見出し画像

自叙伝「#車いすの暴れん坊」#23 ユニバーサルデザインアパートを造る

重度センターもそろそろ退所しなくてはならない時期がやってきた。

両親も定年まであと僅かなので、宮崎に引っ越して、そこを改造して一緒に住めばいいじゃないかと言っていたのだが、俺は親や兄弟と一緒に住むということは考えていなかった。

生活もなんとか時間はかかっても自分で身の回りのことが一通りできるようにもなっていたので、退所の時期が近いメンバーを集めて、自分たちが住めるアパートを造ることを考え始めた。

10人集め、1階に自分が住み、2階は学生たちに貸す。家賃は少し低めに設定して、その代わりなにか困ったことがあったときには手伝ってもらうという仕組みだ。

企画としては20世帯のアパートを建てるということだ。目算で1人1000万円程度のローンを組めばできるという、まさに取らぬ狸の皮算用だったが、声をかけてみると、案の定、この壮大な企画の趣旨に賛同する有志10人がなかなか集まらない。

そうこうしているうちにメンバーのひとりに事故の保険金が入った。メンバーからの提案は、自分がアパートを造るので、そこに家賃を払って 住むならどうかというものだった。

これは渡りに船、一気に事態は動き始めた。3世 帯建てて、1世帯を大家が住んで、後の2世帯それぞれにふたりずつ住むようにした。それぞれの世帯には、8畳くらいのプライバシーを守れる個室があって、台所、洗面 所、風呂、トイレを共有にした。

ちょうど5人が集まった。俺は障害の程度が同じく らいの頸椎損傷のメンバーと一緒に住むことにした。もう1世帯も重度センターから 出たメンバーと「太陽の家」にいたメンバーが住むようになった。俺と一緒に住むよ うになったのは農協リハで一緒だった友達だ。

アパートの名前は出資者の名前と皆の 思いを込めて「サクセスハイツマルコ」とした。

さて、5人でそのアパートに住むようになったのだが、障害のレベル的には5人とも似たりよったり。車いすから落ちれば誰も自力で上がることもできない。住んでいる者同士が手伝っても上がることはできない。

そこで、個人タクシーの運転手さんの知り合いに頼んで、車いすから落ちたときには電話をしてふたりで来てもらい、1人に1000円ずつ払って車いすに乗せてもらうという契約をした。

個人タクシーの運転手さんは4、5人いたので、昼夜関係なく24時間カバーすることができた。まあ車いすから落ちるという事態が、そういつもあるわけでもなく、保険のようなものだった。


重度センターにいるときに、家事訓練で料理を作る訓練もしたのだが、はっきり言って時間がかかる。まともな料理を作ろうと思えば2、3時間はかかる。

仕事もなにもせずにただ暮らすだけならそれでもいいが、俺はその頃、介護用品の販売をしていて、食事を作るのにそんなに時間をかけるわけにはいかなかった。

それで友達や知り合いを呼んで、5人分の食事を一緒に作ってもらうことを考えた。正確には、作り手の分もあるので6人分になる。その材料費を5人で分担して払う。要は、作り手は作る代わりに一緒に食事がタダで食べれるというシステムを作った。

これも朝昼晩というわけではなく晩飯だけだ。朝昼はパンを食べたり、出前を取ったり弁当を食べたり、ラーメンを作ったり、そういう生活だった。

初めは5人で食べるのもなかなか良かったが、やっぱり食べ物の好みもそれぞれ違うわけで、段々とそれぞれが別々に友達を呼んで食べるようなスタイルに変わって行った。

中には彼女ができて、その彼女に作ってもらう奴も現れた。俺もサクセスハイツマルコにいる間に何人か彼女が変わった。

そう、話は前後するが、重度センターを退所するときのことも話しておこう。重度センターを出て自分たちだけで自立生活をすると言ったとき、9割の職員は反対だった。「できるはずがない」と。

もちろん親たちもとても心配した。でも、俺たちの意 思は固かった。職員たちの言うことはよく分かる。なんといってもベッドや車いすか ら床に落ちたら上がれないのだから、誰が考えても無謀としか言いようがないわけだ。

ただし、リスク回避についてはそれなりに手を打っていた。タクシーを呼ぶのもそうだし、ふたりで1世帯というのもそのためだ。

ひとりになにかあっても、もうひとりが電話で救急車を呼ぶこともできるし、助けを呼ぶこともできる。これがひとりだったら、車いすから落ちて、発見するのが遅ければ命の危険性もあるわけで。

そしてちょうど電話機もコードレスフォンが出てきていたので、コードレスフォンを膝の上に乗せて、なにかあったら電話ができるようにもしていた。

もちろん大変なこともいっぱいあった。トイレを失敗して何度も風呂に入ったり、トイレと風呂で日が暮れるなんてこともあった。住んでいる仲間の中には、トイレに6時間という奴もいた。一日の4分の1をトイレで過ごしていたわけだ。

福祉制度が整っている今にして思うと、無謀この上ない話である。
この時代、重度の障害者は施設生活か、あるいは実家で親が生涯面倒をみるという のが常識だった。

今になって考えると、俺たちが始めたことは、家族、施設からの自 立、そして社会での自立への扉をこじ開ける作業だったのかも知れない。

施設の中で、これからの人生を過ごすことからの脱出だった。

かつて若き漫画家が集まり暮らした トキハ荘みたいなものだったのかも知れない。若さ故にできたことなんだろうな。

でも、これが自立生活の黎明期、なのだ。10年、いや20年先の礎であったことは間違いないこと。

YouTubeチャンネル↓

ユニバーサル別府


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?