そのときわたしたちは-その19
隔離中ずっと気になっていたことは、「一体いつ誰がどうやって私たちの隔離明けを教えてくれるのか?」だった。
毎日の検温の人も、ゴミ回収の人もみんな防護服姿で極力近づかず一言も話さず疾風のように現れては去っていく。聞きたくても聞けない。
2週間隔離の基準もはっきりとわからなかった。在住者の情報交換チャットでは、到着日を0日にカウントする説と1日目にカウントする説があり、到着時間が午前と午後でも違うとか、家に入った時間を見るとか特によって違うとかさまざまな憶測が飛び交っていた。
「2週間」が近づくにつれて、私と次女の話題は「隔離明け」のことばかりになった。
隔離が明けたら何がしたいか?
実際にはまだ外出禁止だったので近所しか行けないことも分かっていたのだけれど、想像するだけでもなんだかウキウキしてくるのだった。
近所のイタリアンにランチ食べに行きたい
お散歩したい
スーパーに買い物に行きたい
文房具屋さんに行きたい
猫探しに行きたい
季節はもうすっかり春で、ベランダから見える緑もなんだかキラキラしていた。
その日は唐突にやってきた。
いつもの午前の検温の時に、もう一人防護服姿の男性がいたのだ。
「お疲れ様でした」その男性はにこやかにそう言って一枚の紙をくれた。
隔離終了証明書だった。
え?もう外に出ていいんですか?
どうやらうちは到着日の午後から14日間のカウントだったらしく、午後から出ていいということだった。
彼らを見送ってから、娘と顔を見合わせて本当に?と言いあった。
夫にも連絡したけれど、念のため明日外に出ようということになった。夫もまだホテルをチェックアウトしていないし、すぐに出て違法外出の疑いをかけられたら面倒だし。娘にもそう伝えると、そうだね、その方がいいよ。怖いし。社会主義国での暮らしが長いと疑り深くなるのだ(笑)
翌日、朝ホテルをチェックアウトした夫は出勤前に荷物を置きにきた。思った以上に大量で、2週間の長さを思った。代わりに弁当を渡す。まだ外食禁止だしエアコンも使えない。結局弁当の方が時間に融通が効いていいということで、それからずっと夫も弁当持ちになった。
夫を見送ってから、オンライン授業に出る次女を残して下に降りてみた。通りかかった守衛に「あ、お疲れ様!」と言われる。もうスタッフ全員に隔離明けは知れ渡っているようだった。
別の守衛には、隔離明けを証明できるカードを発行できるから、証明書とパスポートを持って管理事務所に行くといいと教えてもらったので、さっそく発行手続きに向かった。
管理事務所の女性も「あら、お疲れ様〜」とにこやかに手続きしてくれた。厚紙をラミネート加工しただけの簡単なカード。でもしばらくはこれが大切なお守りみたいになるだろう。
息子と長女にも隔離明けを報告した。状況が一切わからない二人には、単にずっと引きこもっていたくらいにしか伝わらないだろうがそれでもいい。
授業の終わった次女を連れて近所のスーパーに出かけた。顔馴染みの店員に「久しぶり!隔離だった?」と聞かれて笑ってしまった。日系のこのスーパーの客は配達希望ばかりでお店まで来る人はまだ少ないんだと彼女は言った。そうだろう、旧正月以降日本に帰った人たちは、私たちの隔離中に持っていた居留ビザを無効にされて再発行は無期停止中になっていたので、戻ってこられなくなっていたから。上海は仕事のために残った人ばかりになって、家族連れは以前の1/4に減ったと聞いた。
次女と買い物袋を持ったまま近所をぐるっと回った。潰れたお店もあるけれど、そんなに多くはなさそうだった。コロナの余波はこの時から半年後くらいからジワジワとやってくるのだけれど、この時はまだわからなかった。
すっかり春だね。
次女が言った。3月の初めに戻ってきて今はもう3月下旬。梅も桜咲き始めていた。まだオンライン授業だし、公園も閉鎖だし、居住者以外の人間呼ぶことは禁じられているし、外出する時の人数も制限されていたけれど、一つハードルを乗り越えて私と次女はすごく良い気分だった。
私、もう少し外に出てみようかな。外って気持ちがいいね。
うんうん、一緒に外に行こう。近所だけだって、やることなくたって、気持ちがいいよ。気分転換しよう。まずは元気でいないと。次に日本に帰れる時まで。ね!
荷物を片手に移して次女と手を繋いだ。私の背を遥かに超えた彼女の手は不思議なほど小さい。手の大きさだけは小さな子供みたいだ。その小さな手を握って、笑いながら家に帰った。