第4回 やさしさに包まれたなら
人生を生きていると、ふと一日中、ある楽曲の脳内再生回数が跳ね上がる現象に出会う。きっかけとしてよくあるのは、例えばテレビCMだったり、街中の音楽だったり、職場で隣に座る人が口ずさんでいる鼻歌だったりする。とにかく耳に入った音が何かのスイッチを押したかのように頭から離れなくなり、再生を自力で止めることができなくなるのだ。
ちなみに私の今日は、日がな一日、松任谷由実さんの『やさしさに包まれたなら』に脳内を占拠されている。食器を洗っていても、観葉植物に水分を与えていても、仕事用PCを立ち上げていても、「ちーいさーいころーはー」を歌わずにはいられない。なんともご機嫌な日である。
きっかけは何てことはない。私には「この人すきだなあ」と思うアーティストがいて、その彼がやさしさに包まれたならを弾き語りでカバーしている動画を拝見してしまったのだ。そして思う、「うまく言えないんだけれども、この人すきだなあ」
そんな風にして神様がいる時間は進み、愛犬との散歩の時刻を迎えた。今日は天気もいいし、気温もそこまで低くはない。これすなわち、やさしさに包まれたならうってつけ日和なのかもしれない。トコトコと前を歩く愛しい犬と、懲りずに「ちーいさーいころーはー」を口ずさむ私。確かに人生はいろいろある。いろいろあるうちの、今日はそういう日なんだろう。というわけで、私は歌う。
「めにうつーるー すーべーてーのーものーはー めーっせえーじー」
ところが、そのとき目にうつった電柱の落書きが「死ね」であった。人生はいろいろある。いろいろあるうちの、今はそういう瞬間なんだろう。それに、だからといって脳内再生は止まらないのが、この現象なのである。きっと今夜はお風呂でも歌ってしまうだろう、「ちーいさーいころーはー」と。
渋谷龍太さんという人を見ていると、何だかすてきな人だなあ、この人すきだなあと感じる。もちろん彼のことは、ほとんど何も存じ上げない。けれども、私がほとんど何も存じ上げない、あれやこれやが何ともいえない感じで構成されて彼という人になったのだとしたら、そのほとんど何も存じ上げないあれやこれやは、私の心に「あ、すきな感じだ」と反応させる何かであるのだろうと思う、全体として。きっとその中には、私にとってカレーに入っている玉ねぎのような要素もあるのかもしれない。でも全体としてはカレーという感じ。長くなってきたのでカレーの話はまた次回。