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【ゲシュタルト療法トレーニング】5月 お見それしました


ゲシュタルト療法トレーニングコースで自分自身が体験したこと、自分の中に起きたことをピン留めしていきます📌

わかりやすく学びや気づきを説明するというよりは、図として今浮かび上がっているものをただただ並べてる場所です🏃‍♀️


▼トレーニングの内容、ゲシュタルト療法について知りたい方はこちら




ユーモラスでチャーミングで、恥ずかしくて厳しい「部分」の数々


なんでだろう今回はよく笑いました。

よく笑ったし、場のひずみを感じる瞬間もいくつかあった。

図として滲み出ているものと、それをそうさせている力動をふつふつと感じながら、静かで生生しい空間の中にいた二日間でした。

かわいらしい部分と迫力ある部分、その部分を総和してもその人は完成しない、全体性の生生しさを感じた。


「あなたをわかりたい」という暴力性


部分だけをいくつ集めたところでその人を知れたことにはならない。
それでも知りたくなってしまう、知った気にさえなってしまう暴力性のようなものも感じながら、
場で起こっていた「わかり合いたい」「分かり合えない」、「近づきたい」「近づけない」の声を聞いていました。


何かを言葉にすることはそれ以外を言葉にしないこと


こうやって言葉をたくさん集めてもわたしが書きたいことは多分伝わらないしわたしもまだ自分の身体が何を感じていたのか拾いきれていない。


何かを選択をすることは何かを選ばなかったことでもある。
何か言葉を選んだ時、それ以外を選ばないことを選択したことでもある。

それでもワークでは言葉を使う。
それらはその瞬間クライアントが選んだことでもあるし何かを選ばなかったことでもある。
その言葉はファシリテーターが冒したリスクでもあるかもしれない。

言葉を言いながら、音で表現しながら今回もダイナミックで挑戦的な営みが繰り広げられていた。




現実とコンタクトをとりながら、身体の声を通して実験する


ゲシュタルトのワークでやっぱり痺れるのは実験的な関わり。
個人的にとても好きでとても怖い。


解ろうとしないでただ今の感覚のままでいてみる。

目を開けて現実とコンタクトを取ってみる。

出てきた声を「わたしは〜」と続けてみる。

出てきた声を「〜しろよ。」と言い切ってみる。

出るものを出るままに出してみる。



その実験によって奥底の力動が動き出す、この瞬間は毎回鳥肌が立つ。



対面の日はワークで何が起きたかの解説はほとんどないんです。飲み会でちょっと聞いちゃうんですけど。

頭で理解したいもどかしさを抱えながら、身体に聞きながら知る、を繰り返していく。

早く学びたいけど、どうせきっとこれを何年も繰り返していくんでしょうよとも思う。この学びのプロセスがもとてもおもしろい。



ワークで見えてきた、『わたしはこうやって生きています』


毎回ジャンケンでワークを受ける人を決める。
前回は眺めているだけだったけど、今回はジャンケンに手を上げることだけやってみよう。それだけ決めて参加した。

勝つかどうかは運に委ねよう。










うっかり勝ってしまった。












ーーーーー以下ワークで起きたことを書いています。ーーーーー
ーーーーーいろんなものがこぼれ落ちているはずだけど今浮かんだものを並べます。ーーーーー






真ん中に座ってみると、出てくる出てくる。




絶対負けたくないひとが出てきた。


その人を思うと自分を幼く恥ずかしく思った。
顔も赤くなる。

無自覚な裸の王様みたいに感じた。


気持ちはというと後ろめたさと誇らしさと、
言葉にまだなりきっていなかったいっぱいの「部分」が湧いてきてぶつかって打ち消されていった。



あなたには負けない、あなたには負けない、あなたには負けない。


あなたと違ってこんな生き方があるんだと示したかった。


あなたに勝ちたい。


勝つためにここまできた。堪えて耐えてきた。


あなたみたいになりたい、あなたに近づきたい


ちょっと筋肉が緩む。本当はそう言いたい。でも言えない。

結果を残すまで顔も見せられません。弱いところは出せません。




座りなおして「あなた」の席からわたしをみる。





何をするでもなく、ただただ見ていた。

あなたはそうやってすべてを見ていたんだね。


少し遠くから、ふふふと見ていた。

必死に歯を食いしばっていた相手は案外穏やかだった。




わたしの席に戻る。


ふとわたしの席から浮かんできた。



あなたは時に何かを見せないようにしていたよね。


わたしが初めて「こころ」を目撃した日を思い出した。

みたことない姿だった。どちらかと言うと醜い方に写った。

こんな姿があったの、見せないようにしてくれたんだ。

でももう見たくない。

こうやってわたしもあなたを見ていた。

どうやらわたしも全てを見ていたみたい。


わたしもただ見ていた。一瞬をずっと覚えていて今に刻まれている。


わたしたち似てますね。




頭を下げて敬意を示してみる。


でてきた一言は

お見それしました。


あなたは素晴らしい。

敵いません。お見それしました。


もう思わず笑ってしまった。

あんたつよっ、と思いながら頭を下げていた。


わたしはこうやって生きています。


そしてこれからどうやって生きたいのか、少しわかった。

あなたがどうだからではなく、わたしはわたしが決めたい。


追いつくでも超えるでもなくわたしの選んだものについて進む。


と思っていたら出てきた一言。

また対戦よろしくお願いします。


また対戦を申し込んでいた笑

こうやって張り合って生きているみたいです。


一回でも勝てたらいいなあ。



実はこのプロローグ編を去年ワークで扱っていた


去年、オンラインセッションで前段のようなものを扱っていました。

その時はもっと反応的でいろんな感情が強く出てきた。
その時は結構泣いた。
図に滲み出てくるものにうわ〜っと押しやられる感じがあった。


今回はそれらが地に戻っていくような、前回よりは静かなでポップな時間だった。


実はこれが対面では初めてのクライアント体験だった。

図にずっと上がっていたものが地に馴染んでいく時間を過ごして、このゲシュタルトが完了しつつある様子を自分の内側で感じていた。

長年使い古した創造的調整を更新するときなんだろうなと思った。

固着されたゲシュタルトを解して溶かして、また新しい全体を創り上げていくんだろうなと思った。

現実とコンタクトをとりながら構造に気づき、自分の主観がなんと言っているかに耳を澄ます、恥ずかしくて気付きたくないものを口にしてみてなにが起こるのかをみる。


今にとって大事な時間を過ごせました多分。





産むことについての問い


ゲシュタルトで必ずと言っていいほど繰り出される母、子、家族。親子の関係性、子育て。


一番近くて遠いパートナーシップ。


世代を超えて繰り広げられているこれらについて、距離感と、どことなくある劣等感か優越感なのかもわからない感覚。

畏敬の念すらある。


ここでは説明は省くが産むことについて問いを持ってみたいと思った。


今回この二日間の裏で開催されていたむぬフェスというイベントにもボランティアで関わっていて、そこからもテーマとして自分の元にやってきていることを感じていた。



結局ゲシュタルト療法は何をしているのか


わからん。ますますわからん。


でもどのワークもやっぱり帰ってくるのは
「わたしは今こう生きている」という気づき、
そして「これからこう生きていく」という選択。

これを書き進めながら、ナチス政権下で生き残ったパールズのゲシュタルトの祈りが思い出された。


どう生きていくかを問うていくゲシュタルトの実存主義的関わりを、またいろんな「部分」から目撃し続けたいと思った。





ここまでの3000文字で何を表せたのか、何を取りこぼしたのかを思い浮かべながらお風呂に入ってきます。


今回は不思議と疲れ以上に身体をもっと動かしたい気持ちが強い。




鬼ごっことかしたいっす。

ハーゲンダッツ代にします!