ゴールデンカムイ聖地巡礼〜北海道編 函館
著者は、網走も小樽も登別もまだ行っていないし、旭川と開拓の村リベンジもしたいし。まだまだ先が見えない聖地巡礼…。
何はともあれ、2023年夏のゴールデンカムイ展函館会場へ馳せ参じてまいりました!
最近は五稜郭公園内のマップを作られている方や詳細なレポートを書いている方もいますので、これといって目新しい情報はないと思われます。
あぁんお前、江別とか旭川とか書くって言ったよな?と思われる方がいるかはわかりませんが、筆が乗ったところから書いていこうぜ!の精神で今回は函館ゴールデンカムイ聖地巡礼レポートです。
著者が函館を思うとき、勝たないかん之進の凛々しさに呼吸困難になるのです。わっぜよかにせ、大好き。
函館初心者のころお世話になったはこぶらさん
函館市内の移動は市電が便利です、一日乗車券もあります。ICカード利用可能なのでSuicaでピッと便利です。はこぶらさんの乗り方ガイド。
函館巡礼ッ!この土方歳三が函館で戦うのは2回目だ
よりにもよってここか…面白くなってきたなガムシン
JR五稜郭(道南いさりび鉄道の駅)でご降車の方は大変でしたね…(毎年何人か出るらしい、駅の名前が悪いと思う)
函館駅から市電五稜郭公園前下車~15分程度歩きますが平坦な道なので楽々です。
五稜郭公園入り口まで直通の函館バスが日に何本か出ています、タイミングが合えばバスも便利です。
五稜郭公園
陵堡
函館奉行所
改修中でした(泣)
中を見学できます、見学料が別途必要です。
井戸
見つけたときキエーイッて声出ました!
感激のあまり金カム好きの同僚(休職中)に画像送るなど興奮ぶりがすごいしオタク以外に迷惑かけるのダメぜったい(笑)
正確には位置が違うようですが、この井戸跡が私たちの探求心を埋めてくれているのは確かな事実。
かかってこいや薩摩の芋侍がぁ!!
五稜郭戦〜暴走列車は鯉登少尉殿vs土方歳三と永倉新八の戦闘がほんっ とーーーーーーに大好きです!ごはん一升食べられる。
二の橋での鯉登少尉殿vsガムシン戦の台詞
「うぬが太刀筋未熟なり!40年前に交えた薩軍達の気合いには到底おやばぬぞッ!」
この言葉は月島を呼び続ける鯉登少尉殿の心に突き刺さっていたのではないでしょうか。
その上で暴走列車土方戦での
「……よしかかってこい」
なの
ですよ
。
ーーそして最後の侍に圧し勝った。
ーーそして右腕全う島の命も守っちゃう。
ーーってことは守るものを全部守ったのだなと(尊みがすごい)
鯉登少尉殿が「もっと沢山の誰かんため勝たないかん」となる、それはこの2人と剣を交えてこその成長だと思います。
著者は土方歳三の女なので、戊辰戦争のあとの金塊戦争で敗れる土方を見るのはとても辛い。
戊辰戦争以後の走り続けた土方歳三を描いてくれた感動とこの辛い気持ちはまた別ではありますが、存命土方歳三を見られたから、この辛さを抱けたという事実がね…。
推しが推しに圧し勝つのは嬉しくもあり、同時に辛いし悲しい、鼻水垂らして嗚咽した…(連載リアタイ時)
五稜郭タワー
展望台の展示は、旧幕軍を「賊軍」として記されており、仕方ないことですが少し悲しいです(会津若松城の展示では視点が180度変わるんだな)入り口にも読み物あります。
ロシア領事館は函館山の坂の一番上…
旧ロシア領事館
いや本当に一番上で坂道すご!
たしかに鶴見中尉の言う通り鹿児島と似ています、南州神社までの坂も激しかった・・・。
門扉に囲いがありますが、民間に売却され改築が決まる前の巡礼です。
かなり朽ちていて寂しい気持ちになりましたので、高級なホテルに生まれ変わるのは良いことだと思います。願わくば著者のお財布から出せる価格設定にしちょ…
天から役目なしに降ろされたものはひとつもない~作中には登場しない場所
北方民族資料館
見だしはアイヌ語で「カント オㇿ ワ ヤク サㇰ ノ アランケプ シネプ カ イサㇺ」単行本表紙の見返し部分に載っている言葉。
声にならない声で叫ぶ著者「キエッ!?」
入り口で全てをもっていかれてしまい、撮影OKなのに展示物を撮影していません…。館長の金カム交えたコメントがとても面白くて素敵です。
一本木関門跡地 土方歳三最後の地碑
こちらは聖地ではないのですが、土方歳三関連なので掲載します。
墓所ではなく最後の地碑。
日野市にある土方家の菩提、石田寺に土方歳三の墓があり、位牌は高幡不動尊の大日堂におさめられています。
遺体は見つかっていないので、いずれの場所にも埋葬はされていません。私たちが土方歳三を想う場所が彼の墓跡なのではないでしょうか。
新選組最後の地は函館どつく(弁天台場跡)近くの公園内にあります。
碧血碑
旧幕府軍の函館戦争戦没者を供養するため箱館戦争終結6年後の1875年に建立されました。毎年6月25日頃に慰霊祭が行われています。
中国の武人が、君主に忠義をつくしたが信任されず自死し、その血が碧玉 (へきぎょく) になったという故事から「義に殉じた武士の血は三年たつと碧色になる」とされ碧血碑と名付けられたそうです。
碧血碑までの道のりは、ヒールの靴で行くには少し厳しいです。草が多いので虫刺され対策にパンツスタイルが良いと思いました。
ハイキングや登山に慣れている人なら足場も悪くはなく、2〜3分で登り切れる程度です。
湯川寺
函館山にあった三十三観音蔵が移動してこちらに安置されています。明治32年に函館山が日本軍の要塞となったときに山からおろされた…
1907年→明治40年
こちらも野田カムイのおっしゃるガッツリ調べた上で嘘を付くのが良い漫画作品…!ということ?
函館山の観音蔵を動かしたら廻天丸の主砲が保存されていた…!とか確かにめちゃくちゃワクワクしますもの!!
湯川寺境内に入ってすぐのところに観音様が並んでいます。コンパクトに三十三観音巡りができます。
函館山
こちらも聖地ではないのですが、函館に行ったならおさえておきたい場所です。
五稜郭方面を見渡せるので、モスパパの艦砲射撃距離が俯瞰で見られる!!
モッス艦砲射撃スゲェな!ってなりました。
御殿山第二砲台跡
函館山山頂下のつつじ山駐車場から15分程度歩くと、御殿山第2砲台跡です。
当時の面影を残し現存しています。
2001年に北海道遺産に選定されました。
日露戦争の旅順攻囲戦で攻城砲として活躍したことで有名な二十八珊米榴弾砲。
この弾砲の旅順攻囲戦への投入は、かねてから要塞攻撃に同砲の使用を主張していた有坂閣下(有坂成章)の意見で決定、最終的に18門が戦地に送られました。
なんと!あの!例の!!奉天会戦にも投入されてるよ!私の戦友だからッ!!!!
作中で鶴見中尉はその機能美を称えています。
著者は現代人なので日本が辿った歴史を知っています。
「技術は人間を幸せにするものでなければならない」
戦闘機開発者の残したこの言葉が心に刺さります。
ちなみに、史実の二十八珊米榴弾ですが、イギリスの企業アームストロング ホイットワース社が設計、製造は大阪砲兵工廠の手による国産だったそうです。
函館山山頂からもそう離れてはおらず、登山道も整備はされていますがハイキング用の靴などは必須です。冬場はアイゼンとストック・グローブも必須かと思います。それなりに歩き慣れていない人は厳しい道のりかもしれません。
函館市青函連絡船記念館摩周丸
若松埠頭の線路について調べる(だけの)ために行きました!
青函連絡船は日本にあった鉄道連絡船のひとつで、1988年(昭和63年)3月の青函トンネル開通により終航。この摩周丸は最後の日まで走り続けた連絡船です。
一般500円で見学でき、朝市から足を伸ばせばすぐの場所にあります。
国鉄青函連絡船の始まりは明治41年。
明治末期、上野青森間を運行していた日本鉄道が、青森函館間航路のために英国に蒸気タービン船を発注、この船が鉄道国有化により国鉄に引き継がれました。
金塊争奪戦のスタートは前述のとおり、1907年→明治40年、微妙です。
暴走列車地獄行き若松埠頭へ機関車が突っ込むあのクライマックスシーンの線路はこちら。
んんんんん!?
「青函連絡船の貨車航送は大正14年からはじまり」
こちらも野田カムイのおっしゃるガッツリ調べた上で嘘を付くのが良い漫画作品…!もう天才ですか?!?!カムイだし、神様だからな!仕方ねぇ、 わっぜ素晴らしかじゃらせんか!
なんでこんな面白い作品書いちゃうのぉ、人生狂っちゃう!
青函連絡船100年冊子を入手したのでさらに確認したところ、下記の記載がありました。
オタクは野田カムイの華麗な「ガッツリ調べた上で嘘」に踊らされています。
人生狂ってる…
稚泊連絡船について
摩周丸の情報だけ分厚くなってしまうのですが、2023/12の訪問で稚泊(ちはく)連絡船に関する記述に気がついてしまったので追記します。
今から100年前、国鉄青函連絡船の歴史は比羅夫丸・田村丸の就航からはじまります。
稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、1923(大正12)年から1945(昭和20)年まで、日本の鉄道省により北海道の稚内と樺太の大泊の間で運航されていた航路(鉄道連絡船)です。
車両航送が開始されたのは1925(大正14)年。
その後ドイツの鉄道連絡船を参考に研究が進められ、格段にアップグレードした4船が就航します。そして田村丸は春から秋にかけて稚内と樺太の大泊(コルサコフ)を結ぶ航路に就航しています。
稚泊連絡船が開かれる以前の樺太への交通は逓信省や樺太庁が設定した命令航路※でした。国鉄宗谷線が稚内まで延びたことで、樺太庁鉄道と国有鉄道を結ぶ鉄道省の連絡線が開かれたのが稚泊連絡船です。
※命令航路:国や地方自治体、軍隊から補助金を受けることを条件に、運航と維持を命ぜられた航路。現在の日本には存在しない。
「棒鱈です」乗船は命令航路時代…?
我々は命令航路を運行していた日本郵船について調査すべく日本郵船歴史博物館へ向かったら休館中できぇぇーーゐ!(猿叫)
ダラダラとあまり関係のないトピックを盛ってすみません。
明治から昭和へ、あの時代の移り変わりと発展を感じていただければ幸いです!
摩周丸おまけ 「…棒鱈です」
船員の制服が展示されている中に、船長の冬コートがありました。
棒鱈ですシーンなどで船長はコートを着用していませんが、樺太寒いですよね…。
船については情報が書かれていませんが「比羅夫丸」がモデルとなっているように思います。比羅夫丸は1908年3月7日就航(明治41年)、国鉄青函連絡船の記念すべき1号です。
ここでも実際に日本の歴史上に蒸気タービン船が登場する時期と作画の蒸気タービン船にズレがありますが、何度も書いていますがガッツリ調べて嘘をかく書かれた内容に「違和感を抱かせない」のは野田カムイ漫画の真骨頂かと思います。
ティーショップ夕日
函館検疫所台町措置場、もしかしたら函館から船に乗る鯉登少尉殿や月島が防疫検査を受けたかもしれませんね…という場所。
聖地巡礼する皆さまはご存知の函館ティーショップ夕日は、明治18年に「函館検疫所」として建築された建物です。
江戸末期以降、海外諸国との通商を背景にコレラがたびたび大流行しました。
また、1877(明治10)年秋、西南戦争の帰還兵がもちかえったコレラを水際でくい止められずに、全国的流行へと発展していった事態を受けて、明治政府は検疫法令に着手をしました。トライアンドエラーを繰り返して日本の現在の防疫へと繋がっていったのでしょう。
鯨族供養碑
こちらも聖地とは関連がありませんが面白かったので掲載。
旧ロシア領事館へ向かう途中に鯨族供養碑がありました。
捕鯨の指導をジョン万次郎が行なったそうです。
昭和32年に建てられた記述がありましたので、日本が世界中からクジラ獲りすぎバッシングを受ける少し前。
調査捕鯨以外では禁漁となった当時は価格が高騰していました、最近なぜかお安く売っている不思議。70歳より上の世代だとベーコンと言ったらクジラベーコンで、肉より食卓に上る回数が多かったそうです(著者のオカン調べ)
すごくどうでもいい話ですが近頃実家の食卓にクジラベーコンがよくおわしますね…
(金カム聖地レポなので全力スルーしていますが函館には坂本龍馬記念館なるものがあります。記念館に立ち寄った時、スタッフさんに「龍馬さんがお好きなのですか?」と聞かれましたが「私は鯉登音之進少尉殿にしか興味がないのでキリッ」と答え困惑させてきました。オタクでごめんネ。)
好きな人には自分の好きなものを好きになってほしいもんねえ
函館に来たら何食べる?
回数を重ねたいケチケチ旅行なので海鮮丼とかイカ刺とか高級食べ物はいただきません(ド初回の函館観光の時は食べましたよエエ…)
ハセスト(ハセガワストア)とラキピ(ラッキーピエロ)でコスパ追及!うまい!うまい!!
あじさいラーメン
とてもおいしいです!次回はコーンバターラーメンを食べたいッ!
こちらはワンタン麺(塩)
五島軒
とりあえず五島軒でカレー食べるか~という方は五稜郭タワー内のお店が便利です。
ヒンナすぎるオソマ……
ライスカレーおいしいね
オタクたちよ、雪河亭に行くのです…
明治のエビフライセットを注文するのです…
・エビフライ+エッグソース
・ボルシチ
・スーシュカ
・ライスカレー+ヒッジのたくあん
函館まとめ
2022年6月の函館は土方さんに想いを馳せて向かい、
12月には鯉登少尉殿への想いを胸に抱いてフォゼ之進と函館を歩きました。
2023年7月はゴールデンカムイ展で盛り上がる金塊戦争終焉の地函館を巡りました。
函館は何度も行きたくなる魅力溢れる街、この1年で4回ほど訪れましたがまだまだ飽きない!
次は桜の季節に五稜郭公園へ行ってみたいです。
ですが、聖地は函館だけではないッ!!
旭川リベンジが待っている!
小樽も網走も待っている!!
さて、何度でも言いたい。
筆者は鯉登少尉殿の幸せを祈っています!
圧倒的光属性の薩摩の奇公子こと最後の第7師団長こと鯉登音之進に光あれ!
番外編:大沼公園沼の家
別件の用事があって無理やりきたぞ大沼公園!
大沼だんごの画像を撮り忘れまして…またリベンジします。
これにて全7回を経て取材に赴いた函館レポは完結です。
全て公共交通機関で移動をしていますので、免許のない方はぜひ参考にしていただければと思います。
函館はとても魅力あふれる街なので、また訪れようと思います。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
2024.12.8追記