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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#19 運動機能回復の限界

ここはとてもキレイな病院だった。ここでも看護師さんは若くてキレイで、同じ年くらいの看護師さんもたくさんいた。

同じ病棟にも頸椎損傷の人が何人もいて、同じくらいの状態の人もいた。また、1階の施設には、自分で身の回りのことができるようになった車いすの障害者が職業訓練をしている施設もあった。そこにも若い車いすの人たちがたくさんいた。

農協リハでも川南と同じように、OTとPTを受けるようになった。OTでは自転車のペダルに手を結びつけて手をまわすリハビリや、傾斜した台に木に棒がついたものを両手で握り前に押し上げる訓練、お手玉を右から左に置く訓練、自助具という皮にスプーンを固定したような道具で食事をとる訓練などをした。さらに、

車いすをこぐ訓練も行った。その頃は棒ではなく、ハンドリムにぼっちが付いたものを手のひらで押しながら車いすが少し動かせるようになっていた。

その頃、自分より前に入院していた頸椎損傷の人たちがしている車いすの訓練は、ハンドリムに自転車のゴムチューブを巻きつけて、皮の手袋をして、そのゴムチューブと皮の手袋の摩擦で滑らないのを利用して前に進む漕ぎかたの練習だった。

俺も車いすをつくり、そのハンドリムで車いすを漕ぐ訓練を始めた。初めはなかなか訓練棟の廊下をまわるのにも時間がかかったが、段々と速くなっていった。

すると今度は、車いすの後ろに紐をつけその上にダスキンのような化学ぞうきんを載せ、その上に錘を2キロ、5キロ、10キロ、20キロと徐々に増やしていった。

当然なにもないときにはある程度は漕げるようになっていも、これを引くのはなかなか大変で、ハンドリムの間に親指を突っ込んで漕ぐのだが、手にはマメができて血まみれになっていた。

あとは、病院内のスロープを車いすで登るのだが、平坦な道でもやっと漕げるぐらいなのに、坂道だととても大変で、後ろにリハビリの先生や家政婦さんについてもらって坂を登る。それもジグザグに少しずつ登りながら、毎日毎日、同じ訓練をする。

それから、ベットに上がるための訓練として、リハビリのマットの上に両足を上げ、いざってマットに上がる練習をするのだが、この足が無茶苦茶に重たい。足を上げられるようになるまでに相当な期間がかかった。

左足を上げるときは、手首まで左手を突っ込んで、右手を車いすの押し手に引っかけ、反動と勢いで上に持ち上げてマットの上に載せる。

右足を上げるときは、右手の手首まで膝の下に入れて、左手を車いすの押し手に引っかけて上げる。

そして、車いすをマットにいっぱいまでつけて、ブレーキをかけてハンドリムを押しながら前に進むのだが、これが簡単には進んでくれない。

車いすのクッションにサテンの生地を貼って滑りやすくして、それで上がりやすくなるような工夫もした。

リハビリで一番最初に覚えたことは、煙草に100円ライターで火をつけることだった。自分が求めること、必要と思えることは、一生懸命に努力するものである。

決して煙草は健康にいいと思っていなかったが、それでも吸いたい一心で握力もない手で100円ライターをつけるのだった。これも先輩の頸椎損傷の人がやっているのを見て努力した結果である。

俺の場合、感覚があったから歩けるようになると信じていたし、時間がかかってもリハビリをしていけばなんとかなると思っていた。ところが、先輩の頸椎損傷の人の中には、同じように感覚や痛覚などがあっても、やはり足が動かない人がいた。そういう人を見ながら、段々、自分がどのくらいまで回復するかの限界を受け入れていったように思う。

そして、このまま身体が動かなければどうやって生活していこうかと考え始めた。

農協リハは基本的に完全看護なので、家族や付添を付けることはできないのだが、重度の障害があると、どうしても看護師さんだけで介助するには限界がある。

そこで、家政婦協会というところから、一日いくらということで、家政婦さんを派遣してもらい、ベッドサイドの付添用のベッドで寝泊まりしてもらい、洋服の着替えやトイレの介助を手伝ってもらう。

しかし、家政婦さんというのは、介護の知識がそんなにあるわけではなく、ビデオを2、3本観てそれでよしとして来ている人が多い。収入は他の仕事よりも高いが、とてもハードな仕事ではある。

中には60代のお婆ちゃんがいて、面白いエピソードもある。歯磨きをするのに、歯ブラシに歯磨き粉を付けてもらって、手に固定する自助具で磨くのだが、どうもいつもと味が違う。なんと洗顔料を歯ブラシに付けられた。それで歯を磨いたものだから堪ったものではない。口の中は化粧品臭く、大変な思いをした。

次にカップ焼きそばを作ってもらったのだが、たぶん初めてカップ焼きそばを作ったのだろう。カップラーメンのごとく、お湯を入れそのままソースをブチ込んだ。とても喰える代物ではなかった。

病院といっても若い者が多いと、やはりそれなりにやんちゃをしてしまう。病院内ではもちろん飲酒をすることはできないのだが、晩飯のときにこっそり隠れてビールやチューハイを飲んだ。

食べる物も病院の料理に飽きれば、出前を取ったり肉を焼いてもらったり、付添いさんにモツ煮込みを作ってもらって、仲のいい入院患者と食べたりもしていた。

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ユニバーサル別府


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