短文エッセイの勧め

 文章を書くことは第一に相手に理解されることを願って言葉を綴ります。時間を置いて読み直すと文章の流れの悪さなど不出来が良く分かり、文言の前後を論理的につなぎ直したり、不要な言葉をそぎ落とし流れを良くする「推敲」を必ずすべきです。
 人それぞれの信条や美意識、考え方が文章に投影されて、「文は人になり」になる工程です。
 400字詰め原稿用紙3枚以内、字数にして8~1000文字、用紙の前後に空き(余白)をつくり見た目の美しさも重視。また漢字を多用するな。特に知ったふりをしたいのか、やたらと難しい漢字を増やし、本来のかなの部分を漢字に変換する人がいるが、水墨画と同じように人間性も疑われる。びっしりと隙間のない升目用紙は息が詰まると同時に読む気をなくします。

推敲で一定の流れができると自分枠を超えた領域まで導かれることがあり、これが文章の良い部分です。

  エッセイ もののあわれ 昭和54年

雨脚が激しくなったので私は釣りを中断して岸辺の林のなかへ雨宿りに入った。渓谷は山が迫っていて日暮れが早く、まだ四時なのに辺りの谷間は消入りそうに薄暗い。
林の梢から落ちる雨粒が私の菅笠を音をたてて打つ。雨具を着ていたが背中が破れ雨が滲みて背筋が寒い。下半身も水の中に立ち込んでいたからずぶ濡れで、私は濡れネズミのようにみじめな姿である。茂みのなかで腰を下ろすと、むきだしの木の根が蛇のように這い、シダが垂れて不気味だ。

こうして無人の川辺で寒さに震えていると、無性に人恋しくて温かな食卓や家庭のぬくもり、人の和などが貴重に思え、逆に争いや欲望、贅沢がつまらなく感じて健康や愛、生命など人間の本質的な価値観に目覚める。雄大な大自然のなかの孤独な釣り師は、人間のはかなさ、小ささがしみじみと身に迫り何が大切かを教えてくれる。対照的客観の「もの」と、感情的主観の「あはれ」が一致して生じる調和的情趣の世界である。寂しさとみじめさで無限の豊かさがあることを知った。

私の足元には同じように雨宿りする一匹の虫がいた。この心寂しい時に出会う一匹の虫、一輪の花は命の仲間として私に強い感動を与えた。悠久な自然と私が連帯し同化した瞬間で、静かに辺りを見回すと私の周りは私の仲間 たちで一杯であった。

雨あがりの郡上路はいつの間にか春の装いを見せていた。ついこの間まで寒さに震えていた冬枯れの樹木は鮮やかな若草色の葉を小枝の隅々まで萌えさせている。 柔らかそうな若葉は春の陽を透かして通し、全体が沙のベール越しに見るように淡くて霞んでいる。 そして前夜の夜露なのか朝陽に映えて無数の宝石を散りばめたように輝いている。
 私は思わず釣り竿を置いて、自然が奏でる春の序曲に聞き耳を立て余韻に浸った。すぐ目の前の樹間からこもれ陽が斜めに湿った大地をスポットライトのように差している。この陽溜りの下では冬の期間に眠っていた微生物や虫たちが、 春の気配を感じ取って地上に這い出る機をうかがっているだろう。
 土手の斜面には紫のじゅうたんを敷き詰めたように蓮華草が咲いていた。どこかで小鳥がさえずっていて、農家と石垣の山吹も春の陽を浴びてのどかである。太陽が凍てついた大地に生命を降り注いだ。 野辺の堆積物は分解し発酵して豊穣な土と化すだろう。生きとし生きる全ての生物の息遣いが聞こえてくる。 私は深呼吸をすると生気が身体中に満ちてくるのを感じた。1983.7

一期一会

私の店の近くに大企業の社宅がありそこの住民は知的でおしゃれのセンスがよくて都会的な雰囲気あり、奥様たちは文化教室の習い事に通い、私の妻はその優雅な生活ぶりえを羨ましがっていた。
 だが歳を経てようやくその誤りに気が付いたようである。一流社員は転勤が多くて子供が高校生ぐらいになると単身赴任か子供の下宿探しが待っている。また老人や病人を連れての転勤や、なじみのない土地で葬儀をしたという話も聞く。
 それに比べてわが妻は雨が降ろうが桜が咲こうが動かなくてよい。また接客業だから友人が多くて休日ごとにテニスが楽しめてようやく平穏さを感謝できるようになった。
 春が来て社宅の小学三年の少年が別れを告げに来た。「ぼくお父さんから転勤を聞いてまっ先に理容室ツツミさんのことが頭に浮かんだ。だって絶対にお別れを言いたかったから」私に何事も話してくれる少年はそう言った。 「そう転勤するの、寂しくなるね」私は毎年のことだから多少社交辞令で答えたところ、少年の瞳に見る見るうちに涙が溜り私は自分を恥じた。 そして少年が好きだった店の本をプレゼントしながらあらためて「寂しくなるね」を言い直した。1980.4

晴耕雨読

老後を田舎で暮らしたいと髪を切りながら客人に話すことがある。反応はいずれも買い物は?、病院は?と不便さを指摘する人ばかりであった。
 清流沿いに菜園とテニスコート付きの民宿を建てて、その一隅に電気、ガス、水道の無い粗末な草庵をこしらえ、病める都会人の憩いの庵とする。晴れの日には土を耕したり、テニスのボールを追う単純で本能的な興奮を体験して、自然の恵みや健康に感謝のできる心を作る。 
 雨が降れば土を捻って陶器を作り、墨をすって水墨画やエッセイを書く。くどくならないよう筆を惜しむ精神で、自分の住む環境や地球を見つめ直すよい機会だ。それは自らを省みる機会でもある。
 そして蜩の鳴く夕暮れ時に無人の渓流で釣りをさせて「もののあはれ」や「侘び寂び」の境地に触れさせる。 闇の迫る渓谷は侘びしく心細くて、人間はいかに小さな存在か、はかない存在かが身に滲みて、人間の本質的な価値観に目覚めさせる。
 非合理的、非科学的自然の中の孤独は逆に無限の豊かさが有り、自分を謙虚に簡素にすればするほど自然と連帯した豊かさを知るだろう。
 釣りから帰った客人を薄暗いランプのしたで古びた器を用いて熱いお茶で亭主がもてなせば、冷えた身体にしみじみ人と人、人と自然の関わりが広がり、命、健康の喜びに浸れるだろう。素晴らしいなァ、、、、。
 聞いていた客人はあっけにとられて返す言葉を失い、どうも私は変人に思われているようである。 1992.5

頭に付ける薬

客「私の頭のテッペンは少し薄くなったでしよう?」  
店主「そうですね、多少明るくなりましたね」
客「なんか良い薬はないでしょうか」   

店主「むずかしいですね、これは老化現象ですから自然の理に逆らうことをするわけですからね」
客「そうですか、101もだめですか」 店主「だめだめ、あんなもの気休めだけです」
  このやり取りを聞いていた妻は客が帰ったあと私に怒った。「あんたはなんという薄情な人なの、思いやりというものがないのかね、どうして人の望みを断つようなことを平気で言うの、お医者さんでも癌患者には病名を明かさず希望をもたせるものなのよ、 それを面と向かって‘どうしょうもない‘なんて病人はどんな気がすると思うの。 私たちはヘアーのプロなんだから休日に釣りや陶器を作ってばかりいないで少しはかつらとか毛生え薬の研究でもしたらどうなの。
 この一言は妻の性格を端的に現しているが、しかし生物の老化という避けられない摂理を私に否定しろ嘘をつけとは無茶ではないか。それよりも私の純朴さ?を理解せず、ライフワーク、信条を奪おうとする妻の頭に付ける薬を開発したい思いである。1995.7

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一如

未開の奥地に住む原住民の生活をテレビで見ることがある。彼らは雨がしのげるだけの小屋に住み家財も少なく粗末な生活をしているが表情は屈託なくて明るい。
 また村で誰かが亡くなれば村人全員が泣き悲しんでいる。それに比べて私たち文明人は競争社会に疲れているのか表情が暗く、親殺し子殺しなど原住民には考えられない悲惨な事件があり、人間の幸せについて考えさせられる。
 原始的な社会ほど個人の生活は地域や自然と強い連帯感があり、素朴な信仰や行事のなかで生き、個人の喜びや悲しみは地域とか全体で分かち合っている。子供が一人亡くなると地域全体が泣き悲しみ弔いをする。
 それに対して私たちは住居にみるように外部と隔離対立するような重いドアと頑丈な鍵をこしらえ、また柵や塀でしきり屋内もプライバシーとかで個室が多くて、親子間でさえ連帯性を失っている。
 それでなくても社会が高度化するほど相対的に個々の人間は脆弱になっていくので、都会の雑踏のなかほど孤独感は強く個人を病的に歪めてしまう。

だが日本には先人が残してくれた世界に誇れる文化が残されている。自然を凝縮した生け花、俳句、和敬静寂の茶道、枯れ山水の盆栽、苔蒸す社寺の浄土の庭園と思索の小道、悟りの禅と筆を惜しむ水墨画、幽玄な侘び寂びともののあわれの世界など『和』の文化が残されている。
 いづれも日本人の自然観が源であり、原住民の素朴で穏やかな表情を現代人にもたらすものは先人が遺してくれた文化、自然の一員という揺るぎない連帯感にあると信じたい。1990.3

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