の気配が身じろぎした。

「オレがこの都市に訪れて最初にあんたを―――あんたらしい影を見たのは、あるゴミ山だった。そういう場所に住んでるような連中から支配していくのがオレのやり方なんだが……そこで、端末が殺人を見かけた。大男が女を組み拉いで、ナイフで腹をかっ捌いてた」アルゲースは風に吹かれながら都市を見下ろしている。

「まだ数少ない端末を危険に晒したくなかったから、良く見ちゃいなかったが……あれはあんただったんじゃないか?それに、今はオレの端末になったキャサリンってガキも、あんたを見ていた。端末とはいえ、さすがに映像記憶までは参照できないが……タカハシに、母親が殺されたとこにあんたがいたって告げてたよ。だからタカハシに裏切られたわけだ」

「最後だ。……オレの端末がジェニィって女の死体を見つけた。ひでぇ死に様だったよ。いま、ニュースにもなってるはずだ。……アンタの女で、アンタが殺したんだろ?なんでだ?それが訊きたい」アルゲースは振り返った。

 彼が良く見知った防護コートの男ではなく、そこにはやはり完全に姿を変えてしまった黒色の怪物がいた。怪物が頭を上げた。『オレはサイクロプスだ』「怪物だから殺したって言うんじゃないだろうな」

『オレは誰も許さない。カンパニュラも、パンギルも、MAGEも、ガキを捨てる女どもも、意味も無く孕ませる男どもも……オレを乗っ取ろうとしたシドというやつのことも』

 サイクロプスの眼にアルギースが映る。そこにカメラ・アイを備えた少年の姿が重なる。5歳に満たない男の子は、矮躯を機械で補強されて元気に駆け回っている。―――少年が首を吊ったのは、ちょっとした入力ミスだった。遺伝疾患で正常に脳が発達せず、ニューロルータだけで構成された知性は、実のところほとんど外部からのプログラミングによって創られていた。

 ……構造化したニューロルータをそのまま破棄するのは、あまりに勿体の無い行為だった。だが、それを正常に発達させるには培地たる人体が不可欠だった。―――検体には同年代の少年が選ばれた。カンパニュラに検体として提供された捨て子に、名前は無かった。

『オレはサイクロプスだ』呪文のように繰り返すと、怪物は腕を伸ばした。逃げようとしたアルギースの顔に掌の影が掛かった。

 ……黄昏に返り血の散ったカメラ・アイが輝く。振り返り、陽をまっすぐに見つめ返した怪物の眼からは、雨粒が零れ落ちた。

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 各層のハイウェイ上には、高架を支える柱に蝟集したバラックから蟻のように売り子たちが展開している。車両のエンジン音にすら負けない元気の良い大声は、高架下の現地人たちの活発な営みに太陽のように降り注いでいた。高架下の日陰とは思えないほど明るい街路沿いには、衣服や食品、携帯端末など生活雑貨店が多数並んでいる。

 そこからわずかに離れると銀色のビル群が太陽を照り返して聳え立つ。そこだけは人々の営みも遠く、カンパニュラの威光を表すかのように冷然としている。

 都市を支配していたパンギルが滅び、その事業の数々は独立していくことになった。ハイウェイ街から離れ、少しローカルな地に踏み入れば、未だに銃の闇市場は盛況し、人身売買の餌食となった子供たちが路地裏で背を丸めている。そして、パンギルと抗争していたというMAGEの置き土産も都市に新たな光と影を投げていた。

 感情が高ぶると眼の色が黄色くなる人々を称して、ムーン・ゲイザーという名が生まれた。都市において珍しい部類の改造ではないが、本人たちの記憶の混濁などに共通点があり、今ではひとつの勢力になっている。その躰はグリップの無い奇妙な銃に適正があり、その奇妙な銃が見つかるとムーン・ゲイザーはそれなりの値で買い取ってくれるという。

 一方で、MAGEが残した積層造形機そのものは、そのエンジニアたる不法入国者たちを含め、都市に散逸した。彼らはパンギル崩壊後に雨後の筍のように生まれたギャングたちに囲われ、密かに武器を製造しているというが、この都市で造形機用の精緻な3D設計が行えるものは限られている。―――すなわち、カンパニュラである。

 ―――パンギルとMAGEが共倒れした巨大な抗争の果てに、あるフォークロアが生まれていた。妊婦と子供を襲う単眼の怪物の話だ。それは抗争の後で明らかになったカンパニュラの過去の人身売買の記録や、ゲート内の者たちの無責任な行動、あるいは捨てられた子供たちの末路……そういった話と、未だ未解決の妊婦連続殺人事件が混同されて生まれたものだろう。

 だが、実際に単眼の怪物に襲われたという話や、そいつが妊婦や子供を殺したという目撃情報も少なくなかった。ネット上にアップされた路地に蠢く人影と、満月のような瞳の動画は世界中で再生されている。

 この噂は、どこまでも明るく、暴力と熱狂に満ちていた都市の夜に、ほんの少しだけ得たいの知れない恐怖を生み出していた。

 それでも、人々は産み、増え、営みを続けるだろう。

 そして、サイクロプスの眼はずっとその様子を映し続けるだろう。

(⑥完 「サイクロプスの虹彩」完結)

 


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