イモと台風
久しぶりに書く。
台風がきたので酪農や畑がダメになってしまったばかりか、漁業も大打撃。けど知り合いの農家や酪農家はタフだ。ショックは大きく隠し切れないけれど、口から出るのはもう来年や、その来年の土壌改良の話、そして金だ。
僕は農家じゃないけれど、実家は片手間に農業をやっていた。数年前に引越して仕事場にしている僕の家にも小さい畑がある。そこで育った芋。おそらく腐ってしまっているが、まだ葉は青い。
人も野菜と同じく、腐るときは腐る。それを誰かのせいにしてより腐る人間は山ほど見てきたが、それは悪いことじゃない。人間はどいつもジャガイモだって誰かが言ってたけれど、それはコミュ症に与えるおまじないじゃなくて、ただの比喩だ。ジャガイモも回避不能なことで腐る時は腐る。腐ってもイモ、というより、腐るのもイモ。立派なばかりが人間なんて言ってたら、その言葉の脆さに気がつけてない。イモも同じく、環境の変化に強いと言われているけれど、腐る時は腐る。でも、腐ったらダメというなら、イモの強さには気が付けない。イモの本当の強さは、腐ってからが本番だ。
腐ったジャガイモは収穫の際に捨てられる。けれど、寒い冬を乗り越え、来年の春に気が付けば勝手に芽が出てくる。畑だけじゃない。くさむらや、砂利の中、コンクリートの下からだろうが芽を出す。どこだろうが目を出す。腐っていたにも関わらず、農家の迷惑もかえりみず、ところ構わず。
じゃぁ人間もイモみたいに大丈夫かって?
イモの大切さをしって、腐った人間も大切にできるかって?
そんなわけないだろ。
僕はスピリチュアルに興味はない。
悪いけど、夢見がちなポエムもここまでだ。
そもそも、ぶっちゃけ捨てたのにそのあたりに出てくるイモに農家は迷惑してる。それに、生えるからって腐ったイモをもう一度畑に埋めようなんて農家は考えない。その翌年の収穫量が落ちて、収益が減る。それに、台風でやられた土壌には金がかかる。腐ったイモをわざわざ畑に植えてくれる優しい農家?ばからしい、農家がイモを捨てる時は二度と生えないように処分するんだ。それにうちのイモだって、捨てたのが勝手に生えてきただけで、本当は枝豆の間から生えてる。収穫の予定?そんなものはじめから無い。腐ったものってのは大抵の人間にとって邪魔なだけで、芽が出るだけでも面倒。これが現実だ。
それに、生涯というのはイモのように一年じゃすまない。その間に何度も腐ることがある。頑張っていようとも、台風に襲われるみたいに不可避なことが一度や二度じゃないし、毎日やってきてるってやつもいる。結果、野菜も、農家も、諦めなきゃならないことも多いし、それを誰も責めやしないさ。
けれど、台風でやられた土壌を回復させる間、野菜も、それを育てる人間も、本人が気が付かないうちに、求めている強さを手に入れていく。世の中の泥の中で何を見るのか、そのなかに潜っても、選べる強さを持ちたいと思っていたあの頃が、今の自分を形作り、その先も、その先も、選んだ強さしか与えられない。これも現実だ。
僕にとっての強さとは、意味だ。
だから、僕からすれば、世の中に間違いなんかない。ぶっちゃけ腐ってようが別にかまわない。良くも悪くもその曲線を終わらせ、意味を持たせるのが生涯だとして、その線をどう描くのか、ただそれだけを考えていればいい。くだらない直線か。抒情的なカーブか、鋭角的なポリグラフか、それとも同じ場所を繰り返してはとび、また繰り返していくつもの円を描くのか。何も考えなければ、消しゴムを使いたくなるだろうが、それも一つの形に出来るならなお良いだろ。
ちなみに僕が求めるものは何か?
気になって言葉にしてみるれば『愚かしさ』
たぶんこんな所だ。
煽情的な大小の線と、静かな点と、悲しい空白、わけのわからないうねりと、予想外にも欄外に飛び出した直線が消え、いつのまにか並んだ平行線がまじり、新たな円を描き、そこからゆっくりと落ちて、細くなる斜線がどちらともなく消えていく……
欲深いのは分かってる。
いまのところ望み通りだが、別に意識で選んだわけじゃない。それに、これからどうなるかわからない。自然も社会も厳しいもんは厳しいが、でなきゃ、こんな線は描けないのだから、悪くはないと思ってる。
儚くて、汚く、歪で、美しく。
恥を恐れて躊躇わず。
引き算をしつづけて研ぎ澄まし。
ただ優しく。
そんな意味を、誰もみたことないこの言葉に付けたいという愚かな考えを、たぶん、生まれた時から持ってる。
でも悪いけど
あんたも、たぶん。