"老い"を隠す人は、"AIついていけてる風"を装う人と似ている
ビジネスの界隈では、生成AIの目まぐるしい進化、その活用、仕事や社会に起こす変化、5年後・10年後の予想…などの情報が日々流れています。
周囲を見るにつけ、時の流れと変化は、特定の職種に限らず、多くの人にとって脅迫者になっていると感じます。
時代の要請をキャッチアップすることは大事な事ですし、情報にアンテナ高く構え、勉強し、スキルを磨く努力は美しいと思います。
しかしながら、内発的な動機に着目したり、それを獲得する方法を忘れることは最も避けたいことだと最近よく思います。
尊敬するあの人も、年相応に老けていた
大学時代に神ぐらいに思っていた糸井重里さん。
訳あって、ほぼ日(ほぼにち。ほぼ日刊イトイ新聞)を作った頃の話が書かれている本を読み返しています。
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2001年頃に書かれたもので、僕が読んだのは2006年ごろ、約20年も前になります。
(僕は読む量よりも書く量が多く、本をあまり読まない人間なので、こうして昔の本を思い出すのは不思議な気持ちです。)
改めて読み返しはじめて印象的だったのは、糸井さんがほぼ日を始める以前、
・パソコンに興味が持てなかった、面倒くさかった
・いい年なんだから新しく何かを覚えるなんてこと、いまさらやりたくない
そんな旨の感覚を持たれていた点です。
失礼ながら言葉を選ばずに言うと、
糸井さんも"普通に老いていた"ということ。
僕にとって、糸井さんは"ほぼ日"もしくはMOTHER作った人のイメージです。つまり、ほぼ日の創刊当時なんてバリバリ現役だと思っていましたので、とても意外に感じました。
よくよく調べると糸井さんは1948年生まれ、ほぼ日は1998年生まれ。つまり50歳頃に始めた仕事です。当時で既に、現在の僕より10個以上も年上でした。
親世代に聞くと、糸井さんはコピーライターでテレビに出ていた人ですので、とっくに一時代は築き終えており、"老いらしさ"があっても不思議ではありません。
実際、本文を読むと、49歳の誕生日に初めてmacを買い、若者に設定をまるっとお願いし、「メールとインターネットだけできればいいから」と遠慮がちに声をかけるといった様子も描かれています。
その描写は、PCやスマホについて、事あるごとに子や孫に教わるシニアそのものであり、かなり”老いらしさ"を感じます。(尊敬する糸井さんに大変失礼な言い方で恐縮です…)
重要なのは、
"新しいものに積極的になれない"
とか
"変化が苦手、変化を拒む気持ちがある"
といった、"老いらしさ"を抱えていても、それ自体は時代の中で何かを始めたり、チャレンジし、身を立てて生きていく上で問題にならない、という気づきです。
老いを隠す心の動きについて
"いかにして老いを最大限遅延させるか?"
この問いに知らずのうちに囚われている部分もあったなと気付かされます。
自分自身40手前になり、ここ数年は戦うステージも変わっていました。そのため、現場で現役バリバリの人との感覚の違いが気になるようになりました。
また、生成AIのような大きな潮流へのキャッチアップや、自身のドメイン知識の最新化に対して、根拠不明の課題感を抱くようになっていたと感じます。
自身の仕事や技術への関わり方は変わっているにも関わらず、です。
過去の自分だったら、一線でそれらを語り、扱っているだろうという期待値からでしょうか。
もっとイタいことに、あたかも自分は、
・最新の潮流や知識に対して純粋な知的好奇心を持ち
・日常的かつ意欲的に新しいものを取り入れ
・新しいものの活用や研鑽を積んでいる
そんなポーズをつい取ってしまう部分があります。実際のところ、嘘ではありませんが心から望み、面白いと思い手に取るものではなく、手癖でついキャッチアップしている、という程度の熱意だと自覚しています。
老いそのものが本質的な問題ではないのに、自分の中の老いらしさを、無意識に抑え込むことで解決を図っているのです。
これはいけない、と考えました。
若いを目指すか、老いて尚若いを目指すか?
大変失礼な表現で恐縮ですが…僕の尊敬する先輩方は、それぞれの世代らしさ、相応の老いらしさを抱えつつ、皆さん結果的に、何らかの潮流に乗っています。
ここに並べるような話でもありませんが、私の母は大卒から専業主婦でした。社会人として教育を受ける機会もなく、PCスキルもビジネス知識も無い中、子が成人後には社会にうって出て、60の頃には市議会議員にまでなりました。
こうしたシニアの方々は老いたり遅れたりせずに追従し続けている感じではありません。
言うなれば単に若いのでは無く、老いながらにして若い。
諸先輩がたから学ぶことがあります。
老いず衰えず、"ついていけている"という安心を持つことは重要な本質では無いということ。
重要なのは、何かのために成したいことやその意欲を持つこと、またはそれを得る機会を持つこと、条件として仲間と共にあること。
もしかすると、技術の進化や、時代の流れに焦る感覚というのは、早い方々だと、20-30代から既にあるものだと思います。
しかし、ある程度生きてきて、忘れてはいけないと思うことがあります。
それは、人の起こす技術の変化や時代の変化は、それを必要とする人々に基づいて行われいるものが多いということ。
つまり、技術や変化は我々の先を走っているのではなく、常に我々のためについてくるものだという考えです。
我々が前を向き、それを得たい、成したいと思い続ける限り、技術も変化も、我々についてくる仲間であるはずです。
我々は、私は何を成したいのか?
この軸に立ち戻ることというのは、どんな業界、会社にいようが、技術に詳しかろうが疎かろうが、関係無く重要なホームポジションだと改めて思います。
追伸
こんなことを言いたいために、尊敬する諸先輩方を思い、"老い"というワードを連呼する不届きな文書を書いてしまいました。
どうぞ叱ってやってください。
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