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【ゲシュタルト療法トレーニング】4月 自分の身体の境界線を知る


2024年4月20日はじまりました、ゲシュタルト療法トレーニングコース。

ここでは自分自身が体験したこと、自分の中に起きたことをピン留めしていきます📌

わかりやすく学びや気づきを説明するわけではなく、地にあったものから図として今浮かび上がっているものをただただ並べて表現してみます🏃‍♀️


▼トレーニングの内容、ゲシュタルト療法について知りたい方はこちら

https://hiro-gestalt.hp.peraichi.com/training2024



干物の鯖みたいな感覚で今これを書いてる

このトレーニングを知ったのは去年の年末。
翌年の2024年なにかに時間を費やすとしたらゲシュタルトとプロセスワークの世界だな💭と何故か思い、
ゲシュタルト療法ならヒロさんだなと直感で決めたのを思い出しました。

欲しい資格やキャリアがあるわけでもなくただ味わいたい思いで決めたのは自分でも珍しい。

そして土日の二日間、朝10時から18時ごろまでほぼほぼぶっ通しでゲシュタルトの世界に浸りました。何に浸ったのかもわからずにいろんなものを染み込ませ炙られて、やっと自宅に辿り着きました。

東銀座の美味しい干物定食屋さんで2日ともランチを食べたのですが、今その鯖みたいな感じです。


鯖の身体をはじめて一望した👀
美味しい頭をされていました🧠



重力増し増しだったのでせめて纏うものは軽く…


東銀座にある、ゲシュといえばあの場所という部屋での二日間。

蛍光灯なのか窓がないためか、何故かボワっとした暗さと重さがあって、さらにそこでゲシュタルトWSが繰り広げられるもんだから重力ましましの部屋になっていた気がした。

身に纏うものはせめて明るく軽く、黄色やらオレンジやらの服を選んでいきました。

何かに溺れまいと踠きたかったのかもしれない。


(何も考えなければ多分黒を着ていたと思う。黒は自分にとって失敗しない、間違えない色。境界線が曖昧な色。)


割と浮いてまんまとひとりポップなやつみたいになっていた🤡


来月は何色で行こうか…



生の感情を顔面キャッチした


内容には触れられないけど、しょっぱなからガツンとしたワークをオブザーブ。

何かが悲しかったのか怖いのかもわからず、ワーク中は初めからずっと涙が止まらなかった。

振り返ると場にある生の感情そのものに驚いて泣いていた。
喜怒哀楽その他それだろうと感情が自分の顔に飛び込んでくる感じがあって、その衝撃で泣いていたのかもしれない。

感情が自分の真正面にあることが久々で、
そうだった怒りってこれだった、寂しいってこれだったと一つ一つを確かめていくようにして瞬きも忘れて見入っていました。

そういえば対面でのワークも久々。というかほぼ初めてと言っても良いかもしれない。(半年前にゲシュタルトの対面ワークを一日経験したっきり)

それでもこの「怒り」も「寂しい」も、ワークだけに特別にあるものではなくきっと日常に常にあるもので、
あるのに見えていないものがあったんだ、明日からもこれはあるんだと気づかされた瞬間でした。


(顔面キャッチしてびっくりして泣く自分を想像すると可愛らしいな…)



今までお肉だと思っていたそれは魚肉ソーセージだったのかもしれない

普段パーソナルコーチングを行っていて私も対人支援者の一人。会社員としてデザイナーでもある。

ので、人の感情なり価値観なりいろんなものにいつも触れている



     つもりだったのかもしれない




と思わされるくらいの未加熱のいろいろを、そのまま味わった感覚がありました。


生肉の美味しさとスリルを味わったような。


今までお肉だと思って食べていたものは魚肉ソーセージだったのかもしれないと思うくらいの、そのまんまの今ここに浸かっていた感覚が今も微かに残っています。

(これまでを否定したい意図ではなく、何かが更新されて図として浮かび上がってきた衝撃を書きたかった)


そして、この食あたりになるかもしれない生肉をまた食べたいと思う感覚も鮮明にあるし、鳥刺も食べたい切実に。



誰かのセッションの場で自分の投影と出会う


今回私自身がワークを受ける時間はなかった。

それなのに私の周りの人がたくさんこの部屋には登場した。

この場で確かに繰り広げられているのは、誰かの今ここなはずなのに
あそこには私の家族がいてあっちには友人がい、そっちには同僚がいたりもした。

重ねてみているもの、そこに映し出されているものに気づかされ問われ、
オブザーブしている私も同時にワークの時間を味わっていた感覚でした。


場で何が投影されていたのかはここでは控えておきます、自分でもよくわかっていない🤫



紙芝居を眺めていたところから劇団の一員になった瞬間


「ワークそのもの」と「自分」の境界線に視点を向けていた時間がありました。

最初は2Dというか、紙芝居をみているようで、豊かな物語を平面としてみているような時間が流れていた。

紙芝居と自分の間に少し距離があって、届いてくる音もあれば遮断される音もあったり、視力が及ばなくて見えないものもたくさんありながら物語が進んでいった。

うっとり聞こえる音だけに耳を傾けていたとき、ある瞬間空気がブワッと震えた瞬間があった。今書きながら雷が起こった感じなのか。

その瞬間から場が紙芝居から劇場に変わり、傍観者だったところが自分自身が劇団員になった。

さっきまで遠くで眺めていたものに、一瞬で含まれてしまった。
このコントラストが鮮やかで衝撃的でした。


そこからは全身でその場に居るというかしがみつく感覚で、劇団員をやる。
ワークで役割を与えられたわけではないのにこの感覚になったのが不思議だった。

耳と目で聞いていた中である瞬間から身体全身で聞くようになったという気づき



対人支援者としての在り方を問われ、膝カックンを食らう


今年コーチングの資格をとり、今私はよくもわるくも力んでいる。全力で関わりたいし相手のためになるならなんでもしたい、してあげたいというエネルギーがあふれている状態。

一方、ゲシュタルトでは意図を持たない。(←私の中間領域)

気づいてもいいし気づかなくてもいい。
ただそれを選んだのは自分。選ばなかったのも自分。

ファシリテーターが気づかせてあげる時間ではない、関わりに意図を持たない時間を間近で見て、
今まで力んで踏ん張って立っていた足にコケッと膝カックンをくらった拍子抜け感がありました。


初めて食らったというよりは、何回も何回もこの力みと脱力を繰り返して、今日もまた揺り戻しが起きていたんだなという気づきでした。




そしてどこかの時間で聞いた「(対人支援者として)背負う」というワードもいま図に上がっている。

そこで浮かぶのは医療職に従事する私以外の家族。

よく自虐するかのように「家族みんな命を背負っている中で私は一人デザイナーになったんだ」と自分を表現することがあります。
そして今、対人支援者として踏み出している自分もいる。

自分は何かを背負いたいのか、背負わなきゃと思っているのか、背負いたくなんてないのか、背負うことそのものが家族の証に見えているのか。

こういうことを思いながら内面もあったかくなり、ワークを受ける準備も整いました。


次はジャンケン勝てますように✋



集合写真にちゃんと写っていた


変な話ですが私、集合写真に写っているんだけど写ってないことが多々あり。。。

場に馴染んでいない、顔も強張った様子で隅っこで写ることが多いんです。
そうして撮られた集合写真では「いるんだけど、その場にはいない人」になる。


今回Day2後に撮った集合写真をみて、



ちゃんと写っていました💭


確かに"その場"にいて"私の顔"をしていた。


きっといろんなことに気づきながら踠きながらも、私は確かにこの場にいたんだという表現の一つとして写っていたんだと思いました、安心


集団の場が得意でない自分にとっては、集合写真ですら気づきが返ってきた。



これ、あと11回あるんすよね


どうやらこれがあと11回あるようです。今回まだ入り口のようです。

全身くたくたのひたひたで、今すごく楽しい

学んでいるというよりは体験し続ける時間であるこのトレーニング、これを繰り返して来年どんな顔つきをしているのか今から楽しみです。

次は箱ティッシュとお水2リットル持参しよう…



4月回おわり

また来月👋

ハーゲンダッツ代にします!