自叙伝「#車いすの暴れん坊」#7 JR筑肥線抗争
高校2年の秋、違う学校のひとつ下の中学の後輩から、夜、電話がかかって来た。
「先輩、筑紫線で学校に行きますよね」
「おう、いつも行ってるよ」
「実は筑紫線の中でいつもガンをつける奴がいるんです。
でもそこの学校の生徒がその筑紫線の中にたくさん乗っているんで、自分たちふたりだけではどうしようもないんです。先輩、付き合ってくれませんか」
後輩からの頼みとあらば、聞き流すわけにもいかない。すぐに人員確保に動いた。その頃、その列車で学校に行くのは、その駅からは、俺と中学のときの同級生がひとり、後は他の駅から乗って来る同級生や先輩が数人。
うちの地区で一番悪かった先輩、ひとつ上だが、高校も途中で退学になって、ペンキ屋かなにかをしていた。やたら喧嘩が強い先輩もいた。
その先輩にも頼んで、総勢5人で、当時の国鉄の筑肥線小笹駅で待ち構えることになった。
列車がホームに滑り込んでドアが開くや否や、その後輩が目ざとく見つけて「こいつや」と駆け寄った。
相手も何事かは言わずもがなで、列車から降りて、さあ、いきなり駅のホームで殴り合いのケンカ、となりそうなところだが、とりあえず再び列車に乗って、高宮駅というところで降りることにした。
こういう暗黙の申し合わせはお互いに阿吽の呼吸というか、ちゃんとできてしまう。
さて高宮駅に降りてみると、この筑紫線で通う生徒がその学校は多く、既に40人くらい集まっていた。俺らは5人。このままではどう考えても、ボコボコにやられるのは目に見えている。
でも、そこでやはり不良同士のルールがあるわけだ。タイマンと言い、本人同士が1対1で喧嘩して決着をつけるというやり方だ。
その後輩が言うのには、たぶん2年生だと言っていたが、実は知ってる奴がいて、聞くと相手は3年生だった。結局1年生と3年生のケンカになるわけだ。
本人たちは1対1と、俺らの先輩と相手もひとり、強そうなのが立ち合うということで、後は皆、大げさになってはいけないというなんとも非常識なシチュエーションの中で良識ある判断をして、学校で待機しておくことになった。
それで闘いの結果は、後日聞いた話では、うちの後輩が相手をコテンパンにやっつけたらしい。
もしあのとき、40対5で喧嘩していれば、絶対に俺たちは袋叩きにあっていた。ただ、先にも書いたが、あの頃のヤンキーには暗黙のルール、言いかえれば紳士協定とも呼べるルールが存在していた。
基本タイマン勝負、道具は使わない。結局、これで鉄パイプを使ったり、竹刀を使ったり、チェーンを使ったり、ナイフを使ったり、鉄砲を使ったりすれば、それは単なる殺し合いでしかないわけで、喧嘩にもルールがあったからこそ、大きな事件にはほとんどなってないんだと思う。
ほとんどと言ったのは、中には打ちどころが悪く、事故になったケースもあったからだ。ただ、それは本当に稀なことで、大体は優勢になった時点で、誰かが止めに入りそこで決着が着くのが常だった。
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