【愛しの女子たちへ】『めぐりあえた人たち』 ⑤「人生を変えた人―細川護熙元総理」
人生というのはわからないものである。思ってもいない方向に動きだす時がある。
1992年の6月がそうだった。あの日、日本新党の代表細川護熙さんが私の事務所に来られたのだ。日本新党ができた時の人々の熱狂は小泉さんや橋下さんを上回るものだった。たった一人で新党をおこし、既成政党に風穴をあけようと立ち上がった人がいたからだ。それも藤原家26代細川家18代目の「お殿様」である。
月刊文藝春秋に出た結党宣言は、それまで政治は遠い世界で、棄権はしないが投票したい党もなかった無党派といっていい私のような者にとっても胸踊るものだった。
一部を抜粋してみよう。
「荒海に漕ぎ出していく小船の舳先に立ち上がり、難破することも恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私は敢えて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う。歴史を振り返ってみれば、理想のための船出というものは、いつもそういうものだった。」
金権政治といわれスキャンダルにまみれていても、自民党は強固な組織と経済界からの献金で盤石な体制を40年近く続けており、その自民党を倒すのは難破も覚悟でなければできない時代だった。
私は、難破することも恐れず、理想主義の旗を掲げて荒海に漕ぎ出すというそういう生き方にしびれた。私もそういう人生を歩みたいとあこがれていたからだ。
難破するかもしれない小船に私も乗ってみよう。細川さんと共に、政官業の癒着を断ち切り、生活者主権・地方主権の政治を打ちたてよう―細川さんの勇気と熱意を後押ししなければ。ふつふつと熱い思いが私のからだ中にみなぎった。
とはいえ、私は小学校4年生の娘を抱えるシングルマザーにすぎない。
毎日のようにTVにコメンテーターとして出演し、週刊誌や月刊誌に連載があり、講演に走り回っていたとはいえ、しがない物書きである。第一、政治の世界は全くの素人である。女性をとりまく法律や慣行を変えたい、少子高齢社会で日本が生き残るには、既に3割となっていた「標準家庭」に焦点をあてた政治ではだめだと思っていたが、それだけで政治に参画する資格などあるだろうか。
「それこそが生活者の視点です。ぜひ一緒にやってください」
細川さんが日本新党を立ち上げたことは私の人生の大きな転機となった。
その年の参院選で私は落選したが、日本新党の執行部に常任理事として入り、広報を担当、コムネットという機関紙をつくり、女性生活委員会では女性・高齢者・子どもの政策を担当した。
誕生したばかりの政党はやるべきことが山のようにあった。女性にもっと政治に参画してもらいたいと「女性のための政治スクール」をつくり、党則づくりにも参画していたので「クオータ制」を日本の政党で初めて党則にとりいれた。
都議選やいつあるかわからない衆院の解散総選挙にそなえて候補者を確保しなければならず、党は公募制を実施したが、その一人に枝野幸男さんがいる。その衆院選のさなかに私は繰り上げ当選で参院議員となった。
2期目の選挙を迎える半年前、既に新進党を離党し無所属となっていた細川さんと新党を立ち上げるため新進党を離党した。参院の比例候補者としては新進党にいないと勝てない、5人だけの新党ではもう2期目はないという人もいた。確かにそうだった。しかし、細川さんが日本新党を立ち上げ、私を誘ってくれなければ国会議員としての私はなかったのだから、細川さんについていくのが当然だと私は思った。
私が離党した直後になんと新進党は解党。いくつもの党が乱立するが、1ヶ月も経たず、細川さんは羽田さん、鹿野さんらと民政党を立ち上げ、その民政党は3ヶ月後、民主党に結実する。
ここまで細川さんは読んでいたのだ。というより、日本新党代表として、結党からわずか2年で自民党を倒し、総理となった細川さんだが、すぐに与党復帰となった自民党を再び倒そうと野党結集に動いた。
読みの正確さ、これはこわいくらいの勘の良さと情報によるが、それだけでなく、行動の人なのだ。スキー、テニス、ゴルフとその腕前はプロ並みのスポーツマン。からだも勘がいいのだと思う。
一緒に食事などすると、私の取り皿に料理をとって下さったりと礼儀正しく優しい紳士だが、それに甘えて油断すると大変。こちらも常に勘をとぎすましていないと見すかされてしまう。私にとってはこわい師である。