確定申告会場であった風景
確定申告会場に行くと、税理士による無料納税相談コーナーがある。申告しに来た人がちょっとわからないことを税務署職員に代わって税理士が助言・指導したり、ときには収支内訳書、決算書、申告書の作成をおよそ代行するものである。
そんな確定申告会場の無料納税相談コーナーに従事していたときのこと。「医療費控除の集計です」と係の人に案内され、ご老人がやってきた。
医療機関の領収書こそないものの、どこの医療機関にだれがいくら使ったかをメモした紙は持っている。これを、確定申告用の「医療費の明細書【内訳書】」に転記したいということのようだ。
とはいえ、医療費よりもそもそもの事業の収支内訳書を作成して、所得があるか無いかを確認するのがまず先である。所得が無ければ医療費の集計をしたところで控除のしようがない。
医療費控除は所得控除のなかでもよく知られている控除であるが、「医療費が10万円以上かかったらお金が戻ってくるらしい」ぐらいの認識で捉えている人が世の中の多数であるといっていい。
実際には、所得金額の合計額の5%が10万円に満たなければ、その額5%が医療費控除のボーダーラインになる。
それよりも、医療費控除は所得税(住民税)を計算する上での所得控除の一つであり、戻ってくるとしたらすでに支払済みの(医療費ではなく)所得税である。そう正しく理解している人の方が、むしろ少ないのではないかとすら思う。
特に、高齢者の方は医療費そのものが戻ってくると思っている人がかなりいる。
実際は、医療費控除は、ボーダーラインを超えた分の額の所得税率―無料納税相談にやってくる多くの人はせいぜい5%―が所得税の軽減額になる。年間20万円の医療費を使っていても、所得税が軽減されるのはそこから10万円(か、もう少し低い額)を引いた、10万円(か、もう少し高い額)のせいぜい5%である。となると、いいところ5,000円である。
そうして計算した所得税額が源泉徴収税額より少なくなれば、その分が還付される。年金生活者であれば年金からわずかばかり源泉徴収されていることもあるが、源泉徴収された金額以上にお金は戻ってこない。
また、源泉徴収されておらずとも、そもそも所得が医療費控除を使うまでもない水準にとどまっている、というのは多くある。
医療費控除のためにやたらと一生懸命集計するが、得られる恩恵はそんなに多くない、あるいはことによると意義がないこともあるのが現実である。
案内されてきた老人も、世間話をしながら持参した資料を基に本業の収支を計算してみたところ、果たして所得はわずかなものであり、基礎控除額の48万円にも満たないようなものであった。
そうなると、医療費の明細書を作ったところで、用はない。作った時間が無駄になるだけだ。
そこで「医療費の明細書は集計してもしなくとも変わりませんから、作らなくともいいですかね」と確認した。
老人の作ってきたメモには老人自身の名前で集計されたものと、また別の名前で集計されたものがあった。メモから正しい用紙に転記するのは面倒であり、それよりは待っている次の相談者の対応をすべきである。
すると老人は
「うちのこどもは最後は大病を患って、結婚もしないうちに亡くなったんさ。最期の方は県外のお医者さんに行ったりしたんだいね。」
と言った。
老人でない、メモにあった名前は老人の子のそれで、聞けば自分と年齢がそう違わなかった。医療機関の一つをインターネットで調べてみると、その大病で苦しんでいる患者が多く訪れることでその筋では著名となっているスピリチュアルな医療機関だった。
若くして亡くなった老人の子と、目の前にいる老人のことを思うと、医療費控除の明細書を作らないわけにはいかなかった。
そうして医療費控除が記載された、税額がゼロである手書きの申告書が出来上がった。
たとえ税額の計算には何ら影響が無かろうとも、所得に比して多額となった医療費控除の額がある確定申告書は、老人にとっては大きな意味を持つもののように思われた。
それを確認したものを手渡すと老人はその場を後にした。足取りはおぼつかないが、だがしっかりしているように見えた。