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こえが生まれるということ

こえが出ない、出しても届かない。そもそも出したいこえが見つからない

声が出づらいことは昔からずっと自分ごととしてある。
暮らしに直結する困りごとである一方で、声で覚えてもらうことも多く、なんとか個性としても捉えようとしている。


人前に立つ自分の記憶として、決まっていつも思い出されるのは、かかとが鳴るくらい足が震え、手も声が震えて散々な結果に終わる様子だったり、
おしゃべりさんだった幼少期のどこかでピタッと急に喋らなくなったり。



これまでの発話やことばを辿っていくとそこに自分がよく現れている。


この記事は竹内氏のことばから自分と対話したメモ書きです。編みかけの引用だけでも何度も読み返したい。

一体、ことば以前の、自分の中で動いているものから、ことばというものが生まれてくるというのはどういうことなのだろうか。ことばというものが声になって生まれてくる場合はひとりでに生みだされるわけではない、相手との関係の中で、ことばが生まれてくるわけです。すると、それはどういうことで、どこから生まれてくるんだろうか。というようなことをずっと考え続けてきたということになる。

竹内敏晴著 「出会う」ということ 第二章人と人の出会う地平





こえの産婆 竹内敏晴氏

竹内氏は自身も聴覚障害の当事者であり、生後すぐに難聴になり耳がまったく聞こえなくなった。その後、少年期から青年期にかけ、薬による治療効果で徐々に片耳が聞こえるようになった。この過程で、一般には自然に済んでしまう「言語習得」を意識的に、自力で行わなければならなかった。
耳が聞こえるようになったからといって、そこから「話すこと」はまたほど遠い道のりで、いくつもの葛藤を経て、手探りで自然な発話を習得したという。
そんなプロセスを経た竹内氏は、人から生まれていくこえについて特有の感覚を有していた。

私は相手のからだの中の状態がすうっと見えてくるようになった。見える、というのと少し違う。相手のからだを見ているうちに、私のからだが動き出して相手のからだの形、内の動きにシンクロしてしまう。すると、こえがどこでつっかえて出てこれないでいるかーのどの奥をしめられているので、ちょっと横につまっているとか、固めた胸の中に閉じこめられてほんの指先だけ外に出てきている感じだとか、からだの中で感じられてくる。

しまいに、私には、こえが生きもののように思われてきた。だれのからだの中でもこえがちゃんと生まれて外へ出たがっている。それなのに出してくれない。私はつまったこえの人を聞き、見ていると、こえが泣いているような気がしてたまらなくなり、なんとかしてやりたくてむずむずするようになった

「こえの産婆だね、まるで」とある友人が言った

竹内敏晴著 ことばが劈かれるとき P182



竹内氏は演技の世界で、からだやことばが劈いていくことと向き合い続けていた。

演技のレッスンは、私にとって、

▷閉じられ、病み、歪んだからだを、他者に向かって劈いてゆく実験。
▷自分のからだを、そして、主体であり同時にものであるそれが向かいあう他者を、くり返し新しく発見してゆくこと。
▷自分と世界とのふれあいについて、常に新しく驚いてゆくこと。
▷日常生活、科学的思性によって疎外されているからだが棲みこみ、生きている世界を、根源的にとりもどす試み
▷そのとき主体(からだ)の動きは、他者のからだにおいて、その意味を成立させ、そこで完結する。

だから、(中略)演技の成立するのは、他者(観客)のからだにおいてである。

ことばが劈かれるとき P178


そもそも自分の声を自分で聞くことはできない


声が小さい癖にマイクという媒体が嫌いだった。大きくなって部屋で反響した自分の声を自分で聞くと全身の毛穴が逆立つ。録音した自分の声を聞くのも大の苦手で、いつも「このか弱そうで幼い声は一体誰が喋っているんだろう」といつも他人事みたいに構えてしまう。


竹内氏は青年期、聴覚が回復しつつある中での学校生活でまず自分自身の声を聞き分けることに奮闘していた。

(聴覚が回復しつつある中での学校生活で)はじめて気づいたのは、わたしがほとんど会話をしないということだった。(中略)会話がないからいわば世間をまるで知らない。ことばによって入ってくる情報がまるで乏しい。(中略)しかし会話しようと志してもことばを持っていない

もう一つ、こちらは改めて気づいたことだが、どうにも声が出ていないらしい。(中略)当時は、ただ声を大きくすれば他人に伝わるのだろうと思いこんでいた。

実を言うとこの誤解は、どうもことばが相手にちゃんと伝わっていないようだと感じる悩みを持つ人々に、かなり共通する思いこみである。そう思いこむ根本的な理由は、そもそも自分の声を自分で聞くことはできない、という単純な事実に、わたしたちが気づけないでいることにある。(中略)

わたしたちは内部の音を聞いているので、同じ自分の声でも唇から外へ出、空気の疎密波として他人の鼓膜を振動させる「声」を聞くことはできないのだ。

竹内敏晴著 声が生まれる 聞く力・話す力 P19,20



この、自分の声を自分で聞けないこの感覚は、鏡で自分の左右反転した顔しかみれないもどかしさとも似ている。自分が普段どんな顔を外に晒しているのか、なんで鏡に映るのはその逆なんだろうかと幼い頃ずっと考えていた。


聞こえなくなったことば


コーチングをはじめてからできなくなったことがある。
「賢いことば」を私の耳が拾わなくなってしまった。日常の中の、豊富な知識を織り交ぜたアドバイスや説得、ビジネスの会議で繰り広げられる論争などがするすると耳を通り過ぎていく。

コーチングという営みでは、コーチである私は相手が話す言葉の内容よりも、相手の存在全体を直視/感知しながら対話する時間を多く過ごす。その時間はスラスラ綺麗に澱みなく話すというよりも、つっかえたり探ったり戻ったりしながら、いわば下手に話すことで、自分自身と話していく、という点で日常会話と少し質感が異なる。

下手に話された言葉はよく耳に残る。その人の息遣い、言葉を探すための身振り手振りも合わせて丸ごとその人が伝わってくる。切ったら血が出そうなほど血が通っている。
一方で綺麗に話された言葉はどの人のも同じ形をしていて無印良品みたいに並んでいる。ただ綺麗という違和感。


このプロセスを繰り返していくうちに、ことばに血が通った音声・文字を目と耳が選ぶようになった。
日常で発動すると実に厄介で、会議では議事録を取らないと何が話されているのか迷子になる。

言語学にはあかるくないが、「第一次言語、第二次言語」の対比を読んでそこに自分の違和感が何か説明されていそうな気がした。

(1)第一次言語とは、今生まれつつあることば、生まれる過程において意味を形成してゆくことばであって、息づいていることば、なまのままのことばである。

(2) くり返し使われ意義が社会的に確定した第二次言語は、生まれた状況から切り離されて「死んでいる」。それをよみがえらせることによってのみ、「言語以前のからだ」、すなわち「真正のことば」を生み出すからだ

「出会う」ということ 第3章共生態としてのからだ

社会的に確立していった、いかに効率よく工数・ロスを削減していけるかに配慮が重ねられ、大衆的な意味合いが重く乗っかった装置のようなことばと、人から出たなまのことばを聞き分けられるようになっていくと何かのバランスを崩してしまった。



一方で、昨今の自己探求や対話への注目も、人々が失いつつある自分の「なまのことば」を取り戻そうとしている動きなのかもしれないとも思う。

第二次言語の切れ端をなんとか操作することをおぼえ始めていた時、「言語以前のからだ」は隠れたまま眠っていた。(中略)わたしは第一次言語を語り出せるようになり始めた。(中略)
わたしは第二次言語によって成立する社会、むしろ世間という制度についておよそ無知であって、そこへ第一次言語をじかに持ちこむことが、いかに理不尽なことであるかを全く理解していなかった。わたしが学ばねばならないのは第二次言語、そしてそれによって成立している世間(中略)であった。

「出会う」ということ 第3章 共生態としてのからだ

竹内芳郎氏の呼称に従えば(「言語・その解体と創造」)、日常会話は、第一次言語の次元であり、論理語および文学言語、とくに舞台言語は第二次言語である。(中略)
こえは、第一次言語に関する限り音ではない。からだの動きそのものであり、音はその一部である。だが第二次言語においては、こえ=音はそれ自体独立した音として美の考察の対象となる

ことばが劈かれるとき P229


こえは「全身のおと」の中から選んで並べられた一部

声が出づらい自分について、自分は悪いのどを持ってしまったんだと思っていた。どうやったら声帯をうまくコントロールできるのか、そんなことばかり気がかりだったが、
どうやらこえは全身の問題で、その奥底には「からだの衝動」があるという。

はて。

話しことばはこえの一部にすぎない、ということを言いたい。人間の発する音にはたくさんの種類があり、こえもその一部のわけですが、それにも、ためいき、うめき、叫び、うなりなどがあり、
ことばはそれらの一部であるとともに、整序されたものに違いない。だから話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない

ことばが劈かれるとき P25

こえとは何か?こえとは、からだが発する音の一種である(中略)

からだはたくさんの音を発している。普通じっとしていると言われているときでも、薄、腸の滋動、そして呼吸、生きている限りこの音は発しているわけだ。そのほか、手で、ものや、わがからだを打つ音、なでる音、ひっかく音、足で踏みつけ、蹴る音。(中略)

ことばを構成する母音子音などは、これらの呼吸音を整序し、選別したものにすぎない。こえを、そしてことばを発するとは、からだの内に発した動きを、もっとも敏感にからだ全体に拡大したとき、呼吸器官の部分に現われる動きの一部である。

こえの問題は、本来発声器官の問題でなく、からだ全体の問題なのである。

ことばが劈かれるとき P195

こえが出る、ということは、それだけで、全人間的な表現であり、かつ、探し求めていたからだの中の模索の、緊張の動きの、解放なのである。

ことばが劈かれるとき


こえが通らないというより、私のからだが出会いに行こうとしていなかった

竹内氏には「出会いのレッスン」というものがある。

二人の人が部屋のそれぞれ反対側の壁に向かって立って、「どうぞ」という合図で、振りむいてお互いの方へ歩く。すると途中ですれ違う。すれ違えば、当然、相手に対して何かを感じる。逃げてもいいし握手しにいってもいいし。どうなっても感じるままに動いてみようというシンプルなレッスン。
原型は演劇の基本レッスンの一つで、二人がすれちがう。通り過ぎて止まる、振り返る。振り返った途端に、今、通り過ぎたときの感じをぱっと表現する。



人と人が出会う、この瞬間で何が起こっているのか。

「出会い」ということの本質的な部分は実は、話し合って何かがわかるというよりも以前にからだとからだ、或いは、存在と存在が響き合うような次元のことで、言い換えれば「言語以前のからだ」の次元で起こっている、ブーバーの言い方に従えば「全存在の集中と融合」においておこることではないのだろうか

「出会う」ということ 第二章人と人の出会う地平


自分自身の日常を観察していると、自分の声の大きさに込められている意味合いに気づく。音量としては不便なことも多いが、この声質は自分を守るものでもある。
「自分の境界線はここまでで、私はあなたの領域を侵すつもりはありませんしあなたもこちらに侵食してこないでください」

こう込められたものが今の私の日常の声になっている。


最近、表現はできても伝達ができない自分、表現と伝達の間で何が起こっているのかに関心が向く。永井玲衣さんのことばがその痛みを代弁してくれているようだった。

永井玲衣著 世界の適切な保存

自分から自分を切り離して相手の中でじたばたする。まさしく私ができないことである。

そもそもその人の元へ出会いに行こうとしていないこえは、音量や喉の使い方以前に相手に届いていない、ということである。


先日とある合宿で、「目の前の相手と本気でコンタクトをとるワーク」をやった。2人で互いに見つめ合って、今自分の中にある音と体の動きを相手に届ける。
これがなかなかにむずかしかった。届けたい相手がするする手から逃れていって、声も届かず目も合わず。それでも、羽交締めにしてでも声を枯らしてでも、こっちを見て欲しかった。最中のことがあまり記憶に鮮明ではないが、全身が筋肉痛になって声が(ちょっとだけ)ハスキーになるほど相手を追いかけ続けた。


この体験を振り返ると、こえは意識が音をもったもの、とも捉えられる。

本当の意味で出会ったことのある人はいないのかもしれない。


四方八方から歪んでいるからだ

「歪み」もまた自分の大事な観察テーマである。幼少期からの噛み合わせなのか、自分のからだの歪みは顕著で、それに気づき始めたのを今でも覚えている。小学2年生だった。その時から自分ごととしていつもそばにあるのが「歪み」,

歪んだからだからでるおと、やわらかく解放されていくことで変化していく声。竹内氏の関わりが鮮やかに人々のからだに流れていく。今回は引用を並べるだけにしておく。

人間のからだは本来歪んでいるものだ。上に伸びるのと、下へ休もうとするのと、二つの力の闘いの現われが姿勢なのだ、とすれば人間の姿勢は、本来、そのどちらの力に傾くにせよ、無理があり、歪みを持つ、むしろ歪まぬからだなどない、と言った方が正しいだろう。
だとすれば、現代の私たちは、重力と、上方志向と、心的肉体的エネルギーの消費のバランスと、対人関係の恐怖と牽引と、さまざまなヴェクトルの交錯によって自分がどんな姿勢に追いこまれているかを知る必要がある

ことばが劈かれるとき P258

どもりは革命の歌だ。どもりは行動によって充足する。その表現はたえず全身的になされる。少しも観念に堕することがない。」(武満徹「吃音宣言」)
われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力ーそれがこえであり、ことばであり、表現である

ことばが劈かれるとき

一九九〇年代になって、子どもたちの間には、「ムカツク」を追い上げるように、「ムナシイ」ということばが広がり出しているようだ。(中略)
ムカツクとは、ぐいと呑み込むことも、吐き出してさっぱりしてしまうこともできず、嫌な異物がのどにひっかかった状態のまま耐えている、ということだろう。世界を受け入れることも拒絶することもできない宙ぶらりんのからだの自己表現だということになる。荒れることもあるし、自分の肉体を傷つけることもあるが結局は自分の不安定さへの知覚に閉じこもったままでいる、表現をしない、行動もしないからだだ。

思想する「からだ」




黙っているのなら
黙っていると言わねばならない


私は大人しく物聞きのいい子どもだった。(おそらく)
怒られている兄弟をよそ目に、私はそうはなるまいとお利口さんに過ごしていた。
そんな子ども時代の私にとっては、言わない、動かないことが一つの重要な意思表示でもあった。

お散歩で絶対これより先に歩かない、と足を踏み締めて地面を睨んで動かなかったのは今でも思い出話になっていたり。いろんなものを堪えすぎて膀胱炎になったり、慢性的な便秘持ちだったのも何かの現れだったのかもしれない。

谷川俊太郎の詩が引用される。

「一語によって私は人」とは、谷川俊太郎の詩の一節である。この詩は

黙っているのなら
黙っていると言わねばならない

で始まる。ことばが不自由だったものにとって、これは手ひどい促しだ。黙っているということは、からだの内の暗闇にうごめくものを、なんとか手探りして、(中略)喉の奥がよろめいている時間なのだから。暗間は沸騰している。口を開く余裕などない。
この一行はすでに語り得るもの、ことばを十分持つものが自らに課す掟に過ぎない。

「出会う」ということ

黙っている人に対して「私は黙っていると言え」という厳しさは、ゲシュタルトのワークでの実存的な関わりに見える厳しさに似たものを感じた。
こう続く。

だが谷川は

そこにしか精神はない

と書く。果してそうか。黙っているとは精神がない、というしるしなのか。人がみずから選んで他者におのれをあらわすことを精神と呼ぶとすれば、黙ることを選ぶと告げることによって、たしかに人はそこに立つこととなるだろう。ならは、ことばに欠けるものにとって「ことば」とはなにか。

一語によって私は人

(中略)まっすぐに向かいあって立ち、わたしのからだを相手の目にさらすこと、あらわにすること、そのことが「わたし」がここに生まれ出ることであり、「あなた」が現れることだ。これもまた人の、人へ差し出す「一語」である。
人は存在そのものでおる。啞であろうと、痛むものであろうと。だかそれを差し出すことを選ぶことにおいて「私は人」となる。

「出会う」ということ

たとえ黙っていようとなんであろうと、わたし自身を晒すこと、あらわにすることでわたし自身が生まれ、そうやって差し出された一語がわたし自身そのものである。


晒すことで生まれる、というのはホットシート形式で展開されるゲシュタルトのワークを通してその人自身を(そして自分自身も)知るプロセスと重なる。


まだ声にならないこえをきく対話

2年前から自分が提供するコーチングを「まだ声にならない声をきく対話」と表現している。

当時はこれ以外の言葉が見つからなかったからそうしていたが、最近になってその意味がようやく腑に落ちてきた。

コーチングに初めて触れたとき、まだ声になっていないものが自分からでてくる感触に驚いたことを覚えている。こんなものがことば未満の状態で自分の中にあったのかと自分に自分で気づく。


「声なしにはいかなる意識も可能でない」と書いたのはジャック・デリダである(「声と現象」)。いやかれはさらに断言してさえいるー「声は意識である」。(中略)

「ことばは意識である」と言いかえれば、あるひろがりを持つことになる。(中略)
すなわち、ことばとは、思念(意識)を発声するものではなく、意識はすでにことば=こえとして存在し、むしろ発声することによって思念が実現するのだと言いうること。

ことばが劈かれるとき


今思えばコーチングもデザインもこえになっていないものを見聞きするために自分に必要だった手段だった。

自分の中にある、こえにまだ上がっていないものをきくプロセスをわたし自身が欲しいと感じ、コーチングの中にそれを見つけ、一つの自分と社会との接点となって今に至る。


年末に本当に良い本と出会えた。2025年は見知ったこれらを実験していく年に😴



※コーチングは引き続き行っているのでご興味あればぜひ

※今回参照した本はこちら


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さちよ
ハーゲンダッツ代にします!