そのときわたしたちは-その20

夫と相談して、隔離中にお世話になった守衛たちにお礼をした。

守衛にするお礼といえば、タバコが一番だと私たちは思っている。彼らは大抵喫煙者だし、吸わなくてもタバコはお金のようにやり取りできるから。例えば夜勤を代わって欲しい時、2、3本のタバコを渡しながらお願いする光景は至る所で今でも見られる。

さっそく仕事を終えて帰宅した夫とタバコを買いに行った。うちの担当としてあれこれ動いてくれた守衛に1カートン。他の人には一箱ずつ。

うちの担当だった守衛は本当にいい人で、いつでも気分良くどんな重たい荷物も運んでくれたし、私と夫の伝達係としても便宜を図ってくれた。タバコを渡すと彼はいやいや、仕事でやっただけだから、と断り、夫がいやいやこれは自分たちの気持ちだから受け取ってくれないと困ると言い張り、受け取ってくれたものの今度は多すぎるからみんなに分けないと、と言うので、みんなにもひと箱ずつあげるからこれは全部もらってくれ、とまたお願いすることになった。


そして自宅隔離は明けたものの学校の再開の目処は全く立っていなかった。そして隔離明けにわかったのが、学校の事務をされている日本人の方がうちと入れ違いで子供たちを迎えに日本に帰った後すぐにビザ停止になって戻ってこられなくなっていたことだった。

え?!今日本ですか?!

そうなんですよ。事務の仕事はオンラインでできるんですけど、そちらにいないのでご迷惑をかけるかも。すみません。

いやいや、オンラインでお仕事される方が大変だし。しかしそうか〜、ビザ停止にかかっちゃったんですね。

そうなんですよ。本当に数日の差でしたね。よりさんたちは運がいい。

そうだ、きっと私たちは運がいい。春節に旅行も行けたしビザ停止前に長女を日本に連れて帰れた。子供たちも両親も健康でなんとか毎日を過ごしている。

けれども。

長女は慣れない日本での生活で、大学が始まって友達を作ることを楽しみに準備していたのギリギリでにオンラインになった。住んでいる学生会館の他の住人はコロナ禍で皆実家に帰ったまま。友達もできず部屋で毎日課題をこなすだけの日々で、体調がおかしくなったと毎日連絡があった。

湿疹が全身に出た。月のものが止まってしまった(妊娠ではない)。どうして皆普通に外に出られるの?コロナが怖くて出られない。友達ができない…

どんなに心配でもネットで病院を調べたり愚痴を聞くしかできない。私が日本に帰ったらビザが無効になるので戻って来られなくなる。その間次女は?でも万一の時は私一人で帰国して子供達の看病をしなければいけないかもしれない。その話を夫と何度しただろう。

息子してもいよいよ学生最後の年で、就活していたが、コロナの影響で就活自体がイレギュラーになっていて大変そうだった。それでも理系学部ということで早々にオンラインは解除になり、研究室に息抜きに行けているだけ長女よりマシだと言った。

教授の紹介でバイトもしてる。職業訓練大学の講師。自分の大学はオンラインなのに、バイト先は対面授業をやってるんだよ、おかしいでしょ?

笑っていう息子に私はうまく笑えなかった。充分気をつけてね。お金より健康を優先してね、というのがやっとだった。

4月に入ると市内の感染者が0になってしばらく経ったということで屋外でのマスク着用義務が解除になった。屋内や公共交通機関はつけなければいけないし、皆まだ恐れていたので多くの人はまだマスクをつけていたが、大きな進歩だった。

外出制限も解除され、親たちは学校再開時期について噂をしはじめた。あらゆるsnsで情報交換がされ、憶測が飛び交った。学校からも逐次連絡があったけれど結局わかったのは市政府の指示に従って校内の感染対策を素早く行い合格をもらえた学校から再開できるということだった。

要するにお金持ちで権力に融通のきく学校が強いということだ。ローカルの有名校、私立学校、お高いインターが順次5月から再開した。次女の学校は改善して検査をしてもなかなか許可が降りずオンラインが続いていた。小さくて貧乏な学校はこういう時辛い。

5月も終わりになってようやく許可が降りたので登校再開できると連絡があった。しかし事務の方を始め大多数の日本人生徒は戻ってこれずオンラインのまま。日本人に次いで帰って来られないのはインド人という話だった。先生方が欠けることなく戻ってきていて再開の準備にあたっていたのは奇跡のようだった。

さまざまな新しいルールの下学校が再開された。食堂は閉鎖され、各自持ってきたランチを教室で食べる。教室の机は1.5m以上間隔が空けられ近づくことは許されない。廊下も一列で1.5m以上空けて歩く。屋外の体育と管楽器の演奏、食事以外はマスク着用、友達とのハグの禁止。保護者の入校も禁止された。毎朝スクールバス乗車時に検温し、学校に着いたらまた間隔を空けて並んで健康コードの確認と検温、手指の消毒をして話をせず決められたルートを1.5m以上の間隔を空けて通らないと校舎に入れないということだった。

この時次女は中学最後の年で、中学校の卒業式を控えていた。卒業式をやるかやらないかが次の問題だった。ほとんどの生徒が同じ敷地の高校に上がるので、やらなくてもいいと言われればいらないけれど、でも無いのは寂しい。

結局登校している生徒と先生で卒業式を行い、戻って来られない生徒はzoomで参加、親もzoomで参観という形式になった。

登校再開から2週間、よく晴れた日に卒業式が行われた。生徒と先生だけの寂しい卒業式。それでも半年前の状況を考えたら信じられない光景だった。

たった2週間行っただけでまた長い夏休み。新学期が始まっても日本人は揃わず、半数はそのまま本帰国を決めた。年齢的にも受験にかかってしまう年だったので、戻って来れてもまたすぐに本帰国になってしまうというのが大半の理由だった。結局年末までクラスメンバーが揃うことはなかったように思う。スタートから全員揃っていた韓国人はすごいとあらためて思った。

家もそのままで戻って来られない人ばかりだったので、リモート引越しの業者が乱立し、住人不在の引っ越しがたくさんあった。ペットホテルにも戻って来られないご主人を待つペットがいっぱいいると聞かされた。

少しずつ元の生活に近づいていくけれど元通りではない生活は今もずっと続いている。日本に帰れないまま2度目の夏が終わろうとしている。

孤独で体調を崩して泣き暮らしていた長女もなんとか立て直し、オンライン授業やサークル、バイトに忙しい様子だ。ようやく最近1回目のワクチンが打てたようだ。

息子もマイペースながらしっかりと社会人に向けてやってくれているはず…とにかく連絡のつかない人なので実態がわからないが、便りのないのは良い便りと信じるしかない。

私たちは長女のいない寂しさを埋め、先住猫の精神的ストレス(笑)を軽くするために彼の仲間を迎えて一年が過ぎた。ご縁があって我が家にやってきた子猫はすっかり大きくなったけれど人嫌いで先住猫にしか懐かない。彼の癒しパワーを求める存在が増えただけで、先住猫のストレスが軽くなっているかは謎だ。

こちらでも一年以上ぶりに感染者が出たし、変異株への恐怖もある。ビザは相変わらず基本的に停止されていて新しくやってくる人は皆単身赴任だ。隔離は自宅隔離は廃止され、強制ホテル隔離2週間プラス1週間の自宅観察が必須。いまだに自由に行き来できる目処は立っていない。

けれども私たちはここにいて、ここでとりあえず生きていく。仕事のために、学校のために、生活のために。いつか子供達が友人たちが以前のように気軽に遊びに来れる日が来ることを、推しのコンサートに行ける日が来ることを、隔離もPCRマスクも無しで好きな人にに会ってハグして乾杯できる日を夢見ながら。そうやって生きていく。

人生は続いていくのだから。

おしまい。