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いざ、色彩の海へ!~私のにじみ絵ダイビング記 みやがわよりこ
にじみ絵での色の体験は、深い夢の中にも似て、言葉にするのは難しい。マチスは、『画家のノート』の中で「画家は舌をチョン切らなければならない」と言っていたっけ。つまり、「絵描きなら言葉でなく絵で勝負せよ」ということだ。
でも、あえてなにかに例えるなら….そう、海の中に潜った体験を思い出した。もうずいぶん前になるが、ダイビングに挑戦したことがある。『にんぎょひめ』の挿絵を描くために、どうしても海の中を見てみたかったのだ。
プールでの講習の後、慣れないスウェットスーツを着て、酸素ボンベをかつぎ海に潜った。海の中は外から見たのとはまったく違う。別世界だ。水圧を感じつつも、身体は重力から解き放たれ宙に浮かぶ。波間からきらきらと差し込む光の中を色とりどりの魚たちのうろこが輝き、海藻がゆらめく。
にじみ絵はぬらした紙に描く。
<水を得た色たち>はふわりと浮かび、にじみ、広がる。いきいきと輝き、混ざりあい、紙の上は色彩の海となる……。
ダイビングではスウェットスーツを着るが、ここでは私は<すっぽんぽん>どころか<身体感覚>まで脱いでいる。ただ目を通しての感覚だけの状態だ。そんな私はあっという間に色彩の海に飲まれ、圧倒されてしまう。色の波間を漂い、驚き、見失い、沈みこみ、絶望する。かと思えば明るみ、浮かび上がり、高まり、陶酔し、憧れる。そんなさまざまな思いを心底味わう……
やがて溺れかけながらも水に心ゆだねることを覚えると、色に乗りなんとか泳げるようになってくる。すると、さまざまな存在と出くわす。
気ままでむじゃきな黄色ちゃん、暴れん坊のオレンジがかった赤こぞう、さびしげな青くんや、わけ知り顔の青紫おじいさん.......という風にありとあらゆる個性の存在たちと知り合えるのだ。
色彩の海の中では、色そのものが独自の意志のようなものを持っているらしい。それらが生き、関わりあう混沌の中に<これから生まれるかもしれない存在たち>の姿もちらちらと映り込む。海は命の宝庫だが、色彩の海の中にもあらゆるイメージ存在が住み行き交っている。無意識の深海の闇の中にはいったい何があるのやら?(くわばらくわばら)
泳ぎ慣れてくると、色とともに息をし、戯れることができるようになってくる。そうして色にまみれ我を忘れていると、ときおり息をのむような美に遭遇する。胸がすくような清らかな響き、調和、安らぎ、限りない充足…。感情を超えた精神の真実の世界が、閃くように垣間見えるのだ。
にじみ絵での<色のダイビング体験>を重ねると、色が生きていることを肌で感じるようになる。それがよくわかるのは、描き終わった時だ。
ふと外に目をやれば、いつもの景色がまるで生まれ変わったように鮮やかに見える。いきいきと輝き、色という色が押し寄せてくる!
樹や草の緑は命あるものの影であることがわかる。花は太陽や星のように輝き、夕暮れの空の色の繊細な変化も、胸に染み入るように感じられる。
感覚が若返ったのだ。
子どもたちは色が好きだ。「見て見て!」「うあ~きれい!」と色の変化に歓声を上げる。感覚が未分化だからこそ、「音を見」「匂いを聴く」ことができる子どもたちは、全身で「色を味わい」その栄養は身体のすみずみにまでしみ込んでいくかのようだ。そして生きた色たちと真の友だちになれるのだ。
そんな子どもたちが置かれている視覚的な環境はどうだろう?
絵本をひとつとってみても、黒い輪郭線に囲われたデザイン的な絵が多い。ぬり絵、アニメ、キャラクター……そこでの色たちは、さながら檻に入れられ鎖に繋がれた哀れな動物たちにも思えてくる。いや、スーパーのプラスチックのパックに入れられた魚や干物だろうか。目覚め、知的になることは、一方では乾き、固め、切り刻んでいくことでもある。カチカチになってしまったものは、あげくには壊れバラバラになっていくしかない。
にじみ絵でも、判に押したようなチューリップやおひめさまを輪郭で描こうとする子もいる。しかし絵の具は広がり、形は周囲の色に溶けてしまう。
水にもどせば干しワカメも元の姿になるように、にじみ絵は硬化しがちな私たちの感覚をみずみずしく蘇えらせ、やさしく誘う。
小さな画用紙の上に広がる、夢見るような命の源の海へと……。
自然育児友の会 会報 No.263 Mother to Mother