こえが出ない、出しても届かない。そもそも出したいこえが見つからない
声が出づらいことは昔からずっと自分ごととしてある。
暮らしに直結する困りごとである一方で、声で覚えてもらうことも多く、なんとか個性としても捉えようとしている。
人前に立つ自分の記憶として、決まっていつも思い出されるのは、かかとが鳴るくらい足が震え、手も声が震えて散々な結果に終わる様子だったり、
おしゃべりさんだった幼少期のどこかでピタッと急に喋らなくなったり。
これまでの発話やことばを辿っていくとそこに自分がよく現れている。
この記事は竹内氏のことばから自分と対話したメモ書きです。編みかけの引用だけでも何度も読み返したい。
こえの産婆 竹内敏晴氏
竹内氏は自身も聴覚障害の当事者であり、生後すぐに難聴になり耳がまったく聞こえなくなった。その後、少年期から青年期にかけ、薬による治療効果で徐々に片耳が聞こえるようになった。この過程で、一般には自然に済んでしまう「言語習得」を意識的に、自力で行わなければならなかった。
耳が聞こえるようになったからといって、そこから「話すこと」はまたほど遠い道のりで、いくつもの葛藤を経て、手探りで自然な発話を習得したという。
そんなプロセスを経た竹内氏は、人から生まれていくこえについて特有の感覚を有していた。
竹内氏は演技の世界で、からだやことばが劈いていくことと向き合い続けていた。
そもそも自分の声を自分で聞くことはできない
声が小さい癖にマイクという媒体が嫌いだった。大きくなって部屋で反響した自分の声を自分で聞くと全身の毛穴が逆立つ。録音した自分の声を聞くのも大の苦手で、いつも「このか弱そうで幼い声は一体誰が喋っているんだろう」といつも他人事みたいに構えてしまう。
竹内氏は青年期、聴覚が回復しつつある中での学校生活でまず自分自身の声を聞き分けることに奮闘していた。
この、自分の声を自分で聞けないこの感覚は、鏡で自分の左右反転した顔しかみれないもどかしさとも似ている。自分が普段どんな顔を外に晒しているのか、なんで鏡に映るのはその逆なんだろうかと幼い頃ずっと考えていた。
聞こえなくなったことば
コーチングをはじめてからできなくなったことがある。
「賢いことば」を私の耳が拾わなくなってしまった。日常の中の、豊富な知識を織り交ぜたアドバイスや説得、ビジネスの会議で繰り広げられる論争などがするすると耳を通り過ぎていく。
コーチングという営みでは、コーチである私は相手が話す言葉の内容よりも、相手の存在全体を直視/感知しながら対話する時間を多く過ごす。その時間はスラスラ綺麗に澱みなく話すというよりも、つっかえたり探ったり戻ったりしながら、いわば下手に話すことで、自分自身と話していく、という点で日常会話と少し質感が異なる。
下手に話された言葉はよく耳に残る。その人の息遣い、言葉を探すための身振り手振りも合わせて丸ごとその人が伝わってくる。切ったら血が出そうなほど血が通っている。
一方で綺麗に話された言葉はどの人のも同じ形をしていて無印良品みたいに並んでいる。ただ綺麗という違和感。
このプロセスを繰り返していくうちに、ことばに血が通った音声・文字を目と耳が選ぶようになった。
日常で発動すると実に厄介で、会議では議事録を取らないと何が話されているのか迷子になる。
言語学にはあかるくないが、「第一次言語、第二次言語」の対比を読んでそこに自分の違和感が何か説明されていそうな気がした。
社会的に確立していった、いかに効率よく工数・ロスを削減していけるかに配慮が重ねられ、大衆的な意味合いが重く乗っかった装置のようなことばと、人から出たなまのことばを聞き分けられるようになっていくと何かのバランスを崩してしまった。
一方で、昨今の自己探求や対話への注目も、人々が失いつつある自分の「なまのことば」を取り戻そうとしている動きなのかもしれないとも思う。
こえは「全身のおと」の中から選んで並べられた一部
声が出づらい自分について、自分は悪いのどを持ってしまったんだと思っていた。どうやったら声帯をうまくコントロールできるのか、そんなことばかり気がかりだったが、
どうやらこえは全身の問題で、その奥底には「からだの衝動」があるという。
はて。
こえが通らないというより、私のからだが出会いに行こうとしていなかった
竹内氏には「出会いのレッスン」というものがある。
二人の人が部屋のそれぞれ反対側の壁に向かって立って、「どうぞ」という合図で、振りむいてお互いの方へ歩く。すると途中ですれ違う。すれ違えば、当然、相手に対して何かを感じる。逃げてもいいし握手しにいってもいいし。どうなっても感じるままに動いてみようというシンプルなレッスン。
原型は演劇の基本レッスンの一つで、二人がすれちがう。通り過ぎて止まる、振り返る。振り返った途端に、今、通り過ぎたときの感じをぱっと表現する。
人と人が出会う、この瞬間で何が起こっているのか。
自分自身の日常を観察していると、自分の声の大きさに込められている意味合いに気づく。音量としては不便なことも多いが、この声質は自分を守るものでもある。
「自分の境界線はここまでで、私はあなたの領域を侵すつもりはありませんしあなたもこちらに侵食してこないでください」
こう込められたものが今の私の日常の声になっている。
最近、表現はできても伝達ができない自分、表現と伝達の間で何が起こっているのかに関心が向く。永井玲衣さんのことばがその痛みを代弁してくれているようだった。
自分から自分を切り離して相手の中でじたばたする。まさしく私ができないことである。
そもそもその人の元へ出会いに行こうとしていないこえは、音量や喉の使い方以前に相手に届いていない、ということである。
先日とある合宿で、「目の前の相手と本気でコンタクトをとるワーク」をやった。2人で互いに見つめ合って、今自分の中にある音と体の動きを相手に届ける。
これがなかなかにむずかしかった。届けたい相手がするする手から逃れていって、声も届かず目も合わず。それでも、羽交締めにしてでも声を枯らしてでも、こっちを見て欲しかった。最中のことがあまり記憶に鮮明ではないが、全身が筋肉痛になって声が(ちょっとだけ)ハスキーになるほど相手を追いかけ続けた。
この体験を振り返ると、こえは意識が音をもったもの、とも捉えられる。
本当の意味で出会ったことのある人はいないのかもしれない。
四方八方から歪んでいるからだ
「歪み」もまた自分の大事な観察テーマである。幼少期からの噛み合わせなのか、自分のからだの歪みは顕著で、それに気づき始めたのを今でも覚えている。小学2年生だった。その時から自分ごととしていつもそばにあるのが「歪み」,
歪んだからだからでるおと、やわらかく解放されていくことで変化していく声。竹内氏の関わりが鮮やかに人々のからだに流れていく。今回は引用を並べるだけにしておく。
黙っているのなら
黙っていると言わねばならない
私は大人しく物聞きのいい子どもだった。(おそらく)
怒られている兄弟をよそ目に、私はそうはなるまいとお利口さんに過ごしていた。
そんな子ども時代の私にとっては、言わない、動かないことが一つの重要な意思表示でもあった。
お散歩で絶対これより先に歩かない、と足を踏み締めて地面を睨んで動かなかったのは今でも思い出話になっていたり。いろんなものを堪えすぎて膀胱炎になったり、慢性的な便秘持ちだったのも何かの現れだったのかもしれない。
谷川俊太郎の詩が引用される。
黙っている人に対して「私は黙っていると言え」という厳しさは、ゲシュタルトのワークでの実存的な関わりに見える厳しさに似たものを感じた。
こう続く。
たとえ黙っていようとなんであろうと、わたし自身を晒すこと、あらわにすることでわたし自身が生まれ、そうやって差し出された一語がわたし自身そのものである。
晒すことで生まれる、というのはホットシート形式で展開されるゲシュタルトのワークを通してその人自身を(そして自分自身も)知るプロセスと重なる。
まだ声にならないこえをきく対話
2年前から自分が提供するコーチングを「まだ声にならない声をきく対話」と表現している。
当時はこれ以外の言葉が見つからなかったからそうしていたが、最近になってその意味がようやく腑に落ちてきた。
コーチングに初めて触れたとき、まだ声になっていないものが自分からでてくる感触に驚いたことを覚えている。こんなものがことば未満の状態で自分の中にあったのかと自分に自分で気づく。
今思えばコーチングもデザインもこえになっていないものを見聞きするために自分に必要だった手段だった。
自分の中にある、こえにまだ上がっていないものをきくプロセスをわたし自身が欲しいと感じ、コーチングの中にそれを見つけ、一つの自分と社会との接点となって今に至る。
年末に本当に良い本と出会えた。2025年は見知ったこれらを実験していく年に😴
※コーチングは引き続き行っているのでご興味あればぜひ
※今回参照した本はこちら