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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#18 口も麻痺していれば、良かったのに

川南の国立療養所。まあどこの病院でもそうだが、良い看護師さんもいれば、悪い看護師さんもいる。

まあこれは俺にとってということかも知れない。そりが合う合わないとか、そういう問題もあるのだろうが、川南病院では、ストレッチャーからベッドにシーツで移されたとき、口の悪い看護師のおばさんに、
「まあ重たい、大変やな、大変やわ」
と、いきなり言われた。

こいつなんて失礼な奴なんだろう。そりゃ身体が大きくて大変かもしれない。でもそれを患者の前でまともに言うなんて。まだ、俺も盛んな若者。当然、そういう言葉を聞き流す余裕はない。
「こらオバサン、お前、人を荷物扱いしよんのか」

23歳の血気と、声を荒げた。すると俺が聞こえるか聞こえないくらいのところで、
「あの人ね、口も麻痺しときゃ良かったのに」
と、のたまった。またそれでカチンときて、看護師長を呼びつけた。
「どういう教育しているんだ」
と、やりあった。

まあその後もその手の悪い看護師さんとはいろいろあった。さて、川南病院ではリハビリ室に行くようになる。

そこでOTという作業療法とPTという理学療法があるのを知った。OTとは名前のごとく、作業を通して機能の回復を図ることだ。例えば、ビーズを摘まんだりとか、右にある物を左に動かすとか。当然、ほとんど手の動かない俺にできることは知れていた。

それと理学療法。これは可動域を固まらないように動かしてもらったり、筋力をつける訓練をすることだ。川南病院には半年間いたんだが、その間に徐々に右手も動くようになった。ただ、一回完全に落ちた筋肉を回復させるのは大変だった。

この病院にはリクライニングの車いすが1台あり、俺ともうひとり頸椎損傷の人が交替でその車いすを使った。

車いすのハンドリムというところに、棒のようなものがたくさんついていて、その棒を手のひらで押すことによって前に進む。

もちろん初めは車いすがピクリともしない。しかし毎日毎日やっていると、少しずつ動くようになり、1時間かけて1メートルとか動くようになった。

俺は女性のPTの先生が担当だったのだが、肩が固まっていて可動域を広げるのに、ハーバード浴という機械浴に入って、固まった肩を上に伸ばす運動をしてもらうのは、残念なことに男性のPTの先生だった。

この先生が本当にスパルタというか、まあそ の頃は大嫌いだったんだが、煙草を吸いながらリハビリをしたりする。まあ今では考 えられないだろうが、そういう先生だった。

そしてハーバード浴で可動域を広げると きに、普通は動くぎりぎりのところで止めて徐々に上がるようにするんだが、思いっ きり力を入れて無理やり伸ばそうとする。その度に大喧嘩。

「お前痛いと言いよるのに、なにを無理やりするんか」
「これぐらいせんと動くようにならん」
「やかましい、お前、俺の身体に触るな、こらっ」
と、この調子だ。未だにあのリハビリは正しかったのかどうか分からない。

後にも先にも、あんなに無理やり可動域を動かされたことはなかったし、あの先生が最初で最後だ。

そして川南病院も半年を過ぎ、別の病院を探すように言われた。その頃はまだインターネットというものがなかったので、口コミでいろいろ聞いて回った。

候補に挙がったのは、熊本の湯之児病院、それと大分県別府市の農協リハビリテーション、そのふたつだった。親が見に行ったのだが、交通の便が良いこと、キレイであることが決め手となって、別府の農協共済リハビリテーションセンターに転院することになった。

人生を登山に例えるなら、7合目あたりまで調子よく登っていたら、一気に谷底まで滑落。命が助かったことそれ自体が不幸中の幸いで、顔の痒み、指先の微かな動きが希望とでもいうように、われ知らず勝手に再生に向けて動いて行こうとしているあたりかも知れない。

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ユニバーサル別府


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