贖児の空
――溺れる!
目覚めた瞬間、おれは赤子の手の中みたいな弾力のある暗闇にいて、溺死への恐怖から逃れようともがいていた。
縮こまった手足は満足に動かない。ストレスとパニックが身体中を荒れ狂う。もどかしさを振り切るように、ただ無心で暴れた。
……どれくらい経ったろう、己を包む分厚い膜の外に、ふと妙な圧力を感じた。
それは、手だ。誰かが外から触れている。
直後、プツッと膜が破れる気配がした。
――助かる!
おれはその陥穽を起点に暗闇を力任せに破りさいた。
光が目に飛び込んで来た。
「オオアアアァァーッ!」
口内に溜まった液体を吐き出してからヒューッと喉から肺まで一直線に空気を落とす。筋肉が、血液が、細胞が、新鮮な空気に沸騰する。
「はぁ……はぁ……」
……おれはアンテナめいて周囲を見渡した。社会から見捨てられたようなアパートの一室。生活感の無さが息の詰まるような静寂を助長する。閉ざされたカーテンは中天の陽を透かす。そして、足下には――
「――あ?」
腹を掻っ捌かれた女の死体があった。おれはその真っ赤な華みたいな腹腔の上に座っていた――いや、違う。おれはたった今そこから産まれてきたのだ。
脳を揺らす世界への違和感――
おれの肉体は十ばかりの子供のものであった。
女の右手には血濡れの物騒なナイフ。
その顔には仮面のような笑み。
……おれは、きっとこの状況に何か、感傷を抱かなければならなかった。
だというのに、胸中には”失敗だった”という失望の岩塊しか見当たらなかった。
そんな何もかもが異常な状況で――コンコンッというノックの音が響いた。
「すいませ~ん。隣の者なんですけどぉ、どうかしましたぁ?」
間の抜けた声――敵だ。身体の芯に深い緊張が走る。
へその緒を引きちぎり立ち上がる。カーテンから外を覗けばここは三階。裸体は血と羊水に濡れている。武器を探す。ナイフ。ハサミ。ハンガー。子供用の服。……
「すいませ~ん……」サムターンがゆっくりと回転する。
【続く】