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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#17 看護師さんとリハビリ

生死をさまようような事故である。ふつうなら事態は深刻を極めていないといけないのかも知れないし、俺も悲しみの中で動かない身体を受け入れられずに悶々としていなければならないのかも知れない。

しかし、俺の頭の中の現実は違っていた。ここ宮崎医大にはキレイな看護師さんがいっぱいいた。担当の看護師さんは特に美人で、俺をよく笑わせてくれた。恥ずかしながら、このハーレムのような環境が事故の深刻さをはるかに上回っていたのである。


さて、事故の影響かなにか分からないが、顔にニキビみたいなものがいっぱいできて痒くてたまらない。左腕が微かに動いた。その微かに動く手に、ギブスを作る材料で作った孫の手のような形をしたものに包帯をぐるぐる巻きにして、顔に当て、痒いところを自分で掻いたりしていた。

微かにしか動かなかったが、それでも痒いところが掻けるというのは嬉しいことだった。

入院して何週間か過ぎた頃に、首の固定手術をすることになった。頸椎の4番と5番というところが、損傷を受けているようで、そこにセラミックプレートを入れ、ステンレスのビスで止めるという手術だ。

首の後方からメスを入れた。手術から目が覚めると、人工呼吸器を付けられていた。当然、会話ができないので、文字盤を指差しながら会話をしようと、ICUの看護師さんに勧められた。

しかし、もともと俺は近視でメガネをかけないとほとんど見えない。そのことをたぶん看護師さんたちは知らなかったのだろう。一生懸命に文字盤を指すのだが、全然見えない俺は、自分の思っていることが伝えられない。

自分の思うことが伝えられないことが、これほど苦しいことだとは思わなかった。それで、やっと開く口で、
「バカ、バカ、そんなもん見えんのじゃ、バカ」
と言い続けた。

すると看護師さんもバカと言っていることが分かったらしく、バカって言っているの、なんでという顔をしただけで、俺の目が見えないことには全然気付いてもらえなかった。

そして、なにかあったときに呼びなさいと、微かに動く左手に鈴を付けられ、用事があるときはそれを振ってくださいと言われていた。

しかし、どうにもこの人工呼吸器と自分の呼吸が合わない。苦しくてたまらない俺は、ほとんど一日中その鈴を振り続けた。

そして、2日目にようやく呼吸器が外されたときに思わず叫んだ。
「俺は目が悪くてメガネをかけないと字が見えないんだよ。そんなことも分からないのか」
と。看護師さんたちは苦笑いをしながら、ごめんごめんと言っていたが、俺にとって は地獄にも等しい時間だった。

しかしながらタダでは転ばないのが俺のいいところで、 2日間、鈴を振り続けたお陰で手の動きが少し良くなった。これもやっぱりリハビリ というのだろうか。

その頃、俺の遊びというのは、顔を掻くギブスの材料で作った孫 の手をベッドの下にポロンと落し、看護師さんが近寄って来ると、それでスカートを めくるという遊びだった。

もちろん全然めくれるはずもなく、
「米倉さん、頑張ってめくりましょうね」
と、優しい顔で看護師さんも微笑んでくれた。その後、全力で頑張ったことは言うまでもないか。


今となっては時効だが、俺は 14歳の頃から煙草を吸っている。やめようと思ったことは1回もなかった。

当然、寝たきりの状態で車いすにも乗れず、ときどきベッドのまま、宮崎医大の中を散歩に連れて行ってもらった。

そのときに付き合っていた彼女がいて、彼女がベッドを押してくれるのだが、煙草の自動販売機の前に来ると、煙草買ってと頼む。しかし肺活量も1200くらい(一般成人男性3500)に落ちていて、お医者さんからは死んでもいいと思うのなら吸ってもいいと言われていた。

しかし、どうしても吸いたくて何度か頼んだが、彼女から煙草を買ってもらえることはなかった。

3か月経った頃だろうか。担当医からまた残念な宣告を受ける。
「あなたは頸椎の4番と5番を損傷しています。手も足もどんどん細くなって、車いすに乗ることも難しいかもしれません」

腹が立ったね。まだリハビリもなにもしていないのに、それなのにお前に俺の人生を決められるのかと悔し涙が出た。

でも、根拠もない変な自信もあった。なぜかというと、俺の場合は感覚が残っていたからだ。医学の知識のない俺は、感覚があるということは動く、リハビリをすれば動くと堅く信じていた。

だから身体はほとんど動かなかったが、右足、左足に力を入れる練習、要はイメージトレーニングをしていた。腹筋に力を入れ、背筋に力を入れ、もちろん入っている感じは全然分からない。膝を曲げる伸ばす。足首を上げる下げる。足の指をグーにしたりパーにしたりする。もちろん見た目ではピクリともしない。だがそれを毎日毎日繰り返す。とにかく、暇な時間は繰り返していた。


基本的に医大というのはリハビリをするような病院ではない。手術が終わり急性期を過ぎると、他の病院に転院になる。宮崎医大から次にどこか転院しなくちゃいけないとなったときに、まず思い浮かんだのが、福岡県飯塚市の脊損センターだった。

ここは脊髄専門の病院で、全国でも有名な病院だ。ただ、ここにも病院システムの落とし穴というか、ルールが存在していた。脊損センターでは、急性期、つまり手術をするとか、手術をしてすぐの患者しか受け入れてもらえない。リハビリを開始した人は受け入れてくれないのである。

医大ではリハビリと言っても、腰から上に首を固定する装具を付けてリハビリ病棟に行って、可動域を動かしてもらうくらいだったのだが、それでも脊損センターに入ることはできなかった。

それで医大から別の病院に紹介してもらった。たぶん系列の病院だろう。宮崎の川南町というところにある国立療養所、ここに転院することになった。

この病院は昔の陸軍かなんかの病院のあとで、それなりにリハビリ施設もあった。ただ、とても田舎の病院で、あまりキレイなイメージではなかった。

怪我をしたときは体重も 80キロくらいあり、身長も180とデカかった。川南の病院に着くなり、シーツごとストレッチャーからベッドに抱え上げられる。6人がかりだった。これから世話になるよ。

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ユニバーサル別府


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