GIVE&TAKEについて「内的自己」と「外的自己」の話から遠回りをしながら考えてみる。
人間は生まれてから日が浅い幼少期は「内的自己」しか存在しない。
そこから社会と関わることで徐々に他者社会の価値観が入り込んでくることで「外的自己」を形成していく。これは建前とも言い換えられるし、ある種の外向きの仮面とも言えるだろう。
この「内的自己」と「外的自己」のバランスを司るのが「自我」であり、この自我を失うと内的自己と外的自己の解離、すなわち鬱病や解離性障害に繋がってしまう。
では、このバランスを失う原因はどのようなことが挙げられるだろうか。
例えば考えられることとしては、「極端な内的自己の縮小化」もしくは「極端な外的自己の肥大化」が挙げられるだろう。
「内的自己の縮小化」は、自分とは何者か、自分の軸は熱意は何か、何のために生きるのか、などの問いに向き合わない/向き合えないことが要因で、自分自身に対する"意味"を見失ってしまうことだと考える。
「外的自己の肥大化」は、他者社会に目を向け過ぎることで、外向きの仮面を重ね過ぎ、他者社会の価値観に縛られて、本当の自分を見失ってしまうことだと考える。
現代社会において、あらゆる情報が溢れて入り込んでくる状況の中、外的自己の肥大化を回避することは困難であるが、最近注目されている禅などによって無我の境地を追求することで対抗することができるのかもしれない。
もしくは、内的自己を徹底的に深めることができれば、内的自己の縮小化に対抗できると思うのだ。
内的自己を深めるには、哲学などの深淵なるまでの思考や内省、哲学対話によって本質的な問いを深めていくことがこれからの時代に更に必要かつ重要になるだろう。
他には信仰を深めることも、確固たる自己の軸を確立するためには有用かもしれない。信仰は宗教だけではなく、師と仰ぐ人や思想を見つけ、守破離していくことも含む。
いずれにせよ、内的自己を深めるためには「暇」を作らなければならない(暇と退屈の倫理学より)。
「暇」を持つことで哲学や信仰をする余裕が生まれるからだ。
さて、何でこんなにも長々と内的自己と外的自己の話を書いているのかといえば、それはGIVE&TAKEを読んで、
「成功するGIVERは内的自己を軸にGIVEをする」「成功しない/搾取されてしまうGIVERは外的自己を軸にGIVEする」と整理できると思ったからだ。
内的自己を軸にするGIVERは、自らの信念や熱意を基にGIVEする。ゆえに能動的なのだ。
一方で外的自己を軸にするGIVERは、他者社会に目を向け過ぎて(忖度し過ぎて)、何々しなければならないという観念で自己犠牲的にGIVEしている。視点が他者社会にあり、受動的なのだ。
ゆえに、GIVE&TAKEが求める成功とやらを手繰り寄せるのならば内的自己を深めて確固たる自分の軸を持ち、祈りを込めてGIVEする、すなわち贈与することよりほかに無いと思うのだ。