正義は誰でも持ってるけど、言葉で思い浮かべたくないだけだ
正義について考えること自体が、すでに正義が発生しはじめているのは、まぁ誰だってわかるだろ。何かを良いとすれば、反対のものの価値を認めるのは難しい。良い点は色々あれど、結局は悪いものになる。だから批判的意見はそうそう誰も言わない。それに批判するってのは、良いものあっての行為。でなきゃただのヘイターだ。
詰まる所、この世で唯一平和に生きる方法は「正義」について語らないこと。何かを良いとしないこと。何かを批判しないこと。これに尽きることを、多くの人間は知ってる。
けれど残念ながら、生きている以上、いや、死んでからだって物質であり続けるなら、きっと「正義と悪」なんていう子どもじみた二元論からは一生抜け出せやしない。いくら大人になって選択肢が増えようとも、結局は選択を増やした中に優先順位をつける。もしくはグループに分けることによって「良いもの」と「悪いもの」を選ぶ。そうなるしかない。3つから1つを選ぶ。てことは、選ばなかった答えと、選ばれえた答えが残るだけ。つまり、結局どこまで行っても2つに1つ。悪と正義ってのは、いつだってそうやって生まれる。
だから、正義ってのはいつも掃除に似てると思っている。
何かを残し、何かを捨てる作業に似ている。部屋の大掃除をする時、部屋にあるものを一切捨てれない人間は、一生正義については語らない。けれど、必要なものと、不必要なものを分けれてしまう人間や、「なんでこんなものを捨てるの?」と言われてしまうような人間は、必然的に正義について良く理解している。正義は必要なもの。悪はゴミで、必要なものを埋もれさせるやつのことだってな。
まぁ、正しい答えだけが全てじゃないよな。けど、先に言ったろ、結局人は選択しを増やしても、優先順位やグループによって統括的「二元論」に持ち込む。つまるところ「選択をしない」と「選択をする」という2つの選択から、ただ1つを選んだに過ぎない答えで、正義について理解はしてるけど、「正義」って言葉は使わない。そういうやり方でしかない。結局大人ぶって選んで出した答えだけれど、そいつを「正しい」って思ってしまってるなら、残念ながらそれも正義だ。
法律に正義をまかせるのも良いだろう。法律は平等であるはずだし、理解を得られやすい。だからこそ正義の中でも大変平和的だ。
だけれど、残念ながら正義という選択肢の中にも、結局は二元論が存在してる。そして、法律こそが正義という主張は、僕の中では「弱い正義」に分類されている。法律はただの道具。僕からすればそんな認識しかない。
なぜこんな発言が出来るのかといえば、それは正義は結局個人の主観の中にしかないからだ。ここを外れた正義は、正義としての純度を薄めていき、やがてアナーキズムの代表みたいな言葉で論じられるレベルに落ちる。
そして、弱い正義は人間を動かす力を失う。
恐怖の対象となるのが正義であり、人を奮い立たせるのが正義であるのは間違いない。危険なものだ。扱い方を間違えれば、すぐに本人が吹き飛ぶニトログリセリンじみた何か。
けれど、このエネルギーを時たま上手く使える人間がいる。まるでニトロで走れるエンジンみたいに強固な奴だ。
そういう人間は正義を信じて疑わないばかりか、本当に意外なほどに人間を信じている。驚くほどに性善説を信じている。それが強味で、世の道理。だからこそ、おそろしく危険な正義を使いこなせる。そして部屋の掃除が大得意だ。
ところで、この文章を暇つぶしに書いていて気になるのは、あんたはどっち側の人間かってことだ。
何かを選んできたのか?
その中で、「正義」ってやつを感じたことがあるか?
性善説ってやつを、信じたことがあるか?
そして、部屋の掃除は得意か?
もしそうなら、すでにあんたの中には正義が生まれてしまってる。気をつけろよ。もしも人間が信じれなくなったら、そいつは一気にあんんた爆死させるだろう。気を付けろよ、ここはもう修羅場だ。