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金木犀/茶子

※この作品は2024年5月19日(日)文学フリマ東京38から販売している「もっと甘い世界に浸っていたい」に収録されています
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もっと甘い世界に浸っていたい - 四蜜 - BOOTH

 この日は朝から絶えず冷たい雨が降っていたのをよく覚えている。
 スーツの裾を濡らした俊志男は、救急病院の廊下に並べられた長椅子に腰かけていた。目には力はなく、丸まった背中からはまるで生気が感じられない。それもそのはず、最愛の娘が今すぐにもこの世から去ってしまうかもしれないのだから。
 今から3時間ほど前、俊志男のスーツの内ポケットに入れていたスマホが突如ブルブルと震えた。いつも勤務中はなるべくスマホを見ないようにしているが、今日は一度振動したあと再びすぐに振動したため、緊急の連絡かもしれないとスマホを取り出した。画面には「電話に出て!」というメッセージが映し出されている。俊志男は勤務している眼鏡店のバックヤードへ慌てて移動し、折り返し電話をかけた。相手は妻の良子だった。
「お父さん!今、月見坂の総合医療センターにいるんだけど、麻衣子が意識不明で運ばれたの」
 麻衣子は今年高校二年になる一人娘だ。月見坂の総合医療センターは俊志男たちが暮らす大阪府郊外にある救急病院である。良子の声は俊志男の耳にしっかりと届いていたが、起きている事象にまるで頭が追いつかない。昨日まで元気だった娘が今は意識不明、そんな恐ろしいことが起きてほしくないという気持ちが理解を妨げるのか。意識に反し、俊志男の心臓はけたたましく高鳴った。
「お父さん、聞いてる?! 麻衣子が大変だからすぐに病院に来て、ね!」
 俊志男は訳がわからないまま、心配そうにこちらを見ている店長の白柳に早退したい旨を申し入れ、急いでタクシー乗り場へと向かった。俊志男の勤める眼鏡店はショッピングモール内にあるため、タクシーが通る大通りまではけっこうな距離がある。しかも今日は朝からひどい雨でタクシーが捕まるかどうかもわからない。最悪のケースが頭をよぎっては打ち消しながら、白く無機質な従業員通路をひた走る。
 ショッピングモールの正面玄関で駅方面から流れてきたタクシーをどうにか捕まえ、救急病院まで車を走らせた。順調にいけばここから20分ほどで着くはずだ。大事な一人娘だ。彼女がもしこの世からいなくなってしまったら——。
 病院に到着すると、「救急室」と表記された看板の前に良子が立っている。良子も相当慌てて家を出てきたのだろう。今日は朝から冷え込んでいたのに上着も羽織っておらず、薄いニットにチノパンという寒々しい出立ちだ。振り返った良子は俊志男を見つけた途端、今まで一人で耐えていた反動なのか周りを気にする様子もなく泣き崩れた。
「麻衣子に何が起きた」
「夕方仕事から帰った時、麻衣子は私が帰るといつも部屋から『おかえり』って言うのに今日は物音ひとつしなくて。なんだか嫌な予感がして部屋に入ったら麻衣子がベッドの上で倒れてたの。ベッドの上には前に病院からもらってた薬のシートとか袋とかいっぱい落ちてて……。」
 麻衣子は中学二年の頃から時々不眠や体調不良を訴えるようになった。それをスクールカウンセラーに相談すると一度心療内科の診察を受けるよう勧められたのだ。そのクリニックで自律神経失調症と診断されたため、抗うつ剤や睡眠導入剤などを処方され、現在も二か月に一度通院を続けている。どうやら良子の話ではそれらの薬の他に市販の睡眠補助剤などを飲んで倒れていたらしい。良子が見つけた時にはすでに意識がなく、慌てて救急車を呼びここに来たという。
「それで麻衣子の様子は?」
「今は胃洗浄をしてもらって大量の点滴をしてる。お医者さんの話だと意識が戻るかどうかはまだわからないって」
 良子は説明し終わってからもなお泣き続けた。
 麻衣子は中学受験を経て、現在は大阪市内にある中高一貫の女子校に通っている。入学したのは関西で最も偏差値の高い中学で、合格した時俊志男はまるで自分が何かを成し遂げたかのような誇らしい気持ちになった。小学四年から始めた受験勉強ではまだ幼い我が子をここまで勉強漬けにしないといけないのか、と躊躇したこともあったが、無事に合格を手にした後は「やはり自分は正しい選択をしたのだ」と思った。
 かつて俊志男自身は大学受験の時に二年間浪人生活をしていた過去がある。しかし親の期待するレベルの大学には合格できず、結局高卒として社会に出ることになった。今勤めている眼鏡店は全国に15店舗を持つ比較的安定した企業だが、最近では新興企業の勢いに押され、年収も20代の頃からさほど上がっていない。娘が生まれた35歳の頃に一度転職活動をしたものの、履歴書を数十社に送ったが書類選考もほとんど通過しなかった。俊志男はその時に強く「大学さえ出ていれば」と悔やんだのだ。娘にはこんな惨めな思いをさせたくない。麻衣子には必ず偏差値の高い大学へ進学させようと心に誓った。
 良子と俊志男は長椅子に座りながら焦りと祈りが混じり合ったような気持ちで待っていると、救急室の扉が開き中から一人の看護師が出てきた。彼女は誰かを探すように辺りを見回しながら「斉木さん、斉木麻衣子さんのご家族の方」と呼びかける。俊志男と良子は「はい」と答えると同時に駆け寄った。
「ご家族の方ですね。点滴と胃洗浄、下剤の処置をしましたが、ご本人はまだ意識が戻っていません。今日はこのままICU(集中治療室)に入院して頂きますので、今から説明する場所で入院手続きを行ってください。また入院の際に必要なものがありますので、ここに記載されたものを用意してお持ちください」
 ここに運ばれてきた患者の家族に対し、この看護師はこれまで幾度となく同じ説明をしてきたのだろう。淀みなく言い終えた後「持参品一覧」と書かれた白い紙を差し出した。
「……麻衣子は大丈夫でしょうか」
 良子がおずおずとそう尋ねると看護師は
「詳しいことは私からはお話しできないのですが、状況はあまり変わっていません」
と続けた。良子は
「そうですか」
と小さく呟いた。最愛の娘の命の灯が今にも消えようとしている。しかし自分たちにはどうすることもできない。そんな無力さに二人は押しつぶされそうだった。
 看護師から説明を受けたあと良子は持参品を取りに自宅に戻ると言い、病院を後にした。俊志男は看護師に教えられた総合受付カウンターで入院手続きを済ませ、麻衣子が移動したICUへと足を向ける。もしかして麻衣子の様子を見ることができるかもしれないと期待したが、ICUの窓は曇りガラスになっており中は見えなかった。俊志男は再び冷たい長椅子に腰かける。いつの間にか外は真っ暗になり雨は窓を一層強く叩きつけていた。

            ♢

 それからどのくらいの時間が経っただろう。俊志男は左手首につけていたアナログ時計に目を落とすと、時計の針は午後8時40分を指していた。いつもなら自宅のリビングで夕食をとっている時間か。ありふれた日常がどれだけ幸せなことだったのだろう。緊張と不安で疲弊した俊志男はそっと目を閉じた。
「あれ、もしかして俺は眠ってしまっていたのか」、こんな状況の中で眠るはずなんてないと訝しく思いつつも、瞼を開くとそこは以前家族三人で暮らしていた公営団地の一室だった。ここに住んでいたのは俊志男と良子が結婚した頃から、麻衣子が小学五年になるまでの間だ。その後は隣町にある中古の小さな一軒家に引っ越し、現在もそこで暮らしている。部屋には良子が結婚の際に嫁入り道具として持参した団地の部屋には大きすぎる木製の洋ダンスや三面鏡が置かれており、畳の上には生成色の絨毯が敷かれていた。俊志男はコンクリートにただペンキを塗っただけの剥き出しの壁に触れながら「少し前のことなのにずいぶん懐かしい感じがするな」と物思いに耽っていると、キッチンの方向からよく知る声が聞こえてきた。
「おかあさん、ただいま〜!」
「おかえり」
 玄関から帰ってきたのは小学生の頃の麻衣子だ。
「おかあさん、ちょっと手を出して」
「なあに」
 麻衣子は嬉しそうに良子の手のひらに何かをのせた。
「わぁ、いいにおい」
「帰り道にね、このお花が咲いてたから拾ってきたの。前におかあさんこのお花好きって言ってたでしょ」
「覚えててくれたの? うれしい」
 そう言って喜ぶ良子の手のひらの上には淡いオレンジ色の金木犀の花びらが並んでいる。麻衣子はどこか恥ずかしそうに照れ笑いしながら良子の顔を見上げていた。
 そこから少し時間が経ち、キッチンの棚からおやつを物色している麻衣子に良子が話しかける。
「麻衣子、何か食べていく? 今日は学校が六限の日だからもう家を出ないとね」
 麻衣子の表情はみるみる曇っていった。
「おかあさん、私もう塾に行きたくない……。」
「そんなこと言わないで。行ったら楽しくなるよ」
「楽しくならないよ。授業についていけてないの私だけなんだよ。もうやだ!」
「受験まであと少しだから。今頑張ったら中学はきっと楽しいよ」
「私、美術部のある学校に行きたい。でもおとうさんが薦める学校はどこも美術部がないんだよ。やっぱり私、三中に行きたい……。」
 三中というのは、家から徒歩10分ほどの場所にある地元の公立中学のことだ。麻衣子が通う小学校からは三分の二ほどの生徒がその学校に進学するのだが、そこには麻衣子の希望する美術部があるらしい。しかし難関校に行けばいい大学に進学できる可能性が上がり、ひいては未来の選択肢は広がると信じる俊志男は麻衣子の希望を聞き入れなかった。
 また、俊志男には二つ下の弟がいた。関西では有名な私立大を卒業した弟は、現在はメガバンクに勤務している。毎年、盆と正月に実家で顔を合わせるのだが、集まった親戚から自分と弟が常に見比べられているような気分がして居心地が悪かった。そんな弟にも麻衣子と同じ年頃の二人の娘がいる。もし親子ともども弟一家よりも学歴が劣ったりしたら。それこそもう実家には帰れないだろうと俊志男は頭を悩ませた。
「それなら直接お父さんに言ってみたら。塾やめたいって」
「そんなのおとうさんが聞いてくれるわけないじゃない」
「でも、おかあさんから言っても聞いてくれないもの」
「なんで私の話を誰も聞いてくれないの? 私はただ、話を聞いてほしいだけなのに!」
 おしだまる良子に、麻衣子の感情はさらに溢れ出る。
「どうして自分のことなのに自分で決めさせてくれないの!」
 麻衣子は後ろ手にバタンと扉を閉め、自分の部屋へ戻ってしまった。
「麻衣子——」
 俊志男は麻衣子に何か言葉をかけてやりたくなったが、かけられる言葉はまるで思いつかない。テーブルの上には乾いた金木犀のカケラが散らばっていた。
 保育園の頃から麻衣子は絵を描くのが好きな子どもだった。小学校に上がってからはノートの余りのページや学校から配布された便りの裏に絵を描いたり、絵を友達にプレゼントしたりして楽しんでいた。そんな麻衣子は受験本番に向けてそろそろ志望校を絞らねばならない六年の一学期に「美術部のある学校に進学したい」と言い出した。それまではほとんどといっていいほど自分の意見を主張せず、俊志男の言うことに素直に従っていた麻衣子が、初めて自分の意見を言ったのだ。俊志男には娘の成長を喜ぶ気持ちはなく、面倒だとしか思わなかった。美術部に入部したからといって将来絵で食べていける人間なんてどれほどいるんだ。そんな可能性に賭けるよりも偏差値の高い学校に進学する方がよっぽど安定した将来に近づけるのではないか。子どもは社会を知らない。だから親が決めてやるべきなのだ。
 麻衣子が小学四年から六年まで通っていた塾は、毎年多くの子どもを難関校に合格させる関西有数の進学塾だった。月に二度、塾で講義をした範囲からテストが行われ、成績順にクラス分けされる。1つの学年が4クラスに分かれており、麻衣子はいつも一番下とその上のクラスを行ったり来たりしていた。俊志男は毎度その結果を知るのが大変なストレスだった。
 良子は学年が上がるにつれて上がっていく塾代を捻出するため、この頃からパートに出だした。家族全体のムードがだんだんと重くなっていくのを感じていたが、一度進み始めてしまった道を簡単に離脱するわけにはいかない。掴みどころのない使命感のようなものに俊志男は絡め取られていた。
 何度も一番下のクラスに落ちてしまう麻衣子を見かねて、俊志男は麻衣子の勉強の管理をするようになっていった。平日は塾の課題があるが、夏や冬の長期休暇は苦手科目を克服するチャンスだと捉えていた。模試や塾のテスト結果から麻衣子が苦手とする分野をピックアップし、休暇期間の日程内で完璧に終われるようにスケジュールを組む。エクセルを使って細かな表を作成するのも俊志男の仕事だ。麻衣子は、小さな体にずっしりとのしかかるリュックを背負い、家と塾を毎日往復しながら、朝から夕方まで講義を受ける。そして帰宅してからは俊志男が考えた勉強をこなすのだ。麻衣子もできるだけ父の期待に応えようと、夜遅くまで机に向かった。
 しかし長期休暇も中盤まで来ると、俊志男が決めた勉強をこなせない日が出てきた。麻衣子は限界を迎えていたのだ。しかし「このままでは受験に間に合わない」、そんな焦りから発生する怒りを俊志男は抑えることができなかった。
「おい、今日の分の勉強はやったのか」
「まだ」
 麻衣子はうつむき加減に小さな声で答える。
「どうしてやらないんだ」
「……。」
「できないじゃなくて無理にでもやるんだよ!」
 俊志男がそう怒鳴ると、麻衣子は目にいっぱい涙をためながらトボトボと机に向かう。自分の出した大きな声でより怒りが高ぶった俊志男は麻衣子の後ろを追いかけ、さらに言葉を投げかける。
「もし次の模試で前よりも成績が落ちてたら、もうお前なんていらない。頑張りどきに頑張りきれないやつなんて社会に出ても何の役にも立たないんだ。お父さんはそんな人間をいっぱい知ってる。そんな奴はこの家にいらないんだ!」
 言いたいことを言い少し気がすんだ俊志男は、麻衣子の部屋を出て自分の部屋に戻っていった。麻衣子はその後も何も言わず、とうとう堪えきれなくなった大粒の涙は、手に持っていた分厚い問題集の表紙を濡らした。
 麻衣子がよく爪を噛むようになったのは、この頃からだっただろう。俊志男はその変化に気づいてはいたが、中学受験が終わるまでは優しい言葉をかけることはしなかった。この3年間さえ乗りきれば。親としてやるべきことをやっているのだと、自分に言い聞かせた。
 キッチンでの二人の会話を盗み聞いていた俊志男は、「俺は間違ったことをしていたのだろうか」とこれまでの自分の行いを振り返っていた。すべて麻衣子のために厳しくしてきたのだ。俺は間違っていない。しかし当の麻衣子は、自ら命を絶とうとするほどに苦しんでいる——。

            ♢

 一度冷静さを取り戻そうと大きく呼吸をしながら目を瞑った。すると突然、辺りが深い闇に包まれた。再び目を開けると、そこは現在住んでいる自宅のリビングだった。周りを見回すと今とは家の様子が少しだけ異なっている。家具や置いてあるものが少なく、ややすっきりしているのだ。壁に掛けられたカレンダーを見ると「2021年12月」と書かれていた。今から5年前、ここに引っ越してきたばかりの頃だ。たしか麻衣子は中学二年だったはずだ。
 レースカーテンがかかる掃き出し窓から橙色の光がぼんやりと射し込んでいる。俊志男はダイニングチェアに腰かけていると、玄関の鍵がガチャっと開く音がした。外出先から良子と麻衣子が帰ってきたのだろう。麻衣子は俊志男がリビングにいることがわかると、何も言わずそのまま二階にある自分の部屋へ消えていった。後から続いて入ってきた良子が俊志男の存在に気づき話しかける。
「あれ、お父さん今日はずいぶん早かったのね。ご飯まだできないんだけど大丈夫?」
「あ、あぁ」
 妙にリアルな夢だなと俊志男は少々戸惑ったが、普段のように返事をすると、良子はいつもの調子で話し続けた。
「今日は麻衣子がクリニックに通院する日だったから、学校帰りに待ち合わせて一緒に行ってきたのよ。すぐご飯用意するわね」
 クリニックという言葉から、麻衣子が自殺を図るために隠し持っていた薬が思い出され、俊志男は一瞬ドキリとした。しかし良子は何も気にかけない様子で冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いで俊志男の前に差し出した。
「それでお医者さんはなんだって」
「麻衣子が薬を飲んでも夜眠れないって言うから、マイスリーを増やしてもらって今晩から2錠ずつ飲むことになったのよ。いったんそれで様子を見てみましょうって。麻衣子、学校の授業にも全然ついていけてないらしくて、それで体がずっと緊張状態なのかも」
 マイスリーとはクリニックから処方されている睡眠導入剤だ。良子はバッグから白いビニール袋を取り出すとぽんとテーブルの上に置き、夕食の準備に取りかかった。袋は大量の薬で大きく膨らんでいた。良子は野菜を切りながら俊志男の方を見ずに話し続ける。
「麻衣子、やっぱり受験しなかった方がよかったんじゃないかなって、最近よく思うのよ」
「どうして」
「だって、子どもが病気になるほど苦しむなんてよっぽどのことでしょ。絵だってあんなに好きだったのに美術部に入れてあげることもできなかったし。もし三中に行ってたら麻衣子は今よりもっと幸せだったのかなって」
「お前だって受験に賛成してたじゃないか」
「あの頃はこんなことになるなんて思わなかったし、あとあなたが言うことは絶対っていう雰囲気だったから……。」
 それは俊志男も自覚していた。表面上は良子と対等な態度を取っているが、自分がどうしても譲りたくない場面では威圧感を出して自分の意見にそわせようとする。
「今しんどくてもいい大学にさえ入ったら未来は安泰だよ」
「将来のことも大事よ。でも結果ばかりを求めて今を犠牲にし続ける人生って、幸せと言えるの」
 良子の言うことは正しいようにも思えた。これまで親としてやるべきことをやってきたつもりだったが、間違っていたのだろうか。もし間違っていたとしたらそれはどこからなのか。中学受験をしたこと? 授業についていけないようなハイレベルな塾に入れたこと? 無理をして勉強をさせたこと? どこまでが適切な教育の範疇で、どこからが逸脱なのか——。
 俊志男は良子から受け取った麦茶を飲んだ。リビングの壁かけ時計がボーンボーンと午後7時になったことを告げた時、またも俊志男の周りが真っ暗になった。

            ♢

 次に俊志男が目を開けると、そこはさっきまで良子と話していたのと同じ、自宅のリビングだった。ひんやりと冷えた床の冷たさに、いつも履いているスリッパを探して履く。足の裏がほんの少し温かくなったのを感じてから、今度はカレンダーを探した。そこには「2024年11月」と書かれており、17日のところまでバツのマークがついているのを見つけてハッとした。今日は麻衣子が自殺する3日前だ。
「この日は何かあったっけ」、俊志男は必死に思い出そうとしたが何も思いつかない。俊志男にとっては毎日が同じような日常の繰り返しで、特別なイベントなどほぼないのだ。それでも思い出そうとする俊志男をよそに、二階からトントントントンと階段を降りる音が聞こえてきた。麻衣子だった。
「お父さん、ちょっと話があるんだ」
 俊志男は急に思い出した。いつもは俊志男がいても目も合わせない麻衣子が、この日は珍しく麻衣子の方から話しかけてきたのだ。
「どうした」
「私、行きたい大学があるの」
 麻衣子にはある一定以上の偏差値の大学に進学してほしいという考えを、小さい頃から何度も話していた。俊志男の求めるレベルの大学とは、なにも別に、東大や京大に行けというのではない。将来、就職活動をする時に書類選考で落とされないレベル、そう、関西であれば関関同立、東京ならGMARCHくらいの大学に入学してほしい。卒業後は安定した大手企業に就職して、同じような企業に勤める男性と結婚してほしい。俊志男はそんな自分の思い描く理想を、麻衣子に成し遂げてほしかった。
「私、心理学を勉強したいから今度新しく新設される心理関係の学部のある西邦大学に行きたい」
 西邦大学とはいわゆるFランクと呼ばれている大学である。
「それはダメだ、せっかくいい高校に通ってるのに西邦なんかに行くなんて」
 麻衣子はその後も一生懸命に、新しく新設されたこの学部であれば自分が学びたい分野が学べること、その分野で最先端の研究をしている教授が所属していること、キャンパスにも行ってみたが環境にも満足したことなどを話しながら、そこでもらってきたらしい大学案内を俊志男の目の前に並べた。俊志男は麻衣子の意志は感じたが、認めることはできなかった。
「社会に出てからは、大学で学んだこと以上に、どこの大学を出たのかが重視されるんだ。レベルの低い大学を出たら、麻衣子自身が将来困ることになる」
「それって私のために言ってるんじゃないよね。お父さんは全部自分のために言ってるんでしょ。理想を押し付けてるだけだよね」
 麻衣子はそう言いながら、俊志男を睨んだ。それでも俊志男は
「絶対ダメだ」
 そう言うと、麻衣子は何も言わずリビングから出ていった。
「今はわからなくても就職するときに実感するんだ。いい大学に行っておいて良かったって」
 しかしあれでよかったのだろうか、という疑問も感じていた。この3日後に麻衣子は自殺を図るのだ。俊志男は自分の行動に自信を持てなくなっていた——。

           ♢

 突然また目の前が暗闇に覆われた。目を開けると、庭の方から雨が激しく打つ音が聞こえてきた。部屋には電気がついておらず人の気配もない。俊志男がカレンダーに目をやると今度も先ほどと同じく「2024年11月」と書かれていたが、バツ印の位置が違う。バツ印が20日まで書かれているということは、今日は21日だ。麻衣子が自殺を図った当日である。
「え、これは今日、なのか」
 腕時計の針を見ると午後4時52分をさしている。今が自殺当日だとしたら、麻衣子が自殺を図った時間と近いはずだ。部活に入っていない麻衣子はたいてい午後4時には学校から帰ってくる。良子はまだパート先から帰っていないようだ。俊志男はいてもたってもいられず、すぐさま二階にある麻衣子の部屋を目指し階段をかけ上った。電気がついていない階段はずいぶんと暗かったが、気に留める様子はない。部屋の扉を開けると、麻衣子がベッドの上に制服のまま座っていた。
「——麻衣子!」
「お父さん?!」
 麻衣子は慌てた様子でスカートの下に何かを隠した。
「何してる」
「お父さんこそ、何? 急に入ってこないでよ」
「何をしてるんだと訊いてるんだ」
「お父さんには関係ないでしょ」
「やめろ、今すぐそれを渡せ」
 麻衣子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻した表情で俊志男を見つめた。
「やめない」
「どうして」
「もう全部嫌なの。私が死んでも誰も悲しまない。むしろいなくなって良かったって思うはず。だから私の勝手にさせて」
「そんなことあるわけないだろ」
「お父さんは今まで私を責めることしか言ってこなかったじゃない。一度も認めてくれなかった」
「お父さんが麻衣子に厳しく言っていたのは、麻衣子にもっと頑張ってほしかったからだ」
「そんなの、もうこれ以上頑張れないよ……」
 麻衣子は今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、そう声を絞り出した。
「とりあえず、それを渡すんだ」
「いや! それ以上近づいたら一気に飲むから」
 麻衣子は薬をシートから外している途中だったようだ。外し終わった分の薬をギュッと握りしめた。
「私はもうここから消えたい。毎日辛いし、自分が何の役にも立ってないのがしんどいの。お父さんもいい大学に行かない私にはここにいてほしくないでしょ」
「そんなことない」
「うそ! 少し時間が経ったらこれまでみたいにまた絶対いい大学に行けって言う。私の意見は? どうしていつも私の言葉を聞いてくれないの」
 自分の心の中を見透かされた気分だった。ここで自由にしていいなんて言ったところで、舌の根も乾かぬうちに自分はまたいい大学を目指せと言ってしまうかもしれない。娘に幸せな人生を歩んでほしいという純粋な願いは、いつからか、いい大学に行かなければ麻衣子も自分も幸せになれないという考えにすり替わっていた。
「麻衣子……」、俊志男が話しかけようとすると、また目の前が真っ暗になった。「まだだ!」 まだ自分は麻衣子に何も伝えられていないのに——。

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