よりのよりどりー杭州サバイバルライフその3.注射は自分で

夢の中で私はずっとお腹の赤ちゃんの心配をしている。このまま会えなかったらどうしようとずっとドキドキしていると、どこかから女の子の声で「今度は大丈夫、きっと会えるよ」と聞こえる。

少し特殊な疾患で空に帰ってしまった子供は、後から調べたら女の子のことが多いとあって、私は勝手にはじめての子を女の子だったと思っているんだけど、この時答えてくれたのもその子だと信じている。

「次生まれる時もお母さんの子になるって言ったけど今回は間に合わないから男の子に行ってもらうね!」と言われて目が覚めた。出血は続いていたけど増えてはいなくて、私はチャンさんと病院に行った。

前日ドライバーにお説教されて思うところがあったのか、病院に向かうのに車を使って良いと夫が言ってくれた。病院までは車で30分ほどかかるのでありがたかった。当時のタクシーは全て赤いアウディで、一様に古く、サスペンションが硬くて道路もボコボコなのでアップダウンが体に響いて結構辛いのだ。

病院に着くとチャンさんが特級の医師を申し込んでくれて、ほかの医師よりも少し豪華な診察室の前で待つことになった。まあそこにも大量の人が待っていて、ドアが開くたびに覗き込んでいたけれど。ここでようやくこの人たちが多々の野次馬だと理解できたのだった。だって特級料金払ってまで診察を受けたい人なんてそうそういないから。

内診をして年配女性の特級先生は「難しい状況だけど一つだけ方法がある」と言った。

ホルモン剤を1日一回2週間注射し続けて出血がおさまったら妊娠継続、ダメなら手術、という方法だった。結果が同じでも何か手を尽くしたい私は、その方法でお願いしますと即答していた。すると特級先生❁後ろの棚からポイっと箱を机に投げた。薄くて細長い箱が二つ。

これは何?と聞くと中を開けて見せてくれた。注射のアンプル。え…?という顔をしている私に、特級先生は「自分で注射打てるでしょ?」と当たり前のように言った。「打てない」というと隣にいたチャンさんまで「え!」と驚くのだった。この当時薬局で普通に医療器具が買えて、医療費節約のために家庭で注射や点滴を打つのは至極当たり前のことだったのだ。

できないなら注射室で注射代を払って打ってもらいなさい、と特級先生に言われて診察室を後にした。部屋の外に看護師がいて注射室まで案内してくれるという。やけに親切だと思ったら、その看護師はドライバーの奥さんだった。ドライバーが奥さんにあらかじめ私のフォローをするように頼んでくれていたのだ。しかも彼女は婦長で、テキパキと注射室に案内してくれて最速で注射を打ってもらえた。当時中国では社会主義の考えから医師よりも病院事務や看護師の方が地位が高く給料も多かった。なので、婦長が知り合いだとものすごく扱いが丁寧になったので、心身ともに弱ってるわたしには本当にありがたかった。彼女も中国語しか話せなかったけど、笑顔が優しくて一生懸命チャンさんを介して私を励ましてくれた。こうして思い返すと、やっぱり杭州生活は周りに人たちに恵まれていたな、と何度も思う、

注射はどこの病院でもアンプルを持っていけば打ってくれるとのことで、翌日分からは家の近所の病院にチャンさんと一緒に通うことになった。そして婦長さんに「絶対安静とはトイレ以外ベッドから一歩も動かないことだ」と教えられた。自分が相当間違っていたことがここでわかった。

翌日から、夫が出勤前にバカでっかい塩握りを二つ、インスタント味噌汁の入ったポットと水を枕元に置いていってくれることになった。夜までの食料はそれだけ。香港式のワンフロアに8部屋が放射状に伸びる造りだったので寝室は玄関から一番遠く、電話も玄関脇のリビングにあるのでテレビも電話もできない。人が来ても居留守を決め込むしかない。夫が単身赴任中に差し入れでもらった週刊誌と引越し荷物に入れられた数冊の文庫本だけが私の友になった。

当時の週刊時の記事は一言一句ソラで言えるほど読み込んだし、文庫本はボロボロになった。ポンポン船のエンジン音だけ聞きながら、誰とも話さずひたすらに寝て過ごした。

午前中の注射の時間だけが唯一の楽しみになった。病院は近いので三輪車で向かう。人力車式の三輪車が当時の杭州では一般的な近場への交通手段だった。近すぎるとタクシーは「近すぎる!」と文句を言って降ろされたりする。三輪車は乗る前に値段交渉しないといけないので、やっぱりチャンさんがいてくれないと私は何もできないのだった。

三輪車で10分、ローカルに病院に着くとすぐに注射室に向かう。現金で注射代を払って一回分のアンプルを渡す。綿棒に浸した茶色い消毒液で消毒されて注射を打たれたら、綺麗な綿棒で注射されたところを押さえておくように言われる。綿棒は注射の大事なアイテムで、今でもローカル病院ではこの綿棒方式だ。

ある日チャンさんが帰りの三輪車で「うちの子も喘息で体が弱くて大変なの。あんな弱い子だってわかってたら産まなかった。今からでも夫と離婚してやり直したい」ととんでもないTMIをぶち込んできたことがあった。多分今回ダメでも弱い子のことは気に病むな、と言いたかったんだろうと思う。女性は子供を置いて離婚すると再婚相手ともう一人子供を持つことが許されているそうで、実際実行する人も少なくないようだった。ご主人の両親と同居しているが、大人になるまで大都市の戸籍を取るために必死で勉強しかしてこなかったチャンさんは、家事ができないと義両親によく責められていたらしい。「私は勉強しかできない」が口癖だった。大学に入るまで海外旅行もしたことがない地方の学生が、国家認定の名門大学に入学して日本語で首席学位を取って杭州の戸籍を取得するのにどれだけの努力をしてきたのか。日本語検定一休を取って日本の企業で通訳をしながら母校で教鞭を取るチャンさんの収入はきっとご主人よりも高かったと思う。それでも家事ができないことで責められ、子供が病弱だと責められる…嫁姑は国は関係ないんだな、と思った。

辛かったらちゃんさんの思う通り離婚してもいいよ、と内心思っていた。息子さんは連れて行って欲しいけれど、それは私のわがままというものだ。

幸いチャンさんの息子さんは元気に大きくなって、数年前に日本の大学に留学も果たした。ご主人とどうなってるのかわからないけど、今も大学で教鞭を取り、趣味の山登りやコロナ前は旅行や観劇もよく行っていて楽しそうに過ごしている。

注射を始めて10日後、出血がようやくおさまった。夢に出てきてくれたあの子にお礼を言った。私は再び特級先生の診察を受けることになった。