よりのよりどりー杭州サバイバルライフその6.買い物のお作法
10月の国慶節あたりに一時帰国する予定で夫と話がまとまった。
その歩を指折り数えながら、私は日常を送っていた。ここでの出産はないな…ということだけは割と初期の段階で決めていた。分娩台にもギャラリーがいたら?と思うだけで無理だった。そもそも産後の世話を頼める人もいないし夫は毎日仕事だ。切迫流産で絶対安静の日々を思い出したら、二度とあの孤独は味わいたくないと思った。二重国籍がもらえるわけでもないし。
里帰り出産したかったら、一時帰国中に病院を探して分娩予約?を取らないといけない、ということは聞いたことがあったので、その時に今までの状況を医師に報告できるようにカルテをもとに自分で経過を記録した。不正出血した時からずっと、何の注射を何回打ったか、体重の変化、検診の結果…
病院では日本のように毎回エコーをとるわけではなかった。エコーは胎児にも良くないし検査代が高いので、大抵初期の確認とその後2回くらい状態を確認したい時に患者の希望で行うもののようだった。もちろん検査費は前払い、注射代と同じだ。私は一時帰国の許可が降りたらその日にエコーを撮ってもらうつもりだった。お腹が大きくなってきたら水は飲まなくていいらしいけど、初回のトラウマで水はいっぱい飲んで行った。
数ヶ月後に不在にするので、日用品の買いおきを増やすため、少しずつ買い物した。何せその日見かけたものが次もあるかわからないのが当たり前だったから、見かけたらあるだけ買うのが鉄則だった。
日用品はデパ地下で買う。デパ地下にはスーパーがあるからだ。スーパーに入るにはまず財布以外の自分の荷物を入り口で預けないといけない。万引き防止のためだ。スーパーには、洗剤やトイレットペーパー、乾物がある。洗剤はOMOがあった。乾物は金華ハムや燕の巣やフカヒレだ。要するに私には縁のない高級食材だ。
そもそもうちのアパートの1階から3階にスーパーが入るという触れ込みで、夫は部屋を決めてきたけれど、住んでいた間に店舗が入ることは一度もなかった。下にスーパーがあったら、もう少し快適だったかもしれない。アパート内に店はなく、道路を渡った向かいに小さな何でも屋があるだけだった。店の中は商品と店主で埋まってて道端で欲しいものを告げて出してもらうスタイル。当時はまだ冷たいものを口にするのはタブーな時代(体を冷やすから)だったから、冷たいスプライトちょうだいというとはあ?という顔をされたことを覚えている。
デパートのスーパーにある食器用洗剤は国産のものばかりで、びっくりするほど汚れが落ちないので、上の階でママレモンを買う。
ママレモンは輸入品(?)だから、一階入り口正面のショーケースに恭しく陳列してあった。杭州ではデパートはみんな国営の時代だった。国営デパートは、店員が山のようにいて全員とんでもなく暇そうでとんでもなく威張っていた。
私は笑顔を作って店員に「こんにちは、お手数をおかけして申し訳ありませんが、ちょっとそこのママニイモン(ママレモンのこと)を買いたいので売っていただけないでしょうか?」と聞かなくてはならない。店員の機嫌が悪いと無視されるので、時間をおいて再チャレンジしなくてはならない。そして売ってくれるのはいつも一本だけだ。贅沢を言ってはいけない。2本欲しいと言って店員を怒らせてしまったら、当分ママニイモンを買うことはできなくなってしまうからだ。
守備よくお願いが通ると、店員は伝票を書いてくれる。3枚綴のそれは今でも手書きのままデパートなどで使われている。金額まで漢字で書くので時間がかかってイラァ…っとするがここは我慢だ。あと一歩でママニイモンだ。
書いてもらった伝票を持ってフロアのどこかにある収銀台に赴いてやっとお支払いする。収銀台の店員も基本不機嫌で、客が来たことに腹を立てて舌打ちしたりするが気にしない。お釣りも投げてくるけど気にしてはいけない。伝票の原本を収銀台に渡して売る場に戻る。支払い済みの印の押された伝票を渡すとようやくママニイモンが手に入る。ここでも舌打ちしながら品物を投げてくるけれど普通のことなので気にしない。私めに貴重な品を買わせてくださっておありがとうございますの低姿勢でお礼を言ってその場を離れる。
買い置きのために数回同じ作業を繰り返した。もうこの緊迫したやりとりだけで1日の仕事を終えた気になった。一連の流れは儀式のようなものだった。金を捧げて願いを叶えてもらう儀式。お客様は神様なんかじゃない。
帰りの三輪車では放心していた。三輪車はのんびりしていて風が気持ちよくて大好きだった。デパートから家まで10分ほどの道程。
三輪車の運転手は時々話しかけてきた。どこからきた?結婚してるのか?何歳だ?この3つは日本で言ういいお天気ですね、くらいの意味のいわゆる社交辞令だ。
日本から、結婚してる、27歳と答えると、日本ていうのは中国のどの辺だ?と大抵聞かれた。外国だよと言うと、今度は外国っていうのは中国の…と言われる。人々は世界には一つの国しかないと思ってるみたいだった。だからもういちいち答えるのをやめた。やめると勝手に向こうが結論を出す。
あーわかった、日本ていうのは新疆の方だな?聞いたことあるぞ、お前の中国語が変なのは新疆だからだな、顔もちょっとかわってるもんな、と納得するので、適当にうんうんそうそうと返事をしていると家に着くという寸法だ。
この三輪車の運転手が暇つぶしの雑談で私のことを話すので、次に乗るときに違う運転手でもあ、お前が新疆人だな、聞いたことあるぞ、となるのだった。彼らに秘密はない。だから私は近所の三輪車に乗る時は新疆人になった。当時は新疆からの出稼ぎの人が街中にたくさんいた。肉体労働をしている人とナッツやドライフルーツの屋台を出している人が多かった。少数民族が多いので服装も顔立ちも独特で、ロシア系を思わせる人も多かった。新調人向けの食堂もいっぱいあった。今はほとんど見かけないし、新疆人に似ていると思われると危ないので、いろいろ聞かれた時はすぐに日本人と答える。少し悲しい気持ちになりながら。
ひどいつわりはおさまってきていたけれど、結局臨月までムカムカした感じは続いた。健診には必ずチャンさんがついてきてくれて、ドライバーの奥さんである看護師長もフォローしてくれ、子供も順調に育っていた。