自叙伝「#車いすの暴れん坊」#2 暴連坊の誕生
1970年代後半、時代の中心は団塊の世代からしらけ世代に移行しようとしていた。この頃の福岡にも、週末の夜ともなると、愚連隊や暴走族がアクセル全開で走り回っていた。
俺たちも、どこか無気力で、行き場のないエネルギーを抱えて天神の街をヤンキーと呼ばれる衣装を身にまとい肩で風を切っていた。俺はその頃からアウトローでいることが心地良かった。
でも、そんなことを思っていたのは、俺たちだけじゃなく、当然のようにぶつかり合いがあちこちで起きる。
そう、いろんな暴走族のグループから、ガンを付けただのと因縁を吹っかけられるのである。多くは2、3人から声をかけられることが多かったが、時に、漫画の世界のように、こちらはふたりに対して、相手は30人ということもあった。
当然、勝てるはずもなく、死に物狂いで逃げる。言葉にならない屈辱に地団太を踏むこともあった。
そこで考えた。高校、中学のときに仲の良かった悪そうな仲間に声をかけてグループを作ることにしたのだ。いや、グループというより、一定の目的を持ったチームを作ることにしたのだ。
思いついたらすぐ実行。まず名前を「博多暴連坊(はかたあばれんぼう)」と命名し、チームカラーをワインレッド、三つ葉銀杏の波紋を代紋とした。ご多分に洩れず、総長、副総長、行動隊長、新鋭隊長など7つの役職を決め、戦闘服も紺の戦闘ズボンにえんじの法被(はっぴ)とした。
時代錯誤と笑うかも知れないが、時は今から35年前、昭和の馬鹿者たち、いや若者たちの話なのだ。ちょっと前の子供の遊びはチャンバラで、テレビは水戸黄門あたりが大手を奮っていた時代である。
たぶん日本で最初に法被の戦闘服を作ったのは我が「博多暴連坊」だと今でも自負している。
背中にはいぶし銀の三つ葉銀杏の刺繍と暴連坊の文字を入れ、衿の部分には肩書と名前を入れた。
自分で言うのもなんだけど、格好良かった。そうそう、井の中の蛙、大海を知らないからできたこと。
それから天神の街や学校の連中に声をかけて仲間集めに奔走した。格好いい奴、イケてる奴、気は心でノリのいい奴、呼吸の合う奴と、最終的には確か100人くらいになった。
我が暴連坊には、いくつかの掟があった。女連れの男に喧嘩を売るな、シンナーや薬は禁止、万引き、たかりも禁止、喧嘩は徒手空拳、つまり道具は使わない。まだいくつかあったような気がするが、随分と昔のことだ。話を続けよう。
その頃の福岡の暴走族には、こんなチームがあった。暴連坊・紫・蠍・ヘルキャット・悪太郎・滅法・涙犯(ルパン)・悟空・アウトサイダー・餓鬼・邪悪(炎支部、零支部、影支部、幻支部、悪支部、罰支部、蛇支部、轟支部、魔支部、殲支部、鬼支部、流支部、涙支部)。そして、久留米が蝮族・外道。久留米もまだいくつかあったが、忘れてしまった。
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