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ヨンゴトナキオク35 2021.7.4

ピアソラの宇宙

今年はアストル・ピアソラの生誕100周年なんだそうです。いわずと知れた稀代のバンドネオン奏者にしてアルゼンチン・タンゴの革命家と言われた作曲家。1992年7月4日に71歳の生涯を終えています。7月4日は彼の命日なんですね。

ピアソラと言えば『リベル・タンゴ』で一世を風靡しましたから、もちろん私も名前は知っていましたが、たまたま7/18、NHKEテレの『クラシック音楽館』のピアソラ特集を観て、彼の人生をちょっと紐解いてみたくなりました。

アストル・ピアソラはアルゼンチンの避暑地として名高いマルデルプラタに、イタリアの移民三世として生まれました。彼が4歳の時、ピアソラ一家は新天地を求めてニューヨークに渡ります。貧しいイタリア人街で育ち、父はマフィアに通じていたり、祖母は密造酒を作っていたりと、なんだか怪しげな家庭環境だったようです。

8歳の時、タンゴ好きだった父がバンドネオンをユダヤ人街で手に入れ、息子に与えたのが、彼とタンゴ音楽との出合いでした。アストル少年にとってはタンゴ音楽よりも街にあふれるジャズや隣に住むピアニストのバッハの方が好きだったようです。けれども、バンドネオンを弾くと父が喜び、自分にも自信を持たせてくれることがうれしくて、どんどん上達していったとか。12歳の時にはラジオに出演して、バンドネオンでバッハやモーツァルトを弾いていたそうです。やはり子どもの成長にとって親の存在は不可欠なんですね。ただ、幼少期に彼を取り巻いていた音楽環境が、純粋なダンスのためのタンゴ音楽とは違う芸術へと向かわせたのでしょう。これが、最後まで彼を苦しめるのですが。

16歳の時、一家は再びアルデルプラタに戻ります。そこで出合ったのが、本場のアルゼンチン・タンゴでした。すっかりタンゴの魅力にはまり、人気を博していたエルビーノ・バルダロ楽団に自分から飛び込みます。次に挑戦したのはブエノスアイレスのトロイロ楽団。やがて編曲も手がけるようになりますが、そこで彼の多彩な音楽的ルーツが頭をもたげてくるわけですね。20歳の時には世界的ピアニスト、ルーヴィンシュタインに自分の作品を見てもらう幸運にも恵まれ、作曲家ヒナステーラに音楽理論を学ぶなど、天性と努力の甲斐あってどんどん腕を上げていくのですが、伝統的なタンゴから逸脱した編曲は、当然却下され、彼の中に不満がたまっていきます。

その頃、トロイロ楽団メンバーの妹であるデデと出会い、二人は結婚。一姫二太郎に恵まれ、編曲家として評価もうなぎのぼり。もはや楽団の一楽団員という地位には収まらなくなります。もはやイケイケドンドン状態です。しかし、一方で彼の音楽では「踊れない」とも言われ、ついに楽団を解雇されてしまいます。ジャズやクラシックのエッセンスや和声をタンゴに取り入れ、自分の心の赴くままに音楽を表現したいと思っていた彼は、自分の楽団「アストル・ピアソラ楽団」を結成。しかし、玄人受けはするものの、結局5年で解散。映画音楽を手がけたりするうちに、タンゴ音楽とその業界で生きることに限界を感じたピアソラは、作曲コンクールで数々受賞し、運よく奨学金を得たのを契機に、夫婦でフランス留学へと旅立つのです。1954年のことでした。

パリでは当時名だたる作曲家が学んだナディア・ブーランジェ女史に師事。本当はバリバリクラシックの世界へ転身したかったのかもしれません。バンドネオン奏者であることも隠してレッスンを受けていたそうですが、ブーランジェ女史が指摘したのは結局、「タンゴ音楽こそがピアソラ音楽である」というものでした。わざわざフランスまで行ったのに、タンゴ音楽を今こそ変革せよ!との啓示を受けてしまったわけです。

1年間留学した翌年、アルゼンチンに帰国。ところが、彼の革新的なタンゴ作品は、保守的なタンゴファンが主流の地元では受け入れられませんでした。むしろ、「タンゴの破壊者」のレッテルを張られ、命まで狙われる始末。アルバムは発表するものの音楽家としては大失敗だったんですね。心機一転、ピアソラにとっては故郷ともいうべきニューヨークへ再び移住するのですが、ここでも経済的に大変苦労したようです。「あのピアソラが」と言われるほど小さな仕事で何とか食つなぐものの、子どもたちのピアノのレッスン代にも事欠く生活。ズタぼろになりながら、それでも、新しいタンゴ音楽の創作は諦めませんでした。

再起のきっかけを作ったのは、最愛の父の死でした。1959年、父の死に捧げた『アディオス・ノニーノ』が話題を呼びます。バンドネオンを中心に、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターという編成による五重奏団の活動が定着していき、ようやくピアソラ音楽の評価も上がっていきました。

ところが、皮肉なことに、家族との関係は崩壊の一途をたどります。1965年、苦楽を共にした妻とは離婚。そのショックで娘のディアナは政治活動にのめりこみ、息子のダニエルとも疎遠に。その後は再婚、離婚を繰り返すことになります。ダニエルはピアニストとして父と共演するも、決して良好な関係ではなかったようです。元々自信過剰気味で、人との争いも絶えなかったようですが、経済的な成功や社会的な人気と引き換えにするように、家族との幸せな日々を手放してしまったんですね。著名な音楽家にはあるあるなのかもしれませんが。

そんなこんなの波乱万丈な人生があり、いよいよ、世界的音楽的地位を不動のものにした『リベル・タンゴ』が発表されたのは、1974年のこと。この頃にはクラシックもタンゴの枠も超え、主にヨーロッパポピュラー界のミュージシャンとのコラボにも積極的に行っており、バンドネオンはもはやタンゴを踊るための伴奏音楽ではなくなっていったのです。すべての軛から自由になって、まさにピアソラ音楽が世界に羽ばたいていったわけですね。サメ釣りが大好きだったというピアソラ。海の上で釣りを楽しんでいる時も頭の中は作曲中の音楽でいっぱいだったそうです。晩年は心臓に不安を抱えながら活動。1990年にパリの自宅で脳溢血で倒れ、1992年7月4日、ブエノスアイレスの病院で息を引き取ります。71歳というと、今の感覚ではまだまだ若いという印象ですが、10代から活動していることを考えると、半世紀以上もの長い音楽人生だったと言えます。タバコをくわえながら演奏している動画も散見され、パイプをコレクションしていたくらいなので、相当なヘヴィスモーカーだったようです。そら、身体にいいわけないでしょう💦

チェリストのヨーヨー・マが『リベル・タンゴ』をはじめピアソラ作品全10曲を収録したアルバム『ソウル・オブ・ザ・タンゴ』を発表したのは1997年10月。翌年5月にサントリーウィスキー「ローヤル12年」のCMに起用されたことで、日本におけるピアソラ人気が爆発しました。なつかしや~。でも、チェロもいいけど、やはり、ピアソラ自身による『リベルタンゴ』は格別です。膝を立てる演奏スタイル含めて彼の存在すべてがカッコイイ♪

ピアソラの娘、ディアナは後年詩人、作家となり、父の自伝を著作するまでになりましたが、2009年7月に亡くなっています。2017年にはフランスとアルゼンチン合作のドキュメンタリー映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』も製作公開されました。彼の人生が主に息子ダニエルの眼を通して描かれています。Amazonプライムで観れるので、興味のある方はぜひご覧くださいませ。

ASTOR=アストルという名前は「星」を意味していると思いますが、彼は彼の生み出した作品とともに、唯一無二の星として、これからも「音楽」という名の宇宙に燦然と光り続けるでしょう。苦しみの果てにたどり着いた境地を、音楽にして残してくれたピアソラさんに感謝です。






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