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真似のできないロクデナシ

あっという間に2ヶ月が過ぎました。今日は蠍座新月。

それを意識したわけではないけれど、昨晩は日付が変わるまで1970年代〜の沢田研二を動画再生しまくりました。小学生の姪が「壁際に〜(『勝手にしやがれ』)」以降の歌詞をめちゃくちゃに歌うので、モヤモヤして確認しようとしただけだったのに。

小学生にとって壁際は寝返りをうつ場所じゃないんだと思うんですね?

姪と別れて、家に帰ってから数時間のあいだ動画閲覧にはまってしまいました。その後、ざざっとデビューから近々の公開情報を確認したりして、どっぷりジュリーを堪能しました。

全盛期の彼はソロなのにグループのような、ロックなのか演劇なのか歌っているのかなんなのか、とにかく卓越した何かに魅せられてしまい圧倒されました。タレントというのは「才能」を指し示すのだろうけれど、そのタレントの「器」はイロイロなのでしょうね。

というのも、傑出した存在であっても見出されて育たなければ無いも同じになるし、反対に今のように活かす時代でありプロデューサーがいても傑出した存在が活かしたい側に見えなければ、色褪せない光を放つ存在は咲かないと思うからです。つまり「器」とは人のカタチをするばかりではなく、背景の時代や界隈の機構も含めて動く舞台装置なのかなと思いました。『TOKIO』という歌の衣装みたいに沢田研二は稀有なタレントとして真ん中にいるんだけれど。

古い映像の中の彼だけが切り取られたように、そこだけが50年という時間を全く感じさせない、押し付けてこないセクシーさをダダ漏れさせている貴重な映像の数々。今も残っていてアリガタイ。全くもって眼福でした。若さは貴重だけれどそれだけでは足りなくて、忙殺されたりで当人が意識していなくても天賦の役目を精一杯生きている時間の輝きが半端ではない!と感じました。

本質ってなんだろう?

という最近の疑問の答えは、ソレかなと思うのです。変わらない、あの歌声をまた聞かせてほしいです。


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