ヨンゴトふたたび-2023年8月14日 -コルベ神父を想う-
不真面目な宗教心
クリスチャンではない。けれど、母方の祖母がクリスチャンで、母も一時は信仰していたのか、実家には古い聖書や讃美歌集などがあった。ただし、プロテスタントである。私も中学校時代に教会へ行きかけたけれど、「人々の罪を背負ってイエス・キリストは十字架に架けられたのです」と聞かされても理解できず、行くのはやめてしまった。その後大人になって一時曽野綾子にはまり、その後は須賀敦子にも心酔して、キリスト教的な世界に憧れてもみたけれど、心底の信仰心にはほど遠かった。晩年の母は仏壇でお経をあげるような生活になっていた。私は娘がミッションスクールに通ったせいか、時々はまた讃美歌を歌ったりする機会もあったけれど、お正月には初詣もするし、今年から御朱印集めなども始めて、何とも八百万的というか不真面目というか、つかず離れずな毎日。それなのに、心のどこかにキリスト教を知りたいという思いが常に沸々としているのは、亡き親友がカトリック教会の納骨堂に眠っていたり、合唱で宗教曲を歌うたび、「信仰していれば、『神よ憐れみたまえ』の意味ももっと深く分かるんだろうになあ」などという雑念が常に頭をよぎってしまうからなんだと思う。
8月14日はコルベ神父のご命日
そんな中で8月14日に何を書こうかと思い、検索していたら、「コルベ神父がアウシュビッツで亡くなった日」であることを知った。コルベ神父という名前は何度も耳にしていたけれど、ちゃんと知ろうとはしてこなかった。けれども、この偶然はきっと今、知りなさいという啓示なのかもしれない。そう思って図書館に資料を探しにいったら、めぼしい本が貸し出し中になっていた。夏休みの自由研究に子どもが借りているのかもしれない。それとも、私とよく似た大人が、ちょうどコルベ神父に興味を抱き、一足早く図書館に出向いたのかもしれない。そう思うと、よけいに知りたくなるから不思議だ。死後40年以上たって聖人と認められ、今はウエストミンスター寺院に聖コルベ像として揚げられているコルベ神父が、戦前6年にわたって長崎で布教活動を行っていたことは、長崎市民にもあまり知られていないという。
強い思いは、いつか届く そして非情な運命へ
アジアでの布教の必要性に使命感を持って、コルベ神父が宣教師仲間2人と長崎に来たのは1930(昭和5)年の春。(偶然ながら母が生まれたのもこの年だった)。歴史的に隠れキリシタンが多い長崎においても、コルベ神父の活動はあまり理解されなかったというが、貧困と病気にあえぎながらも来日わずか1カ月で日本語活字による小冊子『聖母の騎士』第1号を発行したという。この『聖母の騎士』は今もカトリック信者のための機関紙として知られており、私の親友が眠る京都の教会にも置かれていたので、私もたびたび手に取って見ていた。詳しい内容までは覚えていないけれど、その冊子を発行したのがコルベ神父だというのを今さらながら初めて知り、遠い歴史がぐっと身近に感じた。NHKの朝ドラ『らんまん』では、主人公の万太郎が恩師や周囲に見放されながらも、自分でせっせと石版印刷で植物図鑑づくりに邁進するけれど、人々に自分の思いを伝播するためには何らかの媒体が必要なのは今も同じ。いわばSNSもそうだろう。コルベ神父はワルシャワにいる頃からメディアの必要性を感じて、小冊子を作っていたそうだ。それもこれも篤い信仰心のため。大学で哲学と神学博士号を持ちながら、数学にも秀で、数学教師から「司祭にするには惜しい」とまで言われたとか。それでも、敬虔なるカトリック信者の両親のもとに生まれ、12歳の時に聖母マリアが出現するという数奇な体験により、マリア様にこの身を捧げる決心をしたといわれている。それゆえ彼の洗礼名はマキシミリアノ・マリア・コルベ。つつましい清貧生活の中、活動を続けていた日本はまだ戦争の兆しも遠く、比較的平和な時代だったのかもしれない。来日からちょうど6年がたった1936年、来日以前に仲間とともに設立した「無原罪の聖母信心会」の拠点であるニエポカラノフ修道院の修道院長に選ばれたことを機に祖国ポーランドに戻る。元々病弱だったコルベ神父はその頃すでに肺を患っていたそうだが、帰国後も出版やラジオなどで活発に活動を続けていた。しかし不穏な戦争の足音は近づきつつあった。1939年9月、ドイツ軍がポーランドを侵攻し、ついに第二次世界大戦が勃発した。
何もかも反体制になる そしてアウシュビッツへ
ヒットラー政権のもと、聖職者は反ナチスとみなされ、逮捕された。修道院は占領され、破壊され、いわれもなくすさまじい迫害を受けた。コルベ神父も一度は解放されたものの、再び逮捕され1941年5月、ワルシャワのパヴィアク監獄から歴史上もっともおぞましいアウシュビッツ収容所へと移送される。名前を奪われ、囚人番号16670と呼ばれるようになる。病気に侵された身体にもつらい重労働を課され、罵詈雑言と暴力にまみれたアウシュビッツでの日々。人間としての尊厳などかけらもない、考えただけでも絶望的な毎日だ。それでもコルベ神父の信仰心には一辺の陰りもない。収容所でも人々のために祈り続け、励まし続けたそうだ。同年7月末、決定的な事件が起こる。
友のために自分の命を捨てることこそ、愛
強制収容所14号棟に脱走者が出て、連帯責任と称して同じ棟内で無作為に選ばれた10名が処刑されることになった。それも飢餓刑。名指しされた10名の中でひとりのポーランド人が「私には妻子がいるんだ」と泣き叫んだ。コルベ神父は彼の身代わりに名乗り出る。「私には妻も子もいない。カトリック司祭です」と。責任者のルドルフ・フェルディナント・ヘスはそれを許可したという。裸にされた9人の囚人とコルベ神父は地下の飢餓室に押し込められた。飢えと渇きの中、発狂するように亡くなっていく囚人たち。どれほどの極限状態だったことか。もはや私には想像すらできない。同じ人間同士でなぜそんな恐ろしいことが行われたのか。すべては戦争というパニックと思考停止のせいなのだろうか。時代は巡っても。今も確実に世界のどこかで行われている戦争というものの罪深さを、人はなぜ学習できないのだろう。書いていても苦しくなる。ところが、コルベ神父は地獄そのものの境遇にあっても、毅然と囚人たちを励まし、死にゆく仲間に祈りを捧げ続けていたという。牢獄からは歌声が聴こえていたという証言すらある。キリストの言葉に「私が愛したように あなたたちが愛しあうこと これが私の掟である 友人のために命をあたえる以上の大きな愛はない」(ヨハネ十五章十二~十三)があるそうだが、コルベ神父はまさにこれを体現するように、自らのいのちを差し出した。これほどの飢餓状態にあっても死に至らなかったコルベ神父と3人の囚人はついには注射によって毒殺されるのだ。そんな最期の時も、コルベ神父は自ら腕を差し出したという。その日が1941年8月14日だった。この日のアウシュビッツは、今の日本の夏のように厳しい暑さだっただろうか。せめてまだ温暖化とは無縁の世界であったことを祈る。コルベ神父の申告によって処刑を免れたポーランド軍人のフランツィシェク・ガヨウィニチェクさんは、1995年に93歳で亡くなるまで、アウシュビッツの数少ない生存者としてコルベ神父の偉業過ぎる行いを講演し続けたそうだ。前述のヘスはドイツ敗戦後、戦犯として絞首刑に処せられたという。
8月15日の数奇な偶然 平和は誰かの犠牲の上にある
コルベ神父がそのような究極の愛を全うし、47歳の若さで天に召されたことを、当時長崎ではどのように伝えられたのだろう。その4年後に原爆投下が行われるとは想像もできない中で、日本国民は祖国の勝利を願い祈って戦争に加担していたことだろう。それが当たり前の社会だったはず。1945年8月15日、日本は降伏し、敗戦した。あれから78年の歳月が過ぎ、明日また終戦記念日がやってくる。けれども、その1日前の8月14日には、ただ愛のために自分のいのちを差し出したコルベ神父のことも少しは思い出す必要があると思う。国境も国籍も宗教も超越しても。なんと、日本にキリスト教を初めて伝道したフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したのは1549年8月15日だったという。またこの8月15日はカトリックでは「聖母マリアが人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰と出来事を記念する祝日」なのだそうだ。その前日に死を迎えることをコルベ神父は喜んだという。人間は愚かだけれど、歴史に学び、その痛ましい犠牲に少しは思いを馳せ、平和は自然にそうなるのではなく、その犠牲の上に打ち立てられているものだと自覚しなければいけない。付和雷同は怖い。不気味に近づきつつある台風7号の行方を気にしながら、そんなことを考えてみた。