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自叙伝「#車いすの暴れん坊」#16 交通事故

伯父の会社に入って3年。もともと不動産の営業とか、そういう営業畑での仕事をするように社長からは言われていたのだが、まずは現場を知ることということで、現場監督をしていた。そろそろ営業の方に変わろうかという矢先に、人生を大きく変えることになる交通事故が起きた。


緩やかな左カーブを居眠り運転で曲がれず、民家のブロック塀に激突。ちょうど事故現場の上の丘に、祖父母の家があって、家のまわりで、なんか下で事故がありよるよと騒いでいるところに、警察から電話があったらしい。

親父とお袋は福岡に住んでいたのだが、タクシーで宮崎の病院まで駆けつけたらしい。

ブロックに激突した直後に目は覚めたのだが、どうしても身体が動かない。まあなんで動かないのかも分からないまま、また気を失ってしまった。

次に目が覚めたのは、救急車でレスキュー隊が来て、電動カッターで車体を切り、俺を車から出そうとしているときだった。俺は助手席の方に倒れ込んでいたので、
「なんで俺が助手席いるんや、俺が助手席におるってことは運転手が別におるはずや、探せ」
と言った。しかし、
「あんた以外誰も乗っていない」
という。

混濁した思考の中で意識は薄らぎ、次に目が覚めたのは、個人病院のベッドの上だった。

目が覚めると周りに、両親や親戚連中が集まっていた。そこで聞こえてきた会話は、
「頭の後ろがぐっしゃり潰れているんで、もうダメやろう」
とか、そういう話だった。

その会話を聞きどう感じたのかさえ覚えていないが、後で分かったことは、その話は他に事故で搬送された患者の話で、自分のことではなかったということだった。

ただ夏の暑い盛りの7月6日、病室も暑かったのか体温調節機能が働いていなかったのか分からないが、もう喉はからからで水が飲みたい、冷たいジュースが飲みたいと思っていたことを覚えている。

しかし、手術をするのであれば、水が飲めないということで、ガーゼに水を含ませて、口で舐める程度しかできなかった。

その後、個人病院ではどうにもならないということで、大きな病院を探したのだが、なかなか受け入れてくれる病院がない。

福岡の脊損センターという脊髄損傷専門の病 院があるということで、自衛隊のヘリに頼んで、搬送してくれるということになった のだが、今度はついて行く医者がいない。

そんなときに、うちの親戚に宮崎大学の教 授がいたので、そこに連絡をして受け入れてもらえることになった。

ところが消防と いうのも面白いシステムで、各市町村で区域外になると、その度に救急車を乗り換え ないといけないという。

うちの爺さん、怒ったね。さすがに。そんなことしていて孫 が死んだらどうするんだと。もっともな話だ。各市町村をまたぐ度に、救急車に載せ 替えていたら、いつ着くことか。結局、話し合いの結果、1台の救急車で宮崎大学ま で行くことができた。


宮崎大学でレントゲンを撮ると、レントゲンで見た感じでは、骨がずれている様子ではない。たぶん首の骨、頸椎がガクッとショックでズレて、その後また元に戻ったんだろうということになり、その場は器具で頭を固定して、後日、首を固定する手術をすることになった。

こめかみのところにメスを入れて、ドリルで穴をあけ、錘で釣って首が動かないように固定するのだが、なんの知識もない俺は、そんなことをして脳に傷が入らないんだろうかと不安になって、担当医に聞いた。「いや、頭蓋骨は二重になっているから大丈夫だよ」と、軽く流された。


さあ、それから毎日、寝たきりの生活の始まりである。腕も足も力を入れてもピクリともしない。暑さで顔にニキビができて痒くてたまらない。食事は介助で食べられるのだが、顔にボタボタ汁が落ちたりして、嫌気がさす。食欲もほとんどなかった。

食べられるものと言えば、見舞いに持って来てもらったメロンや果物くらい。食堂のラーメンをとっても、ラーメンが上手く食べれずイライラは募るばかりだった。

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ユニバーサル別府


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