「ひねくれている」
文章を書く、という行為自体は幼い頃から好きでした。
ただ、好きではあったけれど評価されるかは別の問題で、子供の頃に書いた読書感想文も、趣味で書いていた小説も、誰から誉められるということもなく、気づいたら何の取り柄もない、つまらない大人になっていました。
文章を書いて誰かに見せたとき、称賛の代わりに僕に浴びせられた言葉は嫌悪感で溢れた冷罵でした。
「ひねくれている」
もちろん、自覚はあったのです。斜に構え、流行りものを嘲笑し、世の中は間違っていると陰で批難し続ける姿勢で書いた文章など、万人受けするものではないと当時は思っていたし、理解してくれる人間が一人でもいればそれでいいと割り切っていました。そして、一人でもこの厭世的な気持ちに共感してくれる人を待ち続けたのです。
しかし、僕が待ち続けたその人は現れませんでした。世間は思っている以上に前向きに、肯定的に人生を謳歌している人間が大半だったのです。「ひねくれている」人間は、思ったよりもこの世界に多くいないのかもしれまない、と大人になった今気づいたわけです。
物事を素直に受け止められないという人は、人間としては欠陥品として扱われます。たとえ自分がそう思っていなかったとしても、綺麗事を並べて道徳心を保っているように──真人間らしく生きているように振る舞わなくてはなりません。誰かが病に伏したら同情しているように見せなければならないし、自分が面白くなかった話だとしても、周りの雰囲気に合わせて愛想笑いをしなければ、世間では上手くやっていけないのです。
「ひねくれている」僕は現在、真っ直ぐな心の青少年たちを育てる職業に就いています。「人が傷つくことを言ってはいけない」だとか、「困っている人がいたら手を差し伸べなさい」だとか、そんなことを恒常的に口では言い続けています。
でも僕は、いや、僕たちはそんなことは綺麗事だと理解しているはずです。大人になっても人の悪口は陰で平気で言うし、困っている人がいても滅多に自ら声をかける人もいないでしょう。
だとしたら、世の中の真実を教えることもまた、教育だと考えています。ですが、考えているだけで、行動には移しません。自分の思考を変えることはできますが、他人の行動を変えることは難しいことを知っているからです。
ならばせめて、このような形で日々思っていることを、文章を書くという形で吐き出す、アウトプットすることで表立って言えないことや「ひねくれている」思考回路を露呈させて、伝えていきたいと思いこのnoteというサービスを始めました。
拙い文章で読みにくかったら申し訳ありません。今後精進していきますので、「ひねくれている」僕の話を、愚痴を、引き続き読んでいただければと思います。