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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#14 地獄の専門学校

自衛隊には当然、免許を取りに入ったわけだが、免許が取れないと分かると、自衛隊にいることがとてももったいなく思えてきた。

そんなときに、宮崎の伯父から電話があり、会社の後継者として、うちに来ないかという話があった。もちろんいきなり社長になるとかいう話ではなく、娘がふたりなので後継ぎがいない、将来的にお前に会社を継いでもらいたいという話であった。

継ぐ継がないは別として、会社とはどういうものなのか、そして子供の頃から憧れていた社長業というのを体験してみたくなった。そこで自衛隊を辞めて、伯父の会社に就職しようと思った。

しかし、伯父の会社は土木建設業と不動産業を営んでいたのだが、土木建設や不動産の知識はまったくなく、それなら専門学校に行ってから会社に来いということになった。専門学校と聞いて、通って行って昼間に勉強するような生活を1年くらい続ければいいんだろうと高をくくっていたのだが、その専門学校がまたとんでもない専門学校だった。

自衛隊が厳しいというが、自衛隊よりももっと厳しい専門学校生活になろうとは、このときは思いもしなかった。

まず、朝の6時に起床して、マラソンを2キロから20キロ。その日によって走る距離とコースは変わる。その後、朝食を食べ、隊員と呼ばれる人たちは直営現場、林道の建設に行っていた。

自分たちは研修生ということだったので、敷地内にあるアスファルトやコンクリートなどの試験場に研修で入るわけだ。その時間が朝の9時から夕方5時まで。その後、夕食をとり、風呂などの休憩をはさんで8時から10時まで勉強、そして消灯という毎日である。

昼間働いて夜勉強という定時制にも似た生活。全寮制で寮内では酒は一切禁止、煙草は当然20歳から、月に一回の外出と月に一回の外泊。どう考えても自衛隊の方が楽だった。自衛隊であれば、週に3回か4回は外出でき、そのうち1回は外泊がとれていた。

その専門学校とは宮崎県産業開発青年隊、要は農家は長男が農家を継ぐので、次男坊三男坊の就職対策のために作られた県が主催する専門学校である。定員が120名で100名が青年隊員と呼ばれ、後の20名が企業からの研修生。

俺も伯父の会社からの研修生という枠でそこに入った。年齢は18歳の高校卒業から30歳、36歳くらいの人もいたような気がする。

まだあの頃は、体罰が教育現場には当たり前にあって、与える側も受ける側もある意味納得づく、だから失敗したり悪いことをすれば、すぐに鉄拳制裁。俺も何度も殴られた。

高校を出たばかりの若いやんちゃ盛りの人間がいっぱいいるわけだから、当然、ルールを破る人間も出てくる。 20歳以下で喫煙をする、施設内での飲酒は禁止だがこっそり酒を飲む、夜こっそり抜け出して、繁華街に遊びに行って酒を飲む。

見つかれば本人だけが罰を受けるのではなく連帯責任である。一度、俺たちも6人くらいで、夜中、寮を抜け出して宮崎市内の方に遊びに行った。そしてタクシーで帰って来て寮内に入るところを、たまたま通りかかった教官に見つかり、夜中に非常呼集がかかって、全員が運動場に正座をさせられた。

「この中にルールを破って、夜中に寮を抜け出したものがいる。心当たりのある者は前に出て来るように」

最初はなかなか出ないのだが、出なければいつまでたっても、その正座状態は続く。運動場は砂利や小石があり、正座をしていると痛くてたまらない。そこで俺たちも観 念して前に出た。竹刀を短く加工したもので、ケツバットを食らわせられるが、ルールを破った本人たちは10発、それ以外の人間も連帯責任として1発ずつ食らう。

またこのケツバットが半端なく痛い。ケツバットというからケツに正確に当ててくれればいいのだが、わざと太もも目がけて竹刀が飛んでくる。終わった後は、紫色のミミズ腫れ、歩くのもままならない状態であった。

今であれば当然、大騒ぎになるような体罰なのだが、その頃はそれが平然とまかり通っていた。本当に厳しい最後の学生生活だった。恐らく、今日まで様々な人生の起伏を乗り越えて来れたのも、この厳しい環境で培った経験が大きいのかも知れない。

宮崎県産業開発青年隊では、いくつかの免許が取得できる。火薬取扱主任、危険物第4類、車両系、大型特殊などだ。火薬取扱主任というのは建設現場でダイナマイトなどを仕掛けるときに必要な資格で、これは比較的簡単だった。

危険物第4類は、化学の公式などがごちゃごちゃ出て、テキストを見た時点で鼻っからこれは絶対受からんなと思ったこともあって、勉強した記憶もほとんどないのだが、なんの勘違いか分からないが、これも受かってしまった。

車両系というのが現場内、例えば山の中、公道ではないところでユンボ、ショベルカーやブルドーザーなどを動かすときに必要な免許である。大型特殊はタイヤショベルなど、ナンバーが付いたままで公道で走るときに必要な免許である。この産業開発青年隊に1年いる間に、この4つを取得することができた。

ここの専門学校も厳しいところだったので、隊員と研修生120名のうち1年間でたぶん20名くらいは辞めていったと思う。刑期を終えて、いや、研修期間を終えて卒業できたときは、本当に嬉しかったのを覚えている。

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ユニバーサル別府

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