【短編】若君のいうとおり

プロローグ

「若君、早くこちらへ。早く」
 若君と呼ばれた少年は森の中を必死に走っていた。妖に憑かれた武士が後ろから迫ってくる。護衛の者がしんがりを務めているが討たれるのも時間の問題だろう。森を抜けた少年の前には海のような湖と一隻の小舟があった。三人の侍女が少年を手招きしていた。
「若君、早く」
 若君が小舟に乗ると、侍女達は懸命に櫂で漕ごうとした。舟はゆっくりと陸地から離れていく。やっと逃げ切れたかというとき、陸地から一本の矢が射られた。人間の力では届くはずのない距離であったが、その矢はまっすぐに若君に向かって飛んだ。
「若君、伏せて」
 一人の侍女が矢と少年の間に立ちはだかった。矢は侍女の左肩に命中し、その侍女は血を流して倒れた。瞬く間に左手が変色して動かなくなった。
「絵が描けなくなってしまうではないか」
 若君は、涙を流しながら侍女に刺さった矢を引き抜いた。
「よいのです。若君が無事なら」
 侍女は朦朧としながら力ない声で繰り返している。少年は誓った。何度生まれ変わろうとも侍女達を守らねばならぬと。

本編

 孝は悪夢にうなされて目を覚ました。夢とは思えない臨場感。倦怠感がひどい。それでも起きあがって別室のアトリエに向かったのは、夢の中の情景を絵に描きおこしたかったからだ。アトリエには、描きかけて打ち捨てられたキャンバスが積んである。この一週間、孝は一度として絵を最後まで描き切れていない。スランプだった。
 コンクリートうちっぱなしのリビングの中央で、孝はイーゼルに新しいキャンバスを乗せて夢の情景を描き始めた。もともと左利きの孝は、幼少の頃に矯正を受け右手で筆を握っている。しかし、右手で描く絵は、記憶に補完されている印象で、描きたいイメージそのものではないという想いを拭い去れなかった。左手で筆を握ろうとしたこともある。しかし、いざ描こうとすると頭の中のキャンバスが見えなくなって描けなくなる。孝は失意の中アトリエを後にした。
 一日はあっという間に過ぎた。何もかもがうまくいかない。画商との交渉も頓挫した。厭世的な気分に飲み込まれた孝は、新宿の繁華街に繰り出した。
 孝は安い酒を浴びるように飲んだ。金はないが、とにかく酔ってしまいたかった。店を出てフラフラと歩いていると、路地裏から自分を呼び止める声がした。
「スランプの画家の方」
 孝は声の方へ吸い寄せられた。周囲に自分以外にスランプの画家がいるとは思えなかった。そこには、いかにも怪しそうな占い師の女性がいた。薄い生地の布で顔を覆っているが、どこかで見たような端正な顔立ちをしている。ただ、目の中に生気がない。
「左腕に憑いていますよ」
「えっ」
 占い師の言葉に、孝は思わず左腕を押さえた。ちょうど悪夢の中で矢が刺さったあたりを。
 占い師がニヤっとした笑ったのがわかった。孝は背筋に寒いものを感じて路地裏から逃げ出した。孝はお化け屋敷には入らない主義だった。
 次の日も同じ悪夢にうなされた孝は、気晴らしに美術展に向かった。孝は学生時代にもスランプを経験したことがある。そのときは、気に入った作品を前に、筆のタッチが想像できるまで鑑賞することで乗り越えることができたのだ。
 孝は一通り展示を見終えた後、一番気に入った作品の前で立った。自分と作者を同調させるために意識を集中していると右肩がトントンと叩かれた。振り返ると、全身黒いパンツスーツを着た女性がニヤリと微笑んだ。服装こそ違うが、昨日の占い師だった。
「あの、左腕なんですけど」
 孝は、占い師の手を払って逃げた。女が追いかけて来る気配はなかった。
 孝はその次の日も悪夢にうなされて起きた。今日は一歩も家から出るまいと決意し、食事は出前で済ますことにした。
「こんにちは。出前です」
 女性の声に聞き覚えがあった。しかし、出前だというのだからさっき頼んだ出前なのだろうと孝はドアを開けた。
「あの、左腕なんですけど」
 孝は無言のまま扉を閉じようとした。しかし、出前を届けに来た女性の足が挟まって閉められない。住所まで特定されてしまったようだ。孝は覚悟を決めた。
「なんなんですか」
「まず、出前ですね。はいこちら」
 出前の女性はずかずかと部屋に入って、机の上に料理を並べた。頼んでもいないじゃがバターが添えてある。
「本題なんだけど、左腕に憑いてるから」
「何が憑いてるって?」
「分かってるでしょ?妖がとり憑いた武士が矢を射たんだから祓うまでおちないよ」
「あんた、何を言って」
「大丈夫。全部知ってるから」
 孝は部屋を見回した。監視カメラでもついているのだろうか。
「監視カメラなんてついていないよ。憑いてるのは妖と悪霊。それに、君だけじゃないから。ここにくるまでに残りの二人のはなんとかしてきた」
 女性は淡々と話している。孝は何のことだかわからないというわけではなかった。夢の話と整合性が取れすぎている。
「それじゃあ、祓ってもらえますか。払えるお金ないですけど」
「私、見えるだけで祓えないんです」
「役に立たねぇ。そこまで言ったならなんとかしてよ」
「ちょっと傷ついたわ、私。でも、いいことを教えてあげる。祭の力を使うんだよ」
「祭?」
「そう。君の左腕に憑いているのは実りを邪魔する妖だから、そういったものを祓ったことが起源の祭に参加して、その儀式をなぞるんだ」
「で、具体的には何をすれば?」
「京都で行われる葵祭に行ってきな。後はきっとお導きがあるよ。そうだ、船岡山は見ておいた方がいい。きっと気に入るよ」
「一緒に行ってくれるんですか?」
「私は忙しいんだよ。占い師に、美術展の監視員に、出前のバイト」
「バイトだったんですか」
「ああ、もう時間がない。時給下げられちゃうよ。残さず食べるんだよ。特にジャガイモは絶対に残さないように」
 女性はバタバタと玄関を出て行った。孝は呆然と机の上の出前を見ていた。頭の整理が追いつかない。ストーカーか何かじゃないか疑ったのに、自分から彼女に近づこうとしていたようだった。箸をつけた時には料理はすっかり冷めていたのに、ジャガイモだけは温かかった。
 それから、孝はインターネットで葵祭について調べ、皐月の京都へ向かうことにした。
 生まれて初めて足を踏み入れた京都。しかし、妙な懐かしさを覚えた。関東出身の孝にとって、山といえば富士山だったが、船岡山に感じた親近感は異常だった。山といえば船岡山。孝は自分の辞書の言葉を書き換えた。そして一つ確信した。あの夢の舞台はここ京都なのだ。
 手提げ鞄を一つ持って朝の九時に京都入りした孝は、出店を見て回ることにした。葵祭の本題からは外れてしまうが、孝にとって祭といえば出店だったのだ。インターネットで調べたところ上賀茂神社と下鴨神社で出店があるらしかった。孝は先に上賀茂神社を見て、下鴨神社で行列を待つことにした。
「お兄さん、お面買ってよ」
 野太い声に呼び止められた孝は、お面屋の顔に親しみを感じた。間違いなくはじめて見る顔だったのに、不思議と引き寄せられてしまった。
「お面といえばコレだよ。千円でいいよ」
 あっという間に財布から千円が出て行った。手渡されたのは鬼滅の刃のキャラクター伊之助の面、つまり猪のお面だった。
「お面は手に持つもんじゃないよ。被るんだよ、お面は」
「は、はぁ」
 促されるまま猪の面を被った孝は誰の目から見ても不審者だった。子どもを連れているわけではない。いい歳の男が猪の面を被って立っているのだ。お面屋は笑いをかみ殺しているのか肩が小刻みに震えていた。孝が狐につままれた心地で歩いていると、何か柔らかいものを踏んだ。気にせずに歩いていると、ワンワンワンと足元で犬の吠える声がする。可愛い鳴き声ではない。威嚇というより噛み付く前の予告のような声だった。
 孝は、兎にも角にも全速力で走った。しかし、犬も走って追ってくる。繋がれていないのかと後ろを振り向くと、なんと飼い主も全速力で走っているではないか。確かに、犬と孝とでは犬の方が早いに決まっている。孝が犬に追いつかれなかったのは、飼い主が紐をしっかりと握っていたためだった。
 振り向いたときに体勢を崩した孝は派手に転んだ。お面を被っていて視界が悪い。左手に持っていた鞄をかばって思わず地面についた右手に激痛が走った。もしかしたら指の骨は折れているかもしれない。
「大丈夫ですか」
 犬の飼い主が話しかけてきた。犬の尻尾を踏んで逃げたのは孝だ。相手に非はない。
「ごめんなさい。犬の尻尾を踏んだ挙句走って逃げて転んで。自業自得ですね」
「ちょっと手を見せてください。包帯を持っているから、向こうで治療しましょう」
 孝は、犬の飼い主の男の言うままに治療を受けた。なぜか懐かしさを感じる。さっきのお面屋といい、京都は不思議な町だ。
「せっかくだから行列見ていきます?いい場所取ってあるんで」
「いいんですか。よろしくお願いします」
 渡りに船とはこのことだった。犬の飼い主のはからいで孝は有料観覧席で行列を見ることができた。時代劇とは違うその衣装は、孝が夢で見た世界観そのものだった。孝は思わず鞄からスケッチブックを取り出した。しかし、右手は包帯が巻いてあって鉛筆を握れない。
「左手で描いてみてはどうです」
 犬の飼い主のいう通りにしてみると、きれいな線はかけないものの、目の前の景色と頭の中のイメージがそのままスケッチブックに乗るような感覚があった。
「とれたみたいですね。憑き物」
「もしかして、占い師の仲間ですか」
「ええ、若宮さんの言うとおりにしました。お面屋の彼もです。ちなみに、馬に鈴ってつけましたか」
「いいえ、ジャガイモを食べさせられましたけど」
「ジャガイモ?馬鈴薯ですか。なるほど駄洒落みたいですね。まったく若宮さんは罰当たりな方だ。もっとも存在自体が罰当たりですがね」
「あの人、若宮さんっていうんですか」
「若宮さんは、昔の恩返しをしなければという想念に憑かれているんですよ。本当はもっと魅力的なはずなのに、目の奥が暗い。でも、君なら若宮さんを救えるかもしれない」
「いや、俺なんて何もできないですよ」
「君の本気の絵を彼女に」
「わかりました。描きたいモチーフがあるんです」
 東京に帰った孝は、一心不乱にキャンバスに向かった。左手に筆を持つのはまだ慣れないが、頭の中のイメージをそのまま表現することができた。
 孝が描いたのは、船岡山を背景にして少年を温かく取り囲む三人の侍女の絵だった。一人はお面屋、もう一人は犬の飼い主、最後の一人は孝本人の顔だった。けして美人ではないが、少年に向けられたまなざしは優しい。孝はスランプを脱していた。
 その日から、孝は絵を担いで町中を探した。繁華街の路地裏、美術展、そして出前を頼んだ店。どの店にも若宮はいなかった。聞いてみてもそんな人はいないという。諦めかけたとき、孝の家のチャイムが鳴った。
「左腕の件、どうなりました?」
 若宮だった。孝は若宮を家に招き入れた。
「若宮さん、この絵を見てください」
 若宮は、絵に見入っている。頬には大粒の涙が伝っていた。絵の中の少年は若宮に瓜二つで、瞳には明るい光が宿っている。
「ありがとう。魂が浄化される想いだよ」
 若宮の瞳にも光が宿った。もう陰気な雰囲気はない。孝は握手をしようと若宮に左手を出した。若宮もそれに応えた。しかし、その手は孝の手を通り抜けた。
「今度こそ矢を引き抜けたようだ。存分に絵を描けよ」
 若宮はそれだけを言うと、すっとその姿を消した。しばらくの間、孝は若宮のいた空間をただ呆然と見つめていた。

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