「人のいないことのくじら」(切れはし小説ShortScrap)
恭子が目を輝かせて僕に言った。
「くじらの背中に乗れたなら、遠い海の果てまで旅をして、私のことを誰も知らない小さな土地で一生暮らすんだ。それはもうつまり、人としての人生を終えてしまうのと全く同じ意味なんだけど、どんなにイメージしてみても幸せだとしか思えないの」
そんなバカげた話があるもんかと、僕は彼女のことを鼻で笑いながら
「恭子の空想は、よくある絵本のそれと同じだね。たとえば写真にさえすることのできない、絵でなければ表現のできないでたらめだ」
そう言った。
恭子はそんな僕のことを、憐れみを込めた目で見つめると少しだけ首を傾げて
「あなたはまるで、年老いた哲学者か、アスファルトに描かれた「止まれ」の文字のようね」
とつぶやいた。
僕にはその意味がよくわからなくて、地面を見つめたまま口をひらくことができなかった。